エリナードの料理の腕前は可もなく不可もなし、というところだが、フェリクスにさせるよりはずっといい。なんでも器用にこなす人なのにフェリクスは料理だけがどうにもならない。たぶん興味がないのだろうとエリナードは思っている。その成果もあってか、三日もするとフェリクスの目の下の蒼黒さもずいぶん取れてきた。 「前よりおいしいかも。上手になったじゃない?」 そっとスープをすすっているのはいまだ疲労が取れないせい。エリナードは思う。フェリクスがここにいるときはいつもこんな顔をしていると。以前、正気を失った自分を心の中に抱え込んでくれたのも塔だった。 「そりゃ自炊歴も結構になりますからね。上達もしますよ」 「ふうん、そっか。あの子に作ってあげてるんだ、あなた」 「あの子? カレンすか? だったら作ってやってるってわけでもねぇな。うちじゃ三人で飯の支度は交代ですよ」 「違うよ、カレンじゃない。ライソン」 「あ――」 ふっと笑ったフェリクスに途轍もない気恥ずかしさを覚えてエリナードは目をそらす。それをまたくすくすと師が笑った。 「ねぇ、エリィ。今更だけど。後悔はしてないの?」 何事かと思う。が、問われている内容はわかった。にやりと笑い、エリナードは甘い菓子を差し出す。昔フェリクスがよく焼いてくれたのと同じ、干し果物入りの焼き菓子だ。味のほうは格段に上だったが。 「後悔? してねぇですよ。そりゃね、星花宮が懐かしくなることはありますよ。いまでも帰りてぇなぁって思うことだってある。でも、まぁ。なんつーかな」 「あれかな。お嫁に行った娘がたまには実家に戻りたい、みたいな?」 「ものすっごい語弊がある気がしますけどね。状況としてはそんな感じかな。俺は俺で、それなりに楽しくやってますよ」 「そっか」 手を離してしまった弟子をフェリクスがいまもなお悔いているのだとエリナードは知っている。そんな必要はなかった。 「ねぇ、師匠。あんた、俺を守れなかった、追放するしか守りようがなかったって、いまでも思ってんですかい」 「思ってるよ、悪い? 僕はあなたを守り切れなかった」 「いまこうして元気で生きてるのに? 師匠はちゃんと守ってくれたでしょうが」 ぽんぽんとフェリクスの手を叩く。長椅子に半ば横になったままの師だった。疲労が極まり過ぎて、そう簡単には元気になれそうにないらしい。 「いまもちゃんと、手を握っててくれてる。放り出してなんか、いないじゃないですか」 「――握ってるのはあなたでしょ。僕じゃない」 「誰が現実の話をしてんだ、このダメ師匠め!」 からからと笑ってエリナードは手を引こうとする。いつの間にかフェリクスに握られていた手だった。塔の継承で、魔力も体力も搾り尽してしまったのだろうフェリクスの手は、いつになく冷たくて骨さえ浮いている。 「あなたの手、あったかくって気持ちいいよね」 「師匠の手が冷たいんです。ほら、ちゃんと食って、もうちょっと寝たらどうです」 「お母さんみたいだよ、エリィ」 くすくすと笑うフェリクスに肩をすくめ、エリナードはどこからともなく毛布を取りだしては体の上にかけてやる。子供時分と逆だな、と内心で笑えば気づいたのだろうフェリクスもまた笑う。 とろとろと眠って、目を覚ます。辺りを見回してエリナードの姿を確認して、またフェリクスは眠る。よほど心細いのだろう。 「ったく。タイラント師を呼んでくれっての」 こう言うときに縋るのは弟子だろうが息子だろうが自分ではなく、タイラントのほうであるべきだろうに。 それでもフェリクスはエリナードとすごすのを選んだ。三日もすればエリナードにも察しがついてはいる。タイラントには、心底見られたくなかったのだと。ここまで憔悴した姿は見てほしくなかったのだと。 「ほんといまだに熱々じゃねぇか」 大切な大切な人だから、こんな姿は見られたくない。フェリクスのそれが気持ちだったのだろう。タイラントはたぶん、気づいているのだろう。だからこそ、まだ塔に彼は来ない。カロルからフェリクスが継承した事実を隠す必要はなかったし、すでに公表されていることだろう。それ以前にタイラントは知らされているはずだ。四魔導師の総意であるのだろうから。だからエリナードは思う。タイラントがここにいない事実こそが、彼のフェリクスへの心なのだと。 「なんか、羨ましいやね」 ふふん、と笑ってエリナードは新しい菓子を作る。正直に言って甘いものを作るのは苦手だ。自分がそれほど好まないせいだろう。ライソンは体を使う男らしく、甘いものが好きだ。訓練のあとはこれでもかと甘いものを食べている。それで少しは上達したようなもの。今は自宅にあった果物の蜜漬けを取り寄せて冷菓を作っている。このあたりは水系魔術師の面目躍如。氷などなかろうともどうにでもなる。 「あ、おいしい。甘くて、でもすっきりしてていいね。なにこれ、あなたの手作り? 蜜漬けから? 器用な子だよね、あなた」 目を覚ましたフェリクスが起きぬけに食べていた。喉が乾いたというからできあがったばかりの冷菓を持って行ったらよほど気に入ったのだろう、機嫌よく食べている。 「できりゃ蜜漬けじゃなくて菓子の出来を褒めてほしいですけどね。せっかく冷たいんだから」 「氷菓子はできて当然だからね、あなただって水系なんだし。僕の弟子なんだからできないはずがないでしょ」 「ま、それもそうですけどね」 そんなはずはない。それではフェリクスの数多いる弟子のすべてができることになってしまう。無茶な言いぶりでフェリクスが褒めてくれたのだと気づかないエリナードではない。知らず頬が熱くなる。 「エリィ?」 「なんでもねぇです!」 「ふうん? ほら、味見しなよ。おいしいよ」 「ちょっと、師匠!?」 元気になったと喜ぶべきだろうか。食べ差しの匙をそのまま口に突っ込んでくるのはやめてほしいな、とエリナードは思う。嫌ではないがカレンが知ったら何を言い出すかと思えば頭が痛い。 「……シェイティ」 もう一人いたか、とエリナードは心の中でがっくりと肩を落としていた。間の悪いことにタイラントが転移してきたところだった。 「あのね、タイラント。一々こんなことで泣きそうな顔するのはやめて。ものすごく目障りだから」 「――いや、師匠。その言い分はねぇかと。いまのは絶対に師匠が悪い」 「だよな、エリナード!? ていうかな、君! 君には立派にライソンって男がいるはずだろ!? なんでシェイティといちゃいちゃしてるんだよ!」 「タイラント師」 「なんだよ!」 「タイラント師は吟遊詩人でもあるはずです。それも世界最高の栄誉に輝いた世界の歌い手です。そのタイラント師が――なに言ってんですかい!? 俺と師匠がいちゃいちゃだ!? 言葉の定義がおかしいでしょうが!」 「別におかしくなかったと思うけど?」 ぼそりと言ったフェリクスをタイラントとエリナード、双方が睨みつけることになった。そして二人顔を見合わせて溜息をつきあう。折れたのは当然にしてタイラント。 「君は立派だよな。よくこんな師匠の面倒見てくれたよ」 「タイラント師のほうがすげぇと思いますけど? 俺はこの人の男は務まりませんし死んでも嫌だし」 「務められても困るけどね。――それで、シェイティ? ちょっとはよくなったの、それで? 弾こうか?」 うん、とフェリクスがうなずいた。先ほどまで機嫌がよかったのに、タイラントを前にするとこうだと思えばエリナードは笑いを噛み殺す羽目になる。すぐさま意識はそれて行ったけれど。世界の歌い手の演奏がはじまっていた。眠りに誘われるような、それでいて目覚めて行くような。相反する音楽でありながら、染み込んでくる。 「あ……。薬草園だ」 星花宮にあったあの薬草園。子供のころのエリナードの遊び場、否、イメルと二人の遊び場。芳しい薬草の香りが漂った、そんな気までした。そしてみるみるうちにフェリクスの顔色がよくなってくる。 「はじめからタイラント師に頼めばよかったでしょうに」 「違うよ、エリナード。君がシェイティを元気にしてくれたから、効果があるんだ。俺だけじゃこうはいかないからね」 にこりと微笑まれてエリナードは身の置き所がなくなりそうだった。フェリクスに褒められるのは慣れていても嬉しい。が、タイラントにこうも言われるのはどうにも気恥ずかしさが先に立つ。 「ちょっと、うちの子を誘惑するの、やめてくれる?」 「誰が誘惑だよ!? ていうか、君。絶対わかっててやってるよな!?」 「うん。もちろんわかってるよ。僕の可愛いちっちゃなタイラント」 「あー、俺。そろそろ帰っていいすかね」 「まだだめ。そう言えばエリィ、学校作ったんだって? その話まだ聞かせてくれてないじゃない。話してよ」 まるでお話をせがむ子供だった。内容はそんな長閑なものにはなりそうもなかったが。だからこそエリナードは拒む。 「だめです。まだ帰んねぇから、だからもうちょっとちゃんと起きられる程度になるまでお預けっすよ」 「そうそう、エリナードの言うとおりだよ、シェイティ? こんな酷い顔してさー」 「うるさいなぁ、もう。わかったよ。タイラント、持っていって」 何をだ、とエリナードが疑問に思う間もない。ひょい、とタイラントがフェリクスを抱き上げた。それは持って行って、と表現するようなものなのか、と首をかしげているエリナードをタイラントが笑った。 「君も忙しいだろ? 悪かったな。でもまぁ、師匠の我が儘だと思って、もうちょっと付き合ってやってよ」 「気にしないでください。悪いのはタイラント師じゃないでしょ。無茶苦茶やられるのは遺憾ながら慣れてますしね」 「うん、気持ちはわかる。俺も慣れ――痛い痛い痛い痛いから、シェイティ!」 「なんか、戯言が聞こえた気がして、ね? 可愛いちっちゃな僕のタイラント?」 「気のせいだから、気のせい!」 「いいから師匠ども! さっさとベッドに行きやがれ!」 「ほんとエリィ。時々すごいこと言うよね?」 そんなつもりではない、半病人が何を言う。いずれも言わせてもらえなかった。大笑いしながらタイラントが歩いて行く。その腕の中、フェリクスもまた笑っていた。 |