暁の狼の若き騎兵、ライソンと知り合ってからは激動の日々としか言いようがなかった。二度と素顔になど戻らないと思っていたことも崩れ、強大な魔法さえこの手に戻った。一番の変化は星花宮、追放。フェリクスとはあれ以来、会っていない。 「いい加減にあんた、お師匠さんに手紙でも書いとけって」 イーサウに居を移したエリナードだった。元々イーサウに宿営地のあったライソンは隊長コグサの反対もなんのその、二人で住むのだと言って家を買った。小さな家で、住み心地もいい。エリナードも気に入っている二人の家だった。 「書いただろうが、この前」 エリナードはいま、台所で仕事をしている。その後ろ姿にライソンが話しかけている。そんなことができるくらいの家だった。 「はい? あれじゃ意味ないでしょうが、エリンさん。俺は元気です心配しないでくださいって、あんたほんとにそれだけ書いてただろうが」 手元を覗き込んでいたライソンの顔をエリナードは思い出してしまう。いまでも時折、胸の奥に痛みが走る。ライソンに救い出されたからと言って、フィンレイを殺した事実まで消えるはずはなかったし、消していいはずもない。それでも、懐かしく思い出すこともまた、できるようになりつつある。 「いいんだよ、それで」 「愛想ねぇなぁ」 「あのな、ライソンよ。あんときのインクにゃイーサウの温泉水を使ってんだ。師匠だったらそれで俺がどこにいるかわかるっつーの」 「ははぁ、なるほどな。まだあれか。やっぱり追われてる?」 星花宮を追放される直接の原因になったのはライソンだ。宮廷魔導師であるエリナードが、外部勢力に協力した、と見做されたせい。こじつけ以外の何物でもないと誰もが知っていたが。だがあの国王にはそれで充分。 「追われてるっつーか、思い出させたくねぇんだよ。まーたあんときの魔術師かって思われたら師匠が危ないだろうが」 「だからか、あんた。手紙も普通に送っただろ、人の手でさ。隊商いくつか経由して送るなんて、めんどくさいことするなって思ってたんだわ」 「直の隊商使うとそれだけこっちがどこにいるか見抜かれそうでよ。魔法で送りつけるのは論外だな。誰が見てるかわかんねぇし」 「でも星花宮だろ? あんたの仲間ばっかじゃん」 無邪気にそう信じられればいいのに、とエリナードも思う。星花宮の魔術師たちはエリナードにとっても兄弟同然の者ばかり。それはそれで事実だとして疑いたくなどない。けれど貴族出身者もいるし、買収される魔術師がいないと断言など誰にもできない。エリナードはけれど、ライソンにであってもそれは言いたくなかった。結果として肩をすくめるに留める。その思いを受け取ったのだろう彼だった。何食わぬ顔をして話題を変えた。 「で、エリン。いまなにやってんの?」 台所仕事が好きな男では決してない、エリナードは。作ればできるけれど料理など食べられればいいと思っている節がないわけでもない。それなのにいやに熱心に火に向かっている。 「あ? 強壮薬の実験中だよ」 「あのなぁ……。そう言うのは台所でやるんじゃねぇよ、地下でやれ地下で!」 「うっせぇな。一応は食いもんなんだっつーの。だったらここでいいだろうが」 この家の地下にはエリナード特製の工房がある。星花宮の呪文室と強度的には遜色ない。わざわざ地下にあるのは、それだけのものを地上に作る空き地がなかった、というだけのことだった。もちろん半分がたは魔法空間だ。 「だいたいな、なんで強壮薬なんだよ?」 「そりゃお得意さんのため? リオン師の強壮薬を基礎にしてんだけどよ。……あの人のあれ、ものすっごく効くんだけどなぁ。とにかくまずいんだわ」 「薬なんてそんなもんだろ?」 「そりゃリオン師くらい効く薬だったらな。リオン師曰く、うまい薬だと飲みたがるからかえって体に悪い、んだそうだ」 「うまいもんで体によさそうってなったら、飲むよな」 「だろ、で。結果として体を壊す、と。俺がやってんのは、だから日常飲んで問題ねぇ程度に効能落として、味をよくする実験中。ほれ、実験台やれよ」 「俺かよ!?」 ひょい、と振り返って台所から居間へと足を移したエリナードの手にはすでに半透明の薬が入った酒杯が握られている。ほんのりとした果物の紅色が綺麗だったけれど、実験台と言う響きにはいささか怯まないでもないライソンだった。 「いいから飲めっての!」 「ご無体な!」 「うるせぇわ!」 笑うライソンの口許に酒杯をあてがい一気に流し込めば意外と素直に飲んだライソン。目が和んでいて、思わずエリナードは顔をそむけたくなってしまう。 「エリン? いま他の男のこと考えただろう?」 「笑いながら言うんじゃねぇよ。――悪い」 「なにが? あのな、エリン。一々真剣に返すなっての。あんたはフィンレイさんのことをからかわれても傷つかないでいられるくらい元気になっただろ? 俺だってそうだ。あんたと一緒だから、元気になった、気がする。ほら、この前だろ、はじめて親父たちの墓参り行ったの。あれだってあんたが――」 「いい、わかった。俺なら、大丈夫だから。迂闊だった俺が悪いってな。で、実験台よ、味はどうだ?」 「ん? そういやあれだな。薬飲んでるって感じはしねぇかな。もうちょっと甘いほうが俺は嬉しいけど」 ライソンはエリナードが大丈夫だなどとは思っていなかった。あるいは大丈夫なのかもしれない。けれど一点だけ、彼自身が何を言おうと間違っても平気ではないことがある。エリナードは、フェリクスを失った。あれほど仲の良かった師弟だ。親離れ子離れと笑っていても、心にぽっかりと穴が開いているだろうとライソンは疑わない。だからフィンレイのことは冗談にできても、フェリクスのことはまだできない。そしてエリナードはそれに気づいているのだろうか、ふと彼はそんなことを思う。 「お前は味覚がガキなんだっつーの。お前に合わせてたら傭兵どもが飲めねぇだろうが」 「なに、うち用なの?」 「他にどこがあるんだっつの。俺の一番のお得意さんは狼だろうが」 呆れて笑うエリンにライソンは肩をすくめる。それほど過酷な訓練はさせていないぞ、と抗議する気持ちが半分か。 若き騎兵であったライソンだったけれど、イーサウに落ち着いて環境が激変した。まだまだ退くような年齢ではなかったコグサなのに、兵学校を作るのだ、の一言で暁の狼をライソンに譲り渡したせいだった。 あれもエリナードは気に入らなかっただろうとライソンは知っている。本当は自分が傭兵であることも嫌なのではないだろうか、彼は。けれど他には生きる術を知らないライソンだと諦めてくれている、そんな申し訳なさとありがたさ。まだまだ落ち着かなくて、隊長、などと呼びかけられても誰のことだと思ってしまうのはきっとエリナードに気兼ねするからかもしれない。 「お前んとこで評判よかったら町にも卸すぜ? 町のやわなお人がたを実験台にするわけにもいかねぇからよ」 「うちの兵を実験台にするなって!」 「だから最初にお前にやってもらったんだろ? あとはまぁ、市場調査?」 「そう言うの、イーサウに来て覚えた言葉ってやつ? 魔術師ってほんと興味の対象が広いよなぁ」 「おもしれぇことには首突っ込みたいのが魔術師って生きもんだからよ」 だから事故死率が異常に高い、とエリナードは肩をすくめる。好奇心は魔術師を殺すなどとも星花宮では言われているほどだ。それで改まるような魔術師はどこにもいないが。 「まぁ、いいけどな。吶喊はするなよ」 「騎兵に言われるとは思ってなかったがな」 にやりとするエリナードにライソンも笑う。確かにそのとおりだった。その首がかしげられた。もう夕刻もだいぶ過ぎている、そろそろ遅い夕食をエリナードに提案しようかと思っていた頃合。こんな時間に予定のない訪問者など、だからいないはず。 叩かれる扉に応待しようとエリナードが動きかけ、ライソンは無言で彼を制しては自分が出た。外を窺っても危険は特に感じなかった。このあたりは歴戦の傭兵だ、自分の勘ならば信じられる。けれど静かに扉を開けたライソンは、唖然とする羽目になった。 「ここ、エリナードさんの家よね?」 ちょうど花がほころびはじめるような年頃だろうか、可愛らしいおさげ髪の少女だった。ふっくらとした頬に散った雀斑まで溌剌として見える、生気の塊のような少女。花売りなのだろう、片腕にかけた籠には一杯の花々。 「……はい?」 何が起きたのだろう、と呆気にとられるライソンの傍ら、少女は駆け抜ける。それほど広い家ではないぞ、思わず呟いてしまったライソンは長い溜息をつくことにもなる。 少女の真正面に位置していたエリナードだった。彼女は確かに彼を見たのだろう。そして駆け寄った。そこまではライソンにも理解できる。 「意味がわかんねぇんですけど」 ぴたりと硬直していたエリナードだった。そこに少女は飛びつくようにして彼の首に腕を投げかける。床一面に花が散った。 「エリィ。元気そうだね。顔見せて」 「いま見てるでしょうが!? つーか、なんだ、そのかっこは!?」 「ちょっと新機軸でしょ? どう、可愛い?」 腕を外してはその場で少女はくるりとまわって見せる。ちょん、とスカートを摘まんでは腰をかがめてエリナードに微笑みかける。そして再びエリナードに抱き付いていた。 「氷帝!?」 「声がでけぇよ!」 「黙んなよ、傭兵!」 どこからどう見ても少女だ。村娘にしか見えない。けれどこの口調、態度、そして万物を凍らせんばかりの眼差しで自分を見ているこの冷やかさ。間違いなかった。 「あー、お久しぶりです」 「僕はあなたに会いたかったわけじゃない。エリィ、顔見せて。痩せたんじゃないの。ちゃんと食べてるの。そこの傭兵の稼ぎ、いいんだろうね? あなたにちゃんと食べさせられないような男なら――」 「だったら俺が稼いで食わせるだけですから! つか師匠!? 過保護もいい加減にしろ! 俺は子供じゃないんですって何度言ったらわかってくれるんですか!」 「わかってるよ。……それでも、こんなに離れてたの、初めてじゃない? だから、僕だって。あなたに会いたかったんだよ、可愛いエリィ」 不意に真摯になった少女、否、フェリクスの声。エリナードはこらえていたのに、耐え切れなかった。ぎゅっと少女の体を抱き返し、その細い肩に顔を埋める。声もなく嗚咽する弟子を抱き、フェリクスはそっと彼の髪を撫でてはライソンを振り返る。 「お邪魔っすかね、俺?」 ふん、と鼻を鳴らしたフェリクスにライソンは笑いだす。エリナードが落ち着くまでの間、茶でも淹れてやろうと支度をすれば、気が利くじゃない、と呟く声が聞こえた。 |