黙ってそっと出かけようとしたら、なぜか目の前でカレンが機嫌の悪そうな顔をして立っていた。腕まで組んで師を睨みつけている姿。見覚えがあり過ぎて嫌になってくる。 「お前なぁ……」 「私から逃げられるとでも? 甘いんだ、師匠は」 「うっせぇよ」 数日前、イメルがイーサウまで跳んできた。あの長かった髪はばっさりと切られて見る影もない。フェリクスにやられた、と彼は言う。そしてそれだけで済んだことにエリナードはほっとする。イメルも同様だった。ひどく後悔していた彼。それでもまだ認識が甘い、とフェリクスの弟子は思わざるを得なかったけれど。 そのイメルからの依頼、否、リオンからの。エリナードに向けての伝言は一言だけ。時間稼ぎをしてほしい。ただ、それだけ。それでエリナードには充分だった。そしてイーサウに、ではなく自分個人に言ってきた意味までエリナードは理解する。 「ヘッジさんには言わなくっていいって、リオン師は仰っていたけど」 覚束ない表情のイメルにエリナードはきっぱりと断言する、言わなくていいではなく、言うな、と。それくらい言わねばイメルは口を滑らせかねない。説明はアリルカで聞け、と言い捨ててエリナードは仕事にかかる。イメルもまた忙しそうに帰っていった。 そしてエリナードが作り上げた様々なもの。それを携えてこっそりと出かけるつもりだったものを。長い溜息は可愛い弟子が無視をした。 「エリン。あんた一人じゃ心配だ。お嬢を連れてけって」 そしてライソンまで。背後を振り返り、エリナードは愕然とする。ライソンが自分の前で気配を消していたことなど絶えてないものを。 「なんだよ。信用ねぇな、おい」 「あるわけねぇだろ、いまのあんたに」 「カレンのほうが――」 「違うっての。お嬢がいりゃあんたは無茶しないだろうが。抑止力ってやつだな」 不満そうなカレンの唸り声。手伝いが立派にできるのに、そんな彼女の声をエリナードが今度は無視する。助力になるのは知っている。すでにもうカレンは自分の高弟と言っていい程度まで使える。だからと言って、こんな仕事に手を染めさせる師がいるものか。そして気づく。だからこそカレンを連れて行けと言われているのを。カレンが側にいればぎりぎりのところでエリナードは踏み留まるとライソンに見透かされている。小さく肩を落とした。 「手段を選んでられる――」 「状況じゃねぇのはわかってる。それでも、あんたが無茶苦茶やらかして名を落として。それで氷帝は喜ぶか?」 「汚ぇぞ、ライソン」 「知ってるよ」 ぶっきらぼうな声音の中にある懸念。エリナードは無言でカレンに手を伸ばす。嬉しそうに取られた手。そしてそんな自分に気恥ずかしくなったのだろうカレンが慌てて咳払いをした。 「行ってくる」 「おうよ。土産はあんたな?」 「やらしいこと言ってんじゃねぇよ!」 笑ってエリナードは詠唱する。すぐライソンは掠れて消えた。跳んだのは自分のほうだというのに、ライソンが消えてしまったような妙な不安感。ぐっと腹に力を入れて首を振る。 「師匠」 「なんでもねぇよ。行くぜ」 心配されているのは知っている。どうにもならないものがここにある。せめてだから、仕事は完遂したい。 ヘッジが何を言ってくれたのか知らないが、あれ以来わざわざ学院まで来て嫌味を言うような輩は減った。が、イーサウの隅々までエリナードの名声が響き渡っているわけではなかったし、彼がなにをどう考え動いているのか知る者も多くはない。結果的に以前と大差はない状況だった。師を見捨てた男と言われようともエリナードはかまわない。いずれ知るべき人間は知ることになるし、知っていてほしい人はすでに知っている。それでよかった。 だから当たり前にエリナードは仕事をしていた。誰が見かけてもエリナードは立ったまま書き物をしていたり、荷物の手配をしていたり。とても魔術師らしいとは言いがたいその姿。 「――私を騙せると思ってるあたりが甘いんですよ」 ぼそりとカレンが悪態をつく。さすがに弟子には見抜かれていたか、とエリナードは苦笑しつつ足を進めていた。昔暮らしたラクルーサの王都アントラル。夜も更けて、もう人出もない。顔を隠す必要もないほど誰もいない街路をカレンと二人、ぶらぶらと歩いていた。 「何してたかわかってるってか?」 「魔法具作ってるのくらいは見りゃわかりますよ。私だって師匠の弟子だ」 「だな」 あっさりとうなずけば、カレンの驚いた気配。あまり真っ直ぐに褒めることをしないエリナードだったからカレンは照れたらしい。そうやって照れられるからこそ、褒めにくいと言うことがこの弟子にはわかってもらえない。 「でも、なに作ってたんです?」 「時限式の各種魔法具だな。発動条件をけっこう色んな手順で組み込んでる。ちなみに証拠隠滅機能付」 「なんですか、そりゃ」 「だから発動したらさっさと消えるようになってんだよ。誰がやったかわかんねぇようにな」 「あぁ、そう言うことですか。そこまで?」 「おうよ。俺の名が表に出るとヘッジさんが迷惑するしな。だいたい依頼は時間稼ぎだ。だったら表に出るのは?」 「大師匠?」 「そう言うこと」 「いいんですか?」 フェリクスの了解など取っていないだろうとカレンは言う。取れる状態ではないと知りつつ彼女は言う。そして後悔したのだろう、わずかにカレンはうつむいた。 「いいんじゃねぇかな。俺がなにするかあの人はだいたい予測してるさ。ぶっ壊れてても、手足の動かし方まで忘れるような男じゃねぇよ」 「――そんな言い方。いえ、すいません」 気にするなとは言えなかった。エリナードも自覚がある。自ら痛む傷を何度も押すにも似た行為だと。カレンがそれをたしなめているのもわかっている。それでも。どうにもならなくて黙ってカレンの頭に手を乗せる。 「よしてくださいよ、もう。子供じゃねぇんだから」 「なに言ってやがる。いつまで経っても小娘だってーの」 ふふん、と鼻で笑っても涙が出そうだった。カレンと交わす言葉の一つ一つが過去のフェリクスと自分の会話に聞こえてしまって。 カレンもそれを理解したのだろうか。彼女を目の前にしているというのに違うことを考えている師だというのに。いまは放っておいてやると言わんばかりのカレンにどれほど救われていることだろう。それに応えるためにも仕事はする。 闇にまぎれて魔法具を仕掛けていった。貴族の屋敷、大きな商家。人が集まる広場にも。無論、王宮にも。 「……さすがに、緊張した」 王宮から逃亡したときにカレンは詰めていた息を吐きつつそう言った。胸がどきどきしているのだろう、押さえて青い顔をしている。 「そうか? 俺は慣れてるからな」 「こんなこと、慣れねぇでくださいよ」 「違うっての。場所のほうだって。何せガキん時から長いこと暮らした場所だからよ」 振り返ってももう見えない。王都が闇に沈んでも王宮だけは明るい。連夜の宴でも開いているのだろう、あの王が。決して戦時の喧騒ではない。戦うことを知っているエリナードだから区別はつく。 「私はそんなに長くなかったですからね」 「十七まであっちだろ? けっこうじゃねぇか」 「でもないですよ」 師匠に比べたら。言わなかったカレンの言葉。エリナードには聞こえてしまった。カレンはせいぜい十余年。自分は。思ってしまう。思えばフェリクスとタイラントが浮かんでしまう。強く首を振りエリナードは郊外へと再び跳んだ。ラクルーサ王都に水を供給している川の上流だった。ここで魔法具の最初の発動をする。緊張した面持ちでカレンが見ているその眼差し。不安ではなく、魔術師の目。それにエリナードは内心で微笑む。 「よし。あとは時間待ちだな。帰るぜ」 「いいんですか?」 「三日も四日もここでぼーっとしててもしょうがねぇだろうが」 言えばカレンが驚いた。時限式と言っても逃走時間を稼ぐ程度にしか思っていなかったらしい。エリナードはにやりと笑い、イーサウに戻る。そしてそれにもカレンは驚いた様子だった。家に戻ったのではないから。 「師匠。間違えやがったな?」 「てめぇは師匠をなんだと思ってやがる。いいから先帰ってな」 犬の仔でも追い払うようにエリナードは手を振った。そこはタウザントの森の奥。豊かな清水が湧き出して泉となっていた。むっとしたカレンではあったけれど、どうやら素直に引き下がるつもりらしい。気配が消えたのを確かめてエリナードは裸になって泉に浸かる。冷たい水に身震いがしそうだった。それが心地よい。長く息をつく。どれほどの時間、ゆらゆらと水に揺られていただろう。濡れた髪をかき上げて水から上がれば、機嫌の悪そうなカレンが浴布を持って立っていた。 「男の水浴びを覗く趣味でもあるのか?」 師弟で同居で、しかもエリナードは同性にしか興味がないとカレンも知っている。だからこそ遠慮もなにもなかった。突き出された浴布で体を拭えばひどく温かい。体が冷えきっているらしかった。 「ほっとけるわけねぇでしょうが。師匠、気がついていないんですか。ほとんど暴走じゃねぇか」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ、誰が暴走だ」 「あんたがだ!」 怒鳴るカレンに苦笑する。どうにも四代にわたって自分たち師弟は口の悪さまで継承してしまったらしい。 「俺じゃねぇよ。――師匠だ。あの人と俺とは、精神に直通の回路があるも同然だからな。あの人が暴走してりゃ、俺も影響は受ける。どーにもならん。俺が、慣れるしかない」 目をつぶれば、フェリクスの顔が浮かんだ。彼は感情のほとんどを失ったとイメルは言った。よく笑う男だったのに。その半身を失って、フェリクスは。途端にばちりと両頬が痛んだ。 「お前なぁ。何しやがる」 両手で頬を挟むなどと言う甘いことをしたわりに力が強すぎた。おかげで同時に叩かれでもしたかのよう。否、叩かれたのだろうとエリナードは思う。 「だったら、監視は私の役目ってことっすよね、師匠? だから、逃げるな、追い払うな! ……ここに、いますから」 真っ直ぐと見つめてくる黒髪の娘。エリナードは小さく笑う。 「わかったから、裸の男に迫るんじゃねぇよ!」 そんなことはしていない。喚く弟子の声を心地よく聞く。カレンを連れて行け、言ってくれたライソンの言葉の意味がようやくわかった気がした。 |