世界の歌い手にして風系魔法最強の使い手、そして呪歌の開発者、タイラント。その手にかかればフェリクスの疲労などみるみるうちになくなって行ってしまう。実際、エリナードが三日かけて多少はよくなった、と言える程度に戻したものをタイラントは半日とかけずほぼ全快させている。 それでものんびりとしたものだった。顔色のよくなったフェリクスであっても星花宮に帰ろうとはしない。タイラントもまた。寝て食べて、なんでもない話をして。三人で過ごす、不思議な休暇のよう。 「忙しいんじゃねぇんですか」 「忙しいけど?」 「だったら――」 「エリナード。諦めろ。シェイティは君と遊びたいんだ。全部投げ出しても君と遊ぶ時間が欲しいんだからさ。付き合ってあげなって」 豪快ぶって言った直後、タイラントが悲鳴を上げた。エリナードにもフェリクスがいま何をしたか、見えもしなければ聞こえもしなかった。 「あぁ、師匠。元気になったんだ」 思わず呟いてしまえばタイラントがげっそりとした顔で溜息をつく。その横でフェリクスが笑っていた。気に入ったのだろう、エリナード手製の氷菓をまた食べている。あまり食べすぎると体が冷える。言おうとしたけれどタイラントに笑われそうでやめた。 「ほんと、君ってさ。シェイティの息子だよなぁ。なんでそこで元気になったって喜ぶかなぁ」 「いや、こんだけのことができりゃ元気かと」 「そりゃそうなんだけど。たまには俺の心配もしてくれると嬉しいんだけどなー」 「心配? してますよ」 「ほんとに?」 いかにも疑わしい、と言わんばかりのタイラントの目。それをフェリクスが微笑んで見ている。もちろん、タイラントが気づくより先に渋面を作るのも忘れない。そんな優しい顔は本人に直接見せろ、とエリナードは声を大にして叫びたい。 「それで、エリィ?」 「なんすか」 「学校の話だよ、学校の話。後で聞かせてくれるって言ったじゃない」 タイラント到着直後に約束した話だった。あれからすでに二日が過ぎている。もうフェリクスもさほど体調が酷くはなさそうだった。 「話って言われましてもね。たいしたもんでもねぇですし」 「そうなの? イーサウに星花宮を作るつもりかと思ってた」 「まさか」 エリナードは否定する。それはフェリクスの本心か、と目顔で尋ねれば師の目がにやりと笑う。ただ、どちらでもいいよ、とも言っていた。 「実際問題として、無理ですね、現状は。なんてったって、まともな魔術師が俺一人だ。全部やるのはどう考えても無理ですよ」 星花宮のような教育をするのならば、最低でも四大属性の師が揃わなければ無理だ。今のところいるのはエリナードと言う水系魔術師一人だけ。これではいくらなんでもどうにもならない。 「将来的にはどうなのさ。むしろ、イーサウにその土壌はあるのかってところかな」 ふっとエリナードは内心で笑う。いまだタイラントにも策の全貌を告げてはいないらしいフェリクスだった。だからこそ、そんな言い方になる。が、結局のところフェリクスの問いは一つ。イーサウは、安全か。最悪の場合、魔術師の避難所足り得るか。エリナードは首をひねって見せる。答えは決まっていた。 「何度か師匠、遊びに来たじゃないですか。そんときにも見たでしょ。イーサウは魔術師忌避が少ないですね。だから、もし人材が揃えば可能ってところかな。まぁ、いまんところ揃う見込みが絶無ってとこが問題なんで」 「カレンはどうなの」 「んー、どうかなぁ。俺はまだあいつ一人しか見てませんけどね。だから、今後のことはわかんねぇですけど――」 「いいからエリィ。答えを言って」 癇性なフェリクスの言葉をタイラントが笑う。話が遠い、といつも笑われているタイラントだった。無論、エリナードは意図してやっている。フェリクスがそれを楽しんでいることも知っている。 「へいへい。まぁ……あれかな。このまま行ったら、あれが俺の跡継ぎかな、とは思ってますよ」 「へぇ。カレンって、前に俺が遊びに行ったときに会った子だよな。ミスティが見てた女の子。なんて言うか……すっごい男前な。あの子かぁ」 タイラントの感心にエリナードは顔を顰める。実は弟子を褒められて意外なほどに嬉しい。それを悟られたくなかったからだったのだけれど、フェリクスには当然にして気づかれていた。 「男前って、タイラント師。ありゃがさつなだけですよ。ほんっと、なんであんなに大雑把かね」 「でも君は認めたんだろ?」 「まぁ。――カレンは、とにかく魔法が好きなんですよ。先に先にと行きたがる。手綱を締めるのも一苦労だ。――師匠、どう見ました?」 瞥見した程度ではあるが、カレンを知らないではないフェリクスだ。その評価が知りたかった。胸の中がどきどきとする。そんなエリナードをフェリクスが笑った。 「面白い子だと思ってるよ。あなたに憧れて、続きたくって、いつか抜かしてみたくって。どっかの誰かさんを思い出すよね、エリィ?」 「師匠!」 「僕はね、あなたにもあの子にも余計な負担はかけたくなかったからね、カレンには何も言わなかったけど。興味深い子だと思ってるよ。だいたい、弟子として認められて最初にするのが基礎の見直しってところがいいじゃない。だから先に進めるってことをちゃんと理解してる。先が楽しみな子だよ」 微笑んで言うフェリクスにエリナードは息をつく。たぶん、とエリナードは思う。フェリクスがよい評価を下さなくともカレンは自らの弟子、このまま導くつもりだしやはり可愛い。それでもこうやって褒められれば思っていたよりずっと嬉しくて安堵する。 「ね、エリィ? あなたはきっともうカレンに決めてる。いま僕が何を言おうと、自分の弟子なんだからって思ってたでしょ? ――エリィ、ちゃんとお師匠様してるじゃない。大きくなったよね」 フェリクスの呟きめいた言葉にタイラントがそっと顔をそむける。込み上げてきた笑いが隠せなかったらしい。遠慮もなにもあったものではない仲だ、エリナードは手近にあったクッションを投げつけた。 「なにするんだよ、エリナード!」 「笑うタイラント師が悪いんです」 「うん、同感。いまのはタイラントが悪い。エリィがちゃんとして頑張ってるのに、なにがおかしいのさ?」 「あー、はいはい。君たち師弟にかかると悪いのは全部俺です。空が青いのも雨が降るのも全部俺のせいです」 「そうでもないよ? 暑いのと寒いのはあなたのせいかなって思うけど」 悲鳴じみたタイラントの抗議。エリナードはそっと溜息をつきながら笑っていた。ひどく懐かしくて、なぜか泣けそうで。 「エリィ?」 こんなときでも鋭すぎるフェリクスの目は、隠したのにエリナードの感情に気づく。小さく苦笑すれば許さないとばかりの眼差し。 「いや……懐かしいなって。これでイメルのやつがいれば完璧じゃないですか。あいついま、どこにいるんです?」 一瞬だけタイラントが口ごもった。何かまずいことを尋ねてしまったか、エリナードは内心で慌てる。自分はいまだフェリクスの密命下にある。たとえ星花宮を離れていようと、そう思っている。ならばイメルもまた、タイラントから何らかの使命を下されていないとも限らない。 「うん、元気だよ。いまは……またミルテシア周ってくるって言ってたかな。あとは、そうだな。風系と水系の融合の研究、してるよ」 優しげなタイラントの声。そっぽを向いたフェリクス。エリナードは己の勘違いを知る。イメルの名は、タイラントにはいまだ痛みを伴うものであるらしい。 「タイラント師。生意気を言うようですけどね。俺は星花宮を出たことを後悔してませんし、けっこう楽しく暮らしてますよ。――だから、タイラント師もイメルのことで後悔するの、もうやめてくださいよ。なんか気まずいや」 笑うエリナードをフェリクスが見ていた。ほんの少し、目を瞬いた気がした。懐かしそうな、それでいて未来のような、そんなフェリクスの目。 「それでもね、君のことは――」 「いいじゃない、本人がもういいって言ってるんだから。あなたが気にしてたらイメルだって気にするじゃない。いい加減にしなよ、タイラント。それでエリィ。学校のことだけど、あの子、なんて言ったっけ、傭兵隊にいたじゃない」 「あぁ、アランですか」 そうだ、とうなずくフェリクスの横でタイラントが瞑目していた。タイラントは己の弟子の不始末だといまだに思っている。その上で、フェリクス師弟がタイラント師弟を許すもなにもない、そう告げていると知った。何を思うのか、エリナードごときにはわからない。ただ、もうつらい顔はしてほしくなかっただけ。たぶん、タイラントのためでもイメルのためでもなく、フェリクスのために。 「アランはいい魔術師ですよ。技術と知識は一流、超一流って言ってもいいかな。ただ、悲しいかな魔力が三流で。階梯を制限してやり合ったら俺でも危ねぇかなと思うくらい腕はいいんですけどね」 「あぁ、そうか。それだとちょっと属性特化するのは無理かな」 「ですね。汎用型の魔術師としてはこんなに頼りになるやつもいないですよ。――問題はもう一つ。あいつは狼の魔術師であって、俺のダチってだけで学院の手伝いしてくれてるんです。引き抜くとライソンが泣きますよ」 「泣かせれば? いいじゃない。あんなの。僕は知らないよ」 「また、そういうこと言ってさー。君だってライソンが嫌いじゃないだろ? けっこう心配してるのだって俺は――痛い痛い痛いから!?」 またやっていた。見慣れた景色にエリナードは大笑いをする。本当に懐かしくて、懐かしくて。笑いすぎて涙が出たと言わんばかりにして目尻を拭う。 数日ばかり、そんな風にして過ごした。フェリクスがいて、タイラントがいて。他愛ない話をして。フェリクスが塔の継承者として、メロール・カロリナの肖像作成の素案作りを見せてくれたりもした。 「いずれちゃんとしたのにするけどね。あなたも見ておいたら?」 それは自分の次はお前だと言うことなのか。エリナードは問わなかった。あまりにも自明過ぎて。精緻で緻密なフェリクスの魔法。素案だというのに今にも動き出しそうなカロルの肖像。タイラントがぎょっとするほど真に迫っていた。 「ん、そろそろ帰らないとさすがにまずいかな。休暇もおしまいにしないと」 「休暇だったんですかい!? 俺は呼びつけられた気がしましたけどね」 「でも休暇気分だったでしょ。中々気軽には会えないんだし。一応お互いに立場ってものがあるからね。大っぴらに逢い引きもできない」 「否定はしにくいですけど。つか、逢い引きのほうは断固として否定させてもらいますけどね! ――今度俺んちに転移点でも作っときますよ。そうすりゃ、面倒なやつに見られることもねぇや」 「あぁ、それはいいね。作っておいてよ、エリィ。さすが僕の息子だね。気が利くよ」 にやりと笑うフェリクスが手を振った。タイラントが肩をすくめて笑う。遊びに行くよ、もう一度フェリクスが言うのを聞きながらエリナードはイーサウに転移する。 それが、フェリクスと交わした最後の言葉になった。 |