フェリクスが去ってから十日。エリナードは日々ぼんやりとしている。カレンの修行も疎かになりがちだったし、ライソンに話しかけられても気づかないほどの有様。腹を立てたのはカレンで、訝しさを感じたのがライソンだった。 「ちょっと、師匠。いい加減にしてください」 アリス祭で暴言を吐いた以上、外面を取り繕う必要はなし、とカレンは独り決めしてしまったらしい。猫を被っているよりずっといいと思いつつエリナードは首を振る。眠気を払うような仕種だった。 「寝不足ですか、ぼけてんですか。あんまりぼーっとしてるとなんか変ですよ。それこそあれです、フェリクス師と浮気とか? 疑われても仕方ないくらいは自覚するべきでは?」 「お前なぁ」 「ライソンさんだって変だって思ってますよ。なんですか、その腑抜けた顔は。そんなにフェリクス師が恋しいんですか!」 いまここにライソンがいるだろう、自分という弟子もいるだろう。そう励ましてでもいるかのようなカレンにエリナードは吹き出す。気分を害したらしい弟子はそっぽを向いたが。 「あのなぁ、カレンよ。別に腑抜けてんじゃねぇんだよ、俺は」 ライソンはまだ帰っていなかった。彼には隊での仕事がある。訓練であったり執務であったり、何かと忙しい。傭兵隊の隊長は雑務に追われるもの、と相場が決まっている。だからだった、エリナードが口を開いたのは。ライソンに聞かれて困る話ではなかったが、彼が知らないでいい話、知らない方がいい話、ではある。 「だったら、なんですか」 むっとしたままのカレンがそれでも体調不良の気遣いはしてくれたのだろう、茶を淹れてくれる。軽く掲げて礼代わり。一口含んでエリナードは溜息をつく。 「……あの野郎」 「はい? なんか不都合でもありましたかね。どうせ私は師匠ほど――」 「お前じゃねぇっての。飲んでみろよ。ってかな淹れてて気がつかねぇお前もお前だわ」 「はい?」 拗ねながら飲んだカレンが目を瞬く。おかしい、と首をかしげているのだからおかしいのはどちらだ、とエリナードは言いたい。そう思いつつもエリナードは未熟を反省している。十日の間に一度も茶を飲まなかったはずはない。気づきもしなかったのだからカレンを馬鹿になどできない。 「師匠だよ。あの人の、悪戯だ」 甘い茶だった。星花宮でよくフェリクスが淹れてくれていた茶。珍しいものではないからイーサウでも求めることができる。が、エリナードは買ったことがない。 「……え? フェリクス師が? え、台所、入ってました?」 「入ってねぇよ。入ってねぇけど、こういうことやらかすんだ、あの野郎は。ったく、ほんとガキみてぇだな」 文句を言いつつエリナードはゆっくりと茶を飲む。これを残して行ったフェリクスの心がわかっていた。非常に疲労を覚えることになるエリナードだとわかっていたからせめて、と残していった。 「――別に師匠が恋しいとかな、そんな戯言じゃねぇんだよ。こっちは情報解析すんのに一苦労だ。日常生活なんかまともにやってられっか」 「……は?」 「お前も気づかなかったのか? 注意力不足だな。帰り際に星花宮がこの五年くらいの間、何をしてどうなって、どう評価されているかの情報、全部置いてったんだよ、あのクソ親父は」 「どうやって!?」 「直接接触して。精神に圧縮してまとめて叩き込んで行きやがった。おかげで眩暈と頭痛の揃い踏みだ」 馬鹿な、と呟いたカレンの声が聞こえた。その反応は正しい。自分とカレンの間では成立しないだろう、おそらく。技量の差ももちろんある。何よりそれほどの情報量ではカレンの精神が耐えきれない。 「師匠、実は半エルフの血を引いていたり? 親御さんか、お祖父さんか」 「どーしてそーなる」 「だって! それくらいじゃなきゃ無理でしょう、その量は!」 ミスティにきっちりと仕込まれただけあってカレンは並みの弟子ではなかった。若き魔術師の卵としては充分すぎる知識を持っていた。だからこそ、青くなる。それをエリナードは軽くいなしていた。 「俺は真っ向人間だぜ? ただ、俺と師匠の間にはちょっとした反則が成り立つ」 「それはその……ライソンさんには言えないような?」 「だから、どーしてそーなる」 二度目のそれは冷ややかながら笑いを含んだもの。カレンも本気で疑ってはいないだろう。たぶんそれはライソンへの贔屓なのだろうとエリナードは思う。自分を可愛がってくれる人を無下に扱わないでほしいと言う、子供らしい真摯さ。エリナードは内心でそっと微笑む。 「いずれ話してやることがあるかもしれねぇけどな。俺と師匠は精神に直結の回路があるも同然だからよ」 「それって、俺はお前でお前は俺的な? どう言うことなんですか、だって」 「だからそう言うんじゃねぇんだよ。俺の恥だから今はまだ話してやらん。聞きたかったら修行しな」 「――させてくれないのは誰ですか。もうちょっと真面目になってくださいって話、してたんだと思うんですけど」 「だからいまはそれができる状況じゃねぇって断ったはずだけどよ? 自力でなんとかしろ自力で。もう三日もありゃ解析し終わる」 それにカレンが溜息をついた。五年に及ぶ星花宮の情報をこの短期間で終わらせようと言うのだからいずれ己が師も「人間ではない」と思うカレンだった。四魔導師の逸話は数々知っているカレンだったが、側近く接したと言うほど知りはしない。改めて目の前にいるエリナードがフェリクスの直弟子なのだと思い知る。 さすがにカレンは飲み込みがよかった。まだ少女の身では政治になどまったくかかわっていないはず。自分もそうだった、とエリナードは思う。独立してからすら、ほとんどかかわっていなかったのだから。それでいてカレンはフェリクスが情報を置いて行った、とライソンに言ってはいけないことは理解していた。 「出来がいい弟子ってのも考え物だよな」 贅沢なことを言い、エリナードはぐるりと首をまわす。ライソンは話されていないことがあると察している。それでも尋ねては来ない。 情報源がフェリクスだとライソンは言われなくともわかっているせい。ならばそれは星花宮の情報に違いない。そうなれば「イーサウに継続雇用中の傭兵隊」の隊長が知っていい話では済まなくなる。ラクルーサの秘事にも通じるのだから。 「……悪い」 フェリクスも時間がなかったのだろう。まとめて放り込んで行くことはないだろうとエリナードはぼやきたくなる。それは反対から見れば師を案じる態度。当のフェリクスはまだ早いと笑うだろうけれど。 分類もせずに放り込まれたものだから、今ここでエリナードが知っていいことではない情報まで入っている。さすがに現国王の健康状態まではやり過ぎだろう。 「ったく。シールドしとけっての、こんなもん」 けれどあのフェリクスだ。分類する暇がなかった、の一言でわざと入れておいた可能性が否定しにくい。溜息をつきつつエリナードは知ってしまったことを己の精神の深くに封印し直す。精神への接触は会話や伝達等、魔術師にとっては汎用的な手段だ。万が一カレンが触れてしまったら目も当てられない。 「わざわざ俺の手間を増やすな、もう」 文句を言いつつエリナードは笑っている。情報を整理する過程で、かつての星花宮を見る思いでいられたせい。あの故郷での暮らしを思い出す。師の元にあってぬくぬくと守られていた日々。魔法にだけ邁進していた毎日。 「それだけは、いまも変わらねぇかな」 何かと暗躍を許す結果になりつつある星花宮だった。四魔導師は息をつく暇もないに違いない。それでも弟子たちはあの頃と変わらない生活を送っている。エリナードにとっては救いだった。 「そのぶん、師匠が大変、かな。ほんと……弟子に手伝わせりゃいいだろうによ」 自分はもう側にはいられない。それでも手足になる弟子はいくらでもいるはずだ。自分などよりよほど有能な魔導師も大勢いたのだから。 けれどなお、フェリクスはそうはしない。弟子は守るものだとでも思っているのだろう。なんとか自分たち四魔導師で食い止めようと体を張っているフェリクスが見えるような気がする。 「ったく」 せめてその背を支えたい。近くにはいられないのだから、何かがしたい。エリナードの決心が固まっていく。まるでそれを感じ取ったかのような、来客だった。 「へ。久しぶりだなぁ! 入ってよ!」 ライソンも帰宅して、カレンと騒がしく夕食を取った後のことだった。エリナードは十日以上にも及ぶ解析がひと段落して、ようやく常態に復したところだ。 「ほら、入ってって! エリン、お客さんだ!」 楽しそうなライソンに腕を引かれるよう入ってきたのは、イメル。青白いような顔色。何かがあったのかと思ってしまうほど。違うと、わかってはいたけれど。 「……エリナード」 星花宮を追放されて二度、イメルとは会っている。一度は塔で、もう一度は変装してここで。以来、イメルとは会っていない。ふっと笑って立ち上がり、エリナードは無言でイメルを腕に抱く。おずおずとした腕が背中にまわってしがみついてくる。 「ごめん、エリナード。ごめん」 「だからな、お前は何年前の話をしてんだ、え? もう済んだことだろうがよ。で、用事があるから来たんだろうが。さっさと渡しやがれ。待ってたんだぜ」 「って、お前!? なんで知ってるの!?」 「知らいでか。俺を誰だと思ってんだ」 ふふん、と鼻で笑ってエリナードは腕を解く。子供時代と変わらない泣き顔のイメルに懐かしさがたまらない。思い切り頭を叩けば痛いとまだ泣き顔のまま、けれど笑うイメル。 「はい、お届け物」 エリナードの手に乗せられたのは一冊の本。ぱらりとめくって顔を顰める。そしてそのままカレンに手渡す。 「これ、師匠だろう、筆写したの。あの人の字、読みにくいんだよな」 「そういう憎まれ口も懐かしさってやつ? ほんと、素直じゃないよな、お前ってさ。――変わってないな、エリナード」 「変わりようがねぇだろうが、こんな田舎暮らしじゃよ」 「またそういうこと言ってさー。ほんと可愛くないったら。ライソンも趣味が悪いね、さっさと別れた方がよくないか?」 ライソンはにやりと笑うだけ。星花宮の身内の冗談をライソンも知っている。すべてがなかったことにはできない。それでもまだはじめることはできる。エリナードは強引にイメルの肩を抱き、食卓へと誘った。食事は終わってしまったけれど酒ならばまだ充分にある。 |