道は続く

 イーサウの魔法学院は順調だった。星花宮のよう幼い子供を受け入れない、と決めたのがよかったのだろうとエリナードは思っている。いずれは自分もカレン以外の弟子を持たなければならないだろうとは思うが、いまはまだ荷が重い。
 とはいえ、予想外のことも多々あった。エリナードは生粋の星花宮育ちだ。市井の魔術師がどう勉学を積んでいくのかを知らなかったし、どこまで知識があるのかも知らなかった。むしろ、自分と同じ程度は知っていて当たり前としか思っていなかったから、予想もなにもあったものではなかったのだが。
 他にも色々ある。もっとも、知り合いでもない大勢の人間が一堂に会するのだ。問題は起こって当然と思っていればどうと言うこともない。いまもエリナードは講堂の廊下の壁に体を預けて苦笑しつつ中の声を聞いていた。
「――からな、若い女のくせに何もこんなことをする必要はないだろうと言ってるんだ」
「だいたいその頭はなんだ。みっともない。女のくせに娘らしいところが微塵もない。嘆かわしいと言ったらないな」
「元はいいんだ。身綺麗にしたらどうだ? 嫁の貰い手くらいは見つかるだろうよ」
「そうすれば魔法なんぞに手を出すこともないだろうしな」
 笑う男たちの声。カレンが言い返す声は聞こえない。怒りに震えているのか、それとも馬鹿馬鹿しいと相手にしていないのか。反論はするべきだが、とエリナードは内心で溜息をつく。
 これが目下最大の問題かもしれない。カレンを責めているのは星花宮で学んだことが一度もない魔術師の卵たちだ。己が一人前でもないと言うのにカレンが女だからと言って馬鹿にする。溜息以外に感想がないのだが、放っておくわけにもいかないエリナードだった。
「おう、カレン。長いこと悪かったな。返すぜ」
 何も聞いていなかった、ちょうどいま来たところだ。そんな顔をしながら講堂に入る。カレンは気づいたのだろう、少しばかり顔が強張っている。
「エリナード師、なんですか。それは?」
 同じ男だからというだけで積極的に親しくなろうとする卵どもにはいい加減エリナードのほうが頭に来ている。肩をすくめて一冊の本をカレンに手渡す。
「ちょっと論点は甘いけどな、悪くなかったぜ。お前の『三瀑考』の注釈。参考になったわ」
 以前フェリクスに頼んで写本を作ってもらった、星花宮水系魔術師の基礎に数えられる本の一冊だった。さすがに市井の魔術師であっても「アルディオン三瀑考」の名くらいは知っていたようだったけれど、基礎だと聞きかじっているだけに今更そんなものを学んでいるカレンを嘲るばかりだった。
「恐縮です」
 受け取りつつカレンの声は固い。学院はカレンの妨げにしかなっていないのではないだろうか、エリナードはそちらのほうがずっと怖い。確かに魔法学院は自ら望んで、この国に地歩を築き固めるためにこそ、承けた話だ。けれど、カレンは己の弟子。学院の生徒たちとは違う。カレンだけはエリナードの弟子だ。
「今更そんなものをねぇ。お嬢さんのお勉強だな」
 くすくすと誰かが笑った。エリナードは顔色一つ変えずカレンを見やる。カレンもまた真っ直ぐとその師を見つめた。自分は大丈夫、そう言ってでもいるようでどこかの誰かを見る思い。内心で苦笑してエリナードはもう一度カレンの手から本を取った。
「ちょうどいい。ここにはこんなに大勢の卵どもがいるんだからよ。全員『三瀑考』くらいは読んでるんだろ? そりゃ結構。じゃあ、カレンの論点を見直そうや」
 ひょい、とエリナードが手を振る。実際は振る必要もない、ただの癖だ。鍵語魔法を学んでいる以上、皆がそれを理解しているはず。それなのに、その場の卵たちはエリナードが詠唱した瞬間を捉えることができなかった。まるで手を振ったことが鍵となったかのようだとすら感じたらしい。カレン以外は。
 そして壁一面にカレンが著した「三瀑考」の注釈が映し出される。今の段階では本の書き込みと大差ないようなものだけれど、いずれカレンは正確にまとめるだろう。まだ研究中なのだからそのようなものだった。
「全部やってちゃ日が暮れるどころか日がまたいじまうからな。俺が気になったところの抜粋だ。さて、どうぞ?」
 壁際に腕を組んでエリナードはもたれる。活発な討論を期待する、そんな姿勢に卵たちがざわめく。問題は、卵たちが反論の隙を見つけられないでいるところか、とエリナードはそっと溜息をついた。
「カレン」
「――はい」
「どうも議論にならねぇみたいだからな」
 しばらくしても誰もなにも言わない。困ったものだった。言いがかりでもなんでもいいだろうに。あれほどカレンを馬鹿にしていたのだから字が汚いでも言えばよかろうとエリナードは思うのだが、エリナードがいる場所では言いにくいらしい。それもまた馬鹿馬鹿しいと思う。そしてカレンはエリナードの意図に気づいた。この情景をこそ見せるためだったと。ほんの少し表情が和らぐ。
「俺が気になったところを指摘する前にまず、お前の論考方法を聞かせてもらおうか」
 「アルディオン三瀑考」は単純に要約すれば三つの滝のそれぞれの高さが違うからこそ落ちてきた場所での威力が異なる、そこから位置力と運動力の関係を証明した論文だ。カレンはそれをほんの少し推し進め、実用に耐えうる展開にしようとしていた。そのほんの少し、が難しいのだけれど。
「――よって、水圧は速度に依存することから、加速することで威力の増加が見込めます。現状の、たとえば水の矢ならば計算上では倍程度までは行けるかと」
 理論値は確かにそうだろうとエリナードもうなずく。カレンから借りたものを読んだだけではない、もちろんエリナード自身も筆写している。その過程で実験するのも魔術師としてはまた当然だ。
「なぁ、カレン」
「はい」
「これ、動いてるか?」
 にやりと笑ってエリナードは手の上に水の矢を作り出した。ひょいと摘まんでカレンに見せる。まじまじと見た彼女は。
「あぁ――! そうだ、静止状態だわ。これ、元は滝だから動水圧だったんですよね、そうだそうだ。忘れてたわ」
「お前のことだから夢中になり過ぎて抜けてたんだろうよ。ついでに言うと、矢にするんだったらつか、実用するんだったら大気圧も忘れてただろ?」
 ぐえ。と潰れたようなカレンの声。くっと喉の奥でエリナードは笑いカレンだけを見ているふりをして周囲を見やる。嘆かわしいことに卵の誰も師弟の話についてこられていない。
「あー、師匠。もしかして、摩擦もですよね」
「だな。係数表、持ってるだろうな?」
「うい。あぁあ、研究のやり直しっすね。実験ではうまく行ってたんだけどなぁ。つかあれだな、実験環境だけじゃだめだな、うん」
 そういうことだとエリナードは笑う。自分たちは数字や言葉を操るだけではない、実用に耐えてはじめて半歩進んだことになる。カレンにそれが改めて伝わったのだろう。まずエリナードはそれが嬉しい。
「ところでな、噂話で聞いたんだけどよ。お前が俺の女だって?」
「そこまで頓狂な男じゃないと思いますけどね、師匠は」
「てめぇに手ぇ出すほど不自由してねぇよ。だいたいそれってあれだろ、お前が女だから俺に可愛がられてんだってことだろうが。馬っ鹿らしい」
 はん、と鼻で笑ってエリナードは卵どもを見回した。もちろん噂話をしていたのは卵たちだ。エリナードの耳に入っていたとは思わなかったのだろう。驚いた顔をしているのだから天を仰ぎたくなる。
「女も男もねぇやな。お前は俺の弟子だって胸張れる程度にゃできるんだよ。遺憾ながら、最低限この場の野郎どもの誰よりできることは確かだな」
 ぐるりと一人ずつに目を合わせる。後ろめたいのだろう、視線を伏せて行く卵たち。カレンの性別程度のことで文句を付ける暇があったら研究をしろとエリナードは言いたい。
「今更いう必要もないよな? さっきの『三瀑考』だってそうだぜ。けっこう単純なとこが抜けてたのに誰も気づかなかったよな? あぁ、わかってたけど言わなかったってのはなしだぜ? そこまで見くびられる覚えはねぇやな」
 エリナードが何もカレンを贔屓しているわけではない、それくらいは理解してほしかった。確かに星花宮でも女性魔術師は少ない。男の自分には気づかなかった不便も女のカレンにはあったことだろうとエリナードは思う。それでも女性蔑視だけはしていなかった。
「女だからなんだよ? 魔術師に一番大事なのはなんだ。カレン?」
「平衡感覚、と自分は習いましたし実感してます」
「俺もそう育ったわな。だったらな、みなさんよ。女のくせにどうの、男だからどうのってのはおかしかないですかね」
 いまにしてエリナードが怒っている、と卵たちは気づいたらしい。カレンが遅いぞと肩をすくめかけては自重した。
「カレンに負けて悔しいなら一歩でも先に進む努力をしろよ。それをしないで女はやめちまえだお嬢ちゃんのお勉強だなんて恥ずかしくねぇのか、え? お前たちの言葉を借りるならな、そう言うのは男の風上にもおけねぇって言うの。理解してくれるよな?」
 それでもなお女性蔑視をするならば学院から出て行け。続けなかったエリナードの言葉に卵たちが青くなる。エリナードにもわかっているつもりだ。自分より若いカレンに、一歩も二歩も先に行かれている。論文がどうの、成果がどうのではなく、魔術師として日々接していれば嫌でもわかる。だからこそ、その焦りがカレンへの暴言という形になっている。それは理解するがカレンがそれを甘受する必要はないし、エリナードが許してやる謂れもない。
「平衡感覚ってのはすなわち中心点ってわけでもねぇけどよ。最低限、両極の双方を理解してはじめて平衡ってのが取れるってことはわかるだろうが。女だから男だからって言ってる段階で魔術師失格だぜ」
 フェリクスはその点が非常に巧かったな、とエリナードは思い出す。時には母親かとからかいもしたけれど、男の自分では想像もつかないような視点から小言を食らったものだった。それでいてなお、フェリクスは平衡と言う意味ならばリオンのほうが上だと言っていた。ふと懐かしくなる。あるいは怖くなる。ここにいるのは幼くはない、すでに基礎程度は終えているはずの魔術師の卵たち。それでも自分が導いて行く若人たち。できるのだろうか、この自分に。それが、怖い。
「師匠、鉱物図鑑お借りしていいっすか。気分転換にちょっと別のことしてみます」
 ぱっと明るくなるようなカレンの声だった。エリナードは好きにしろよと言いつつ内心では違うことを考えていた。弟子に、感謝を。この手にカレンがいる、そのありがたさ。信仰は持っていないエリナードだ、神々に感謝するとは言わない。だから何ものかに。運命と言えば仰々しすぎるけれど。
「んじゃ、お借り――」
 カレンが言いかけて、止まる。そして溜息をつく。エリナードはその場で座り込みたくなった。卵の目があるからこそ、留まりはしたが。




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