とてとてとて。そんな擬音が聞こえてきそうなほど可愛らしい子供だった。覚束ない足取りで講堂に入り込み、きょろょろとエリナードを探す。見つけだしたときのその目の輝き。誰もが目を奪われ微笑まずにはいられない、そんな愛らしさ。 「うわ……」 カレンが嘆きの声を上げたのがエリナードにも聞こえてはいる。が、それどころではなかった。この自分が幼かったころと同じ顔をした幼児に嫌と言うほど見覚えがある。 「なんか、また一段と育ったと言うか」 ぼそりとしたカレンの言葉に魔術師の卵たちが怪訝そうな顔をした。あるいはすでに見知った子供なのかとでも言うように。それにしては子供は幼い。ほんの二歳ほどの小さな子供だった。 もちろんエリナードにはカレンの言いたいことがわかっている。子供の年齢と言う意味ならば、逆に幼くなっているのだけれど、「魔法的技術」という意味ならば育っている幼児だ。二歳の子供、というのはカレンが唖然とするのも当然と言うほど、むしろ匙を投げたくなるほどの技術だ。 「カレン」 「……なんすか」 「警戒すんじゃねぇよ。ほれ、知らねぇ仲でもないんだしよ。生さぬ仲ってやつだろ。抱っこしてやれって」 げ、と嫌そうな声を出してからカレンは申し訳なくなったのだろう、子供に対して手を差し伸べる。その辺が素直で意外と可愛いところもある、とエリナードは思っている。子供のほうは屈託なくカレンに駆け寄っては腕の中に収まった。 「うわ、ちっちゃ」 二歳の子供などカレンは抱いたことがない。こんなにも小さくて頼りなくて壊しそうで怖いものだとは想像したこともない。それをにやにやとエリナードが見ているのだから始末に負えない。 「生さぬ仲って、師匠。生した覚えもなきゃ生された覚えもねぇんですけど?」 「だから生さぬ仲だって言ってんだろうがよ。そんな可愛いガキ抱いといて文句垂れんじゃねぇや。な、可愛いだろうが?」 思い切り混乱し尽して語義までおかしくなっているカレンをからかえば、馬鹿な噂話を助長するだけかとも思ったけれど、実際子供は可愛いのだから致し方ない。エリナードの顔色を読んだかカレンが険しい顔をした。 「師匠」 「なんだよ?」 「すっげぇ親馬鹿に見えます」 言われた瞬間エリナードは吹き出さずにはいられなかった。卵がまだおろおろとしているのを横目に腹を抱えて笑いだす。それに首をかしげていた子供がカレンの腕の中で身をよじり、彼女は慌てて床におろしてやっていた。 「ほれ、来いよ」 今度はエリナードの腕の中、子供は収まる。くしゃりと笑った顔など、もうどうにでもなれと言いたいくらいに可愛らしい。高々と子供を頭上に差し上げれば、カレンが危ないと声を荒らげた。 「ほんと、すげぇよなぁ。なんでこんなことできんだかなぁ」 感嘆の眼差しでエリナードは子供を見つめる。早くおろせとカレンが喚き、唐突に止まる。息を飲んで悲鳴すらも止まってしまったかのよう。反対に卵たちは騒がしい声を上げていた。 子供が、ほろほろと光になって行っていた。細かくほどけて、それでいて笑顔だけは消えないまま。非常に後味が悪いエリナードは顔を顰める。そして手の中に残ったのはひとひらの紙片。それすらエリナードが一読するなり消えた。 「し、師匠……!」 「なんだよ、お前までわかんなかったのかよ。あれ、実体じゃねぇからな? ほんっとに、手間のかかったお呼び出しだこと。ったく、めんどくせぇな」 文句を垂れつつエリナードは手をより合わせる。いままで温かかった子供の感触。まだ掌に残っている。 「え、あ……。その……」 「カレン? 言っていいことと悪いことの区別くらい、つくよな?」 「当たり前じゃねぇですか!」 怒鳴ってカレンは常態に復する。こんなところまで自分に似なくともいいだろうに。思うエリナードもまた、苦笑をして普段の自分を取り戻していく。本当は、焦っていた。 「悪いな、学生諸君。ちょいと私用で出かけるわ。日程は未定。まぁ、十日前後ってとこかな」 肩をすくめればやっとのことで先ほどの子供が何であったのか理解が及んだのだろう卵たちのざわめき。しばらくはカレンに任せておいてもいいだろう、エリナードは思う。任せられたカレンはたまったものではないだろうが、これもまた修行の一環だ、内心に嘯いてあとを任せると決めた。 「ちょっと待ってください、師匠! 出かけんですか!?」 「おうよ。ライソンに伝言頼むわ。んー、そうだな……。俺は逢い引きに行ったって言っといてくれ。それで通じるわ」 「ものすっごい通じると思います。それがどうかと思います。けっこう事実だったらどうしようとか思ってます」 「なぁ、カレン」 「はい?」 「お前、俺に抱かれてぇの?」 「死んでも嫌です!」 「だろ? そういうこった。んじゃ行ってくるわ」 ひらりと手を振ったときにはエリナードは転移していた。カレンは知る。自分と戯言をかわしながらも師が転移呪文の詠唱をしていたのだと。技術に賛嘆の念が浮かぶより早く、馬鹿じゃないかと罵ってしまったけれど。 そんなこととは知らないエリナードは無事転移を終える。実際はそれどころではないと言った方が正しかった。余裕ぶって見せたけれど、泡を食ってもいる。 「師匠!?」 リィ・サイファの塔だった。先ほどの大掛かりな伝言はフェリクスの呼び出し。あのような形で呼ぶことがまず不穏。あれほどに短い手紙、本来ならば鳩で充分だ。が、フェリクスはそうしなかった。できなかったのではないかとエリナードは疑っている。師にとって鳩より何より楽に造形できるのはこの自分の姿、と彼の弟子は知っている。そもそも、腰の軽い人だ。用があれば呼び出すよりも自分で来る男が、エリナードに来いと言っている。 ばたばたと塔の中を走る。その間にもエリナードの不安は募っていた。普段と様子が違う。何がどうとは言えない。言えるほど塔の内部を知りもしない。けれど確実に以前とは様子が違う。 「――師匠」 居間にフェリクスはいなかった。普段の彼が使っている私室にもいなかった。書庫にも行ってみたけれどやはりいない。何より不安なのは精神の接触による呼びかけに師が応えないこと。同じ建物にいて応えないなど、ありえない。やっとのことで見つけだしたエリナードはここで座り込んでも怒られない、それどころか回れ右をして帰ってもいいような気がしてきた。フェリクスは、長々と手足を伸ばして入浴中だった。 「あぁ、来てくれたんだ。ありがと」 「あんたな……」 「なに? ちょっと手を貸して。来てくれると思ったからお風呂入ったんだけど、動けないんだよ」 「はい!?」 もうなにに驚けばいいのかわからなくなってきたエリナードだった。とりあえずは遠慮があるような仲でもない、フェリクスを浴槽から抱え上げる。そしてぎょっとした。ずいぶんと軽い。 「師匠。あんた、何やらかしたんだ」 「それが自分の師に対する言葉なわけ? もうちょっと心配しなよ」 「してっから聞いてんでしょうが。何やったんです?」 全裸のままではいくらなんでも風邪を引くだろう。思ったけれどエリナードはフェリクスが風邪を引いて寝込んだなど記憶にない。こんな小さな体のわりに非常に頑健な男だった。 とはいえ、裸の男を抱いていては自分の精神衛生によくない。手早く湯を拭い取り、服を着せて行く。傭兵時代に培った技術だった。なにしろ戦闘終了後は嫌と言うほど怪我人が出る。元気な人間がなんでもやるのだから、こんなものは慣れたものだった。 されるがままのフェリクスは眠たそうだった。うっかりするとそのまま眠ってしまいそうなほど。仕方ないな、とエリナードは再びフェリクスを抱き上げて居間へと連れ戻す。弟子の態度をくすりとフェリクスが笑った。 「なにがおかしいんだ、この馬鹿親父め。ほれ、冷たいもんでも飲んでさっさと話してくださいよ」 ひょい、と硝子の酒杯を差し出した。さすがにフェリクスも驚いたらしい。ここはリィ・サイファの塔で、エリナードが知悉している場所ではない。それなのに、簡単に飲み物の用意をして見せた。 「何度か来てますからね。物の配置はだいたい覚えてる」 なにも無から有を作り出すわけではない以上、どこに何があるのかわからなければ取り寄せようもない、それが魔法だ。いまエリナードは塔の厨房から果物と酒杯の場所を思い出し、絞って注いで自力で氷を作り出して酒杯に浮かべてフェリクスに差し出す、それだけのことを無造作にやってのけた。こくり、と飲んだフェリクスが目に和みを浮かべる。 「うん、やっぱり僕の息子は出来がいいね」 褒めてくれるのは嬉しい。が、今はそれより懸念があった。こうして明るいところで眺めればはっきりとわかるフェリクスの窶れよう。目の下にはくっきりと蒼黒い隈が浮かんでいた。 「権限の委譲だよ」 淡々と言ったフェリクスの言葉がわからなかった。言葉の意味すら、理解ができないと言うのはエリナードには珍しい。 「塔だよ、塔。ここの権限委譲。カロルから、継いだんだよ」 「へ? それで、なんで……」 「あのね、エリィ。ここ、魔法空間ばっかりじゃない?」 「見た感じ、外殻以外はほぼ魔法空間っぽいですよね」 正式に術式を教えられたわけではないがエリナードはすでに委譲の術式の研究をしてはいるから難易度が高いのは心得ているつもりだった。が、甘かったらしい。 「そのとおり。だからね、管理者が変わるってことは、空間を維持したまんま、再構築する羽目になるわけ」 「うげ」 「なにその声。気持ちはわかるけど。――ほんと、丸々三日は身動きできなくってね。やっとさっき起きられるようになったとこ」 もちろん三日間、一人で耐えていたわけではないだろう。無言で問うエリナードにフェリクスは肩をすくめる。その態度に苦笑してしまった。身動きもままならないフェリクスを支えたのは伴侶ではなくその師だったのだと悟ってしまって。 「それで俺に会いに来いって? 別にいいですけどね。なんでタイラント師じゃなくって俺に手伝わせんですかい」 「……ん、意地。かな?」 「は?」 「そりゃね、タイラントは喜んで手を貸してくれるよ。そんなことはわかってる。看病ってほどじゃないと思うけど、面倒だって見てくれるよ。僕がタイラントだったらそうするからね。――だから、なんか、恥ずかしいじゃない。こんなぼろぼろのところなんて見られたくないんだよ、僕は」 「そういうもんこそ見られて問題ねぇのが連れ合いってもんでしょうに。だいたい俺ならいいのか」 「いいんだよ、息子だもの。お父さんの手伝い、しなよ」 「へいへい」 文句を言いつつエリナードは拒むつもりなど毛頭ない。逆に、嬉しかった。手を貸せと言ってもらえて、何より嬉しかった。おそらく呼びつけた本題は別にあるのだろうと思っている。それでも嬉しかった。 |