いまもエリナードの魔道原書の表紙を飾る三つのメダル。はじめて造形に成功したそれを個人印にすればいいと笑って褒めてくれたのはカロルだった。星花宮を追放されるとき、息子の息子は孫だろう、と送り出してくれたのもカロルだった。 そのカロルが逝った。フェリクスのリィ・サイファの塔の継承。嫌な予感などまったくなかった。カロルが己の命の時を知るからこそそうしたのだとは、考えたくもない事実だったと今更ながらに思い知る。 そしてエリナードは学院に力を入れることになった。星花宮の危機を身に迫って感じた。カロルを殊の外に恐れていたあのラクルーサ王のことだ、いまならば星花宮を打倒できると攻勢に出てもおかしくはない。 「氷帝に家買ってやれるようにさ、金貯めようぜ、エリン。タイラントさんとの愛の巣、買ってやろうぜ」 そう言ったのはライソンだった。同居は勘弁だと笑いながら。ライソンもまた、星花宮の危機を感じていたのだろう。それでいて、そうやって笑ってくれた。だから自分は進んでこられた。 イーサウ魔法学院は、方向転換をした。いままでは魔術師の卵を主に受け入れたものを、イーサウの子供たちにまで門戸を開く。魔力のありそうな子供をエリナード自ら勧誘しもした。それも軌道に乗って、順調だった。まだまだ若いカレンは自分などに務まるわけはないと抗議しながら小さな子供たちを導いていた。カレンお姉ちゃんと言われて満更でもなさそうだった彼女。手伝ってくれているアランまで微笑ましげに見ていた。 その最中だった。タイラント・カルミナムンディ暗殺。 何もかもが順調で、これならばいつ師が逃げてきても大丈夫。そうも思いはじめていたときに与えられた痛撃。 星花宮の魔導師たちはほとんどイーサウに、エリナードの元に逃げてきた。リオンの指示だった、とイメルは言った。 「……師匠」 久しぶりの帰宅だった。魔導師たちへの指示、イーサウとの内密の折衝。何もかもがすべてエリナードの肩にかかった。じっと己の手を見る。この手に、フェリクスから預けられた魔術師たちの命。 「あの、馬鹿親父め」 エリナードは見ていない。いまのフェリクスがどんな状態かも本当のところは知らない。それでもわかる。わかってしまう。 フェリクスが、タイラントを殺されたその同じときに逝ってしまったと。自分の心の中にいつもあったフェリクスの気配めいたものがない。否、ありはする。けれど完全に沈黙していた。何より雄弁なその沈黙にいまエリナードは応えることを求められている。 求めることも忘れてしまった師だった。なにもかもを捨ててしまった師だった。弟子なのだから、息子なのだから手を貸せと言えばいいのに、言えない師だった。 「それだけは、言えねぇよな。あんたは」 息子だからこそ。タイラントと自分がいて、イメルがいて。フェリクスにとっての家族だった自分たち。いまのフェリクスは断じて息子の顔など見たくはない。それがエリナードにはわかっている。あの輝かしかった日常を目の当たりにすれば、フェリクスがどう感じることか。エリナードには己のことのようわかってしまう。 そっと胸元に手を当てた。答えないフェリクスに、何を問いたいのだろうと思いつつ。今どうしているのか。何を望んでいるのか。 「違うな――」 どうしているのかはわかっている。フェリクスは、壊れている。何を望んでいるのかも知っている。復讐がしたい。ならば、自分は。 「保持か、助勢か」 フェリクスから託された命をこのまま繋いで行くこと。フェリクスの復讐には関与せずに。あるいは、間違いなく起こすだろう戦闘に手を貸すか。無論、顔を出せることではない。蔭からだが。イーサウがどうのではない、フェリクスが自分の姿を望まない。 イーサウは表立ってフェリクス支援に立たないと決議した。転じてそれは裏側では思い切りやると言う意味だったが。エリナードはそれに加担できる立場にいる。もう一つの手段として、エリナードが元星花宮の魔導師を率いて戦闘に参加すると言う手もある。表にはイメルでも立てればいい。 いずれとも決めかねている。アリルカの未来がいまだ不明であることが主原因だ。アリルカは今後どうするつもりか。いずれ遠くないうちに半エルフのエラルダから何らかの連絡があるだろうとエリナードは思っている。それを待つエリナードは、けれどすでに非難にさらされていた。 そしてアリルカからの連絡は、リオンの学院訪問という形でなされた。星花宮の魔導師たちに参戦を促すとリオンは告げた。一番に声を上げたのはイメル。断固として参戦しないと表明したのはエリナード。ここでも、非難にさらされた。それでもリオンは理解してくれた。お前だけがフェリクスの心を汲んだと言ってくれた。 だから立っている。いまもまだ、立っていられる。じっと自宅の闇の中、エリナードは一点を見つめつつ立っている。イーサウの中でもエリナードの名声は地に落ちた。自らの師の危機に駆けつけもしないなど、なんと言う弟子か。そう言われた。 「知るか、そんなもん」 嘯いても、心は軋んでいる。知りもしない他人が何を言う。叫んでまわりたい、本当は。知っているはずのイメルまで、自分を非難したのだから。 片手で顔を覆い、エリナードは立ち尽くす。ライソンは眠っているだろう。もしかしたら起きているかもしれない。それでも一人にしてくれた。働き詰めで、それでも非難をされて。ただフェリクス一人のため、エリナードは立っている。何もできない、する気もない、復讐だけを口にして動く死体となっているフェリクスのためにエリナードは立ち続けている。 「馬鹿親父め」 何度呟いただろう。何度も口にして、何度も叫びたくなって。それでもフェリクスは還らない。イメルは言った。殺されたのはお前の師ではないと。何もわかっていないのはお前のほうだと言いたかったものを。あの場で何を言ってもたぶんきっと誰にもわかってもらえない。この胸の中にあったフェリクスの気配が、師の心がなくなってしまった、それがどういうことなのか、エリナード以外にはわからない。 顔を覆っていた手を外せば、零れる涙。エリナードは握った拳で強引に拭う。それでもまだ目は一点を見ていた。 いつか遊びに行くよ。そう言ったフェリクスのために作った転移点。一度も使われることはなかった。フェリクスのためだけに調整したそれは、他の誰が使えるものでもない。だからそのまま残しておいてもよかった。別にわざわざ破壊する必要もない。この手で壊したのは、きっと。 不意にエリナードは振り返る。ぎょっとしたよう身をすくめたカレンがいた。隠れて様子を窺っていたのだろう。心配させてしまったらしい。苦笑をすればまた名残の涙が頬を伝う。 「ったく。覗き見してんじゃねぇよ、みっともねぇとこ見られたじゃねぇか」 ごしごしと顔をこすってカレンに苦情を。けれど内心では知っている。自分も同じことをしていたと。フェリクスを何度影に隠れて見ていただろう。心配であったり、憧憬であったり。いま同じことをカレンがする。 「師匠――」 「なんだよ? さっさと寝ろよ、忙しいんだからよ」 「師匠こそ」 言いつつカレンがつかつかと歩み寄ってきた。そしてそのまま肩を掴まれ覗き込まれ。いまだ赤いだろう自分の目をエリナードは見られたくないというのに。けれどカレンは容赦せず、肩を掴んでいた手で今度は頬を包む。 「泣きたきゃ、泣けばいいじゃないですか。なに痩せ我慢してんですか。なにもわかってねぇ他人が師匠のことごちゃごちゃ言うのだって、反論すればいいじゃないですか。やってる暇がねぇってんだったら私がします。それくらいやれって言えばいいじゃないですか。なんで全部なんでもかんでも抱え込むんですか」 「おい――」 「師匠。私は師匠がいまどんな思いかは知りませんよ。想像もできない。だから、やれって言ってください。なんでもしますから。私だってライソンさんだって」 「……生意気言ってんじゃねぇよ、この馬鹿弟子が」 「言わせてんのは誰ですか」 むっとしながら覗き込んでくる黒い目の娘。黒髪黒瞳だったフェリクスを嫌でも思い出す。いままで一度としてそんな風に感じたことはないというのに。 「師匠の、心づもりだけ聞かせてください。あとは勝手に動いた方が早いや」 「今更なに言ってやがる。俺はイーサウで動く。師匠の手伝いはしねぇよ」 「こっちで手伝うってことでしょ。大師匠はきっと、それがわかってるから師匠にはなんにも言わねぇんだ。そうでしょ?」 「っとに、生意気言いやがってよ!」 「師匠が大師匠の手足なら私は師匠の手足だ。そう言ったじゃねぇですか」 からりと笑う黒髪の娘にエリナードは苦笑する。そのつもりだった。気づけばじっとその肩に額を預けていた。たどたどしい手が自分の頭を撫でている。カレンも混乱しているだろう。大きく息を一つ吸う。 「――師匠。一人じゃねぇですから。私がいますから」 「そこはな、ライソンもいるって言うべきだろうが。お前、見られたらなに言われっかわかんねぇぞ?」 「それは! そんなの言うまでもない自明ってやつで! 師匠!? 弟子をからかえる元気があるなら平気ですね! ったく、心配して損したわ!」 夜中だというのに声を荒らげ、はたとカレンは黙る。眠るライソンを慮ったのかもしれない。ただエリナードはすでに気づいている。ライソンは起きている。そして成り行きを窺っている。そして自分が出る必要はない、と見定めたのだろう。伴侶と弟子と。見守られているのを感じる。 ――俺がいますよ、師匠。まだ、俺がいます。 呟いてみる。答えはない。フェリクスが失ってしまった最愛の伴侶。彼の魂の半身。己の息子まで振り捨てて、フェリクスもまた遠くに行ってしまった。 「……師匠」 「なんだよ?」 「師匠は、大丈夫、ですよね?」 突然にカレンが見せた不安。いままで耐えていたのかと知る。エリナードは黙ってカレンの肩を叩いた。なんのかんのと言いつつ男女の師弟だからだろうか、フェリクスが自分にしてくれたよう気軽に腕に抱いてやったことがあまりない。 「なに言ってやがる。俺を誰だと思ってんだ。お前が俺の心配するなんざ百年早ぇよ」 言ってしまってから、言葉がエリナードを刺し貫く。いつかフェリクスが自分に言った言葉だった、それは。 |