さすがにエリナードが意識を取り戻してからは早かった。十日ほどで常に体から目を離せないという状態からは抜け出す。 ――師匠。俺なら、もう大丈夫ですから。戻してください。 「僕の返事ならわかってると思うけど?」 心の中にいるのだから口にするより早く伝わる。それを言うならばエリナードがはっきりと言葉の形に思考する必要もない。それでも互いにそうするのはたぶん、人には会話と言う形こそが必要だからだ、とフェリクスは思う。 それでもエリナードは「黙って」しまった。無言ではない、思考の停止にも似た。フェリクスはエリナードに気づかれないよう注意して精神の片隅で溜息をつく。 半ば正気を取り戻しかけているエリナードだった。そのぶん、あの瞬間に何があったのかはっきりと思い出しているのだろう。暗く淀んでいくエリナードの心。 フェリクスは引きずられないようにだけは、心掛けている。彼自身、絶望するということがどう言うことなのか知っているつもりだった。いまエリナードが感じているのがそれだとしたら、引きずられたら最後、共に死んでやることにしかならない。 ――師匠。 「ん、なに?」 ――俺は……生きてて、いいんでしょうか。 立ち直ることなどできない。何度となくエリナードは言う。立ち直る気がないと宣言してでもいるかのように。それにフェリクスはそっと微笑む。感じたのだろうエリナードの硬い気配。 「あのね、エリィ。もう塔の迷宮のことは見たでしょ? 僕は自分の記憶のどれを見られたかわからないほど鈍くはないからね、気がついてるけど。あれがいつのことだか、あなたはもう知ってるね?」 ――はい。でも、師匠は、ちゃんと立ち直るって決めて、自分の足で立って歩くって決めて。俺には……できない。 「馬鹿な子だね、ほんと。ちゃんとよく見てごらん。あなたの言うとおりね、僕はそうやって決心して、頑張ったつもりだよ。でも実際はどうだったの? ちゃんと自分の足で立ってるって言えるようになるのに二十年かかってる。気長にやればいいんだよ、人生長いんだから」 経験談なのだからありがたみがあるだろう、笑うフェリクスにエリナードは答えない。それでいいとフェリクスは思っている。いまは何かを考えたり悩んだりできる状態では本来、ない。ただ話しているだけのほうがずっといいはず。それでも自分の問題に返ってしまうエリナードだからこそ、こんな話をしているフェリクスだ。 ――でも、戻りたいです。師匠の体が、持たないから。 「僕の心配より自分の心配をしなさい。僕なら平気だよ」 ――どこがですか! 激高するエリナード。以前はそんなことはなかった。やはり、少なからずエリナードは変わっている。あるいは、こうして精神の中に抱え込まれているだけに、無駄を悟っているのかもしれない、昔のように取り繕う無駄を。 「ほんと柄が悪くなっちゃって。傭兵隊なんかに行かせるからこんなことになる。それだとあなた、カロルの弟子みたいだよ?」 タイラントならば触れない話題だろう。傭兵隊などと口にすればエリナードは嫌でもまざまざとフィンレイを感じる。ただ、フェリクスは思う。避けようが逃げようが、エリナードは感じ続けている。目をそらしようもないことなのに、腫物に触れるような態度はよけい傷つけるだけではないかと。 ――フィンを殺したのは、俺です。だから、はっきり言われたほうがずっといい。 「僕はそうは思わないけどね。あなたが死なせる結果にはなったけど、別に意図的に殺したわけじゃないでしょ」 ――作為があろうがなかろうが、殺したのは俺です。 頑ななエリナードの声。フェリクスにはどうすることもできない。そんなに簡単なものではないだろうけれど、解決するのは時間だけかもしれないと思っている。 ――俺は。 「ねぇ、エリィ。明けない夜はない、なんて言うけどね。暮れない昼もないんだよ。きっと今度はいいことがあるなんて、だから僕は言わない。これからだって生きてれば大変なことばっかり。次々厄介事は押し寄せるよ。それでもね、もしかしたらいつかなんかの拍子に、ちょっとだけいいことがあるかもしれない。そう思っとけば気が楽でしょ」 ――俺には、きっと師匠にタイラント師がいるみたいな相手は、現れません。 「どうして? ずいぶんきっぱり言うじゃない?」 ――勘、かな。師匠たちみたいな完璧な一対には、なれねぇや。 「僕らが完璧? 最低な完璧もあったもんだね」 ――そんなこと言って。俺は……いいんです、もう。だから、師匠だけは、幸せになって欲しいから。だから、俺を。 「体にはまだ返さないって言ってるでしょ、しつこいよエリィ。それと! 師匠の幸福を願うだなんて百年早い! そういうことはちゃんとした大人になってから言うこと。いいね?」 ――もう、大人ですよ。 「誰が?」 ふん、と鼻で笑ってフェリクスは立ち上がる。そっとエリナードの髪を梳いてその顔を覗き込む。心の中、エリナードが目をそらしたのを感じる。見られたくないのか見たくないのか。フェリクスは頓着しない。もっと酷い状態のエリナードを見続けてきた。 「あなたが意識を取り戻したからね。ちょっと体のほうも人らしい顔になったかな」 ――え。 「意識がなかったころの顔をね、僕は誰にも見せたくなかった。あなただって見られたくなかっただろうしね」 エリナードが一瞬にして自分の心の中を探ったのをフェリクスは苦笑と共に感じる。本当に腕はいいと微笑ましくなる。そしてフェリクスが見ていた意識のない体の状態、というものを目の当たりにしたのだろうエリナードが息を飲む。 「いまはちょっと寝てるだけみたいでしょ? あれだよね、魔法の眠りに陥った王子様みたい? この場合、助けに来るのはお姫様かな。それとも、素敵な騎士様がいい?」 ――師匠が。 「ふうん、そっか。僕がいいんだ?」 ――俺はそんなこと言ってねぇ! 「エリィ。この状態でね、言いよどんだり嘘ついたりは無駄だよ。僕も腕はいいほうだからね。嫌でも感じちゃうじゃない。僕に読み取られたくなかったら、言葉にしないこと」 ――言葉にしなくったって、内語の段階で読むくせに。 「そのとおり、飲み込みがいいね。さすが僕の弟子」 くすくすと笑いフェリクスはエリナードの体を抱きしめる。その師の腕を感じることはできないエリナードだった。ほんの少しだけ、かすかに思う。そのぬくもりを感じたいから、戻りたいと言うのかもしれないと。 「だったらもうちょっと落ち着きな、可愛いエリィ。そうしたら戻してあげるからね」 ――だから俺は! 言うだけ無駄を悟ったのだろうエリナードだった。ぱたりと黙って不機嫌そう。フェリクスはそれにも笑う。その響きをエリナードに染み込ませようとするかのように。 結果として、エリナードが体に戻されたのはフィンレイの死亡から数えて五か月後のこと。その間エリナードはフェリクスを罵り続けた。そしてフェリクスは聞き流し続けた。 「おはよう、エリィ?」 体に戻された瞬間のことをエリナードは一生忘れないだろうと思う。フェリクスの精神から切り離された茫漠とした頼りなさ。そして目を開ければすぐそこで微笑むフェリクス。自分の目で見ているのだと理解するまで時間がかかる。 「……おはようございます」 「ん、ちゃんとご挨拶ができたね」 いい子だ、とからかうフェリクスにエリナードは答えない。ただうつむいていた。自分で見ている、その理解が遅れた理由の一つがフェリクスの姿だった。 「師匠……。痩せましたね」 五カ月というもの、精神を抜き取られていた体は自分の物なのに動かし難かった。ゆっくりと腕を上げ、フェリクスの頬に触れる。指先に柔らかな感触。それなのに、かつて知っていたものでは断じてない。それほどフェリクスは窶れ果てていた。 「そりゃね。結構な大仕事だったからね、こんなもんでしょ」 肩をすくめたフェリクスの、その肩すらも痩せて尖っていた。自分なんかのために、フェリクスがこんなことをする必要はどこにもなかった。思うのに、うまく言葉にはならなくて、ただエリナードはうつむくしかない。 「……すみません、師匠。ごめんなさい」 頬に触れていた指が離れ、後悔のよう握られていた。それなのにエリナードの手は緩く丸まっているだけ。 「違うでしょ、エリィ。こう言うときにはなんて言うの?」 「……ありがとうございます」 「ん、よくできました。僕はね、あなたに詫びられたくてしたんじゃないからね。だいたい、ごめんって言うのは僕のほうでしょ?」 「そんな! なんでですか!? 師匠が詫びる意味がわかんねぇ!」 「言ったじゃない。覚えてないの? あなたを僕の我が儘で生かしたこと。楽にしてあげられなくてごめんね、エリィ」 「……そんな」 フェリクスの真摯な目。嘘や冗談などでは間違ってもない。それでも生きていて、願うフェリクスの眼差し。エリナードは答えを知らずうつむくだけ。 「エリィ。ゆっくりでいいんだよ」 焦ることなど何もない。今すぐすべてに答えを出す必要などどこにもない。フェリクスは呟くよう言いながらエリナードを腕に抱く。 「あなたのほうがずっと大きいからね、抱っこはしてあげられないけど」 「抱っこされるほどガキじゃなかったです、最初から」 「誰が? 抱っこして一緒に寝てあげたことが何度もあったじゃない」 「言わねぇでください!」 声を荒らげて、そんな自分に気づいたのだろうエリナードが力なく笑う。肩先にそれを感じてフェリクスも小さく笑う。 エリナードが体の制御を取り戻してようやく星花宮に帰還したのはあれから半年も経っていた。四魔導師はなにも言わず笑顔で彼を迎えた。イメル一人が息を飲んでは目をそらす。 エリナードは黒髪黒瞳へと姿を変えていた。 |