道は続く

 四カ月目も終わろうとしていた。フェリクスはずいぶんと痩せた。体も心も慣れたとはいえ、恒常的に魔力を垂れ流しているも同然の状態だ。体力は刻々と奪われ続けている。
 その中にあって救いが一つ。四魔導師は誰一人として諦めろとは言わなかった。全員がエリナードは回復する、と信じてくれている。だからこそ、フェリクスは続けていられる。魔力的にも、精神的にも。
 塔にあってできることは限られている。エリナードの精神を抱えたままでは魔法の実験などできる余裕は微塵もない。結果として他人が見れば優雅な休日そのもの。日々、魔道書の研究ばかりをしている。傍らに茶を置いて、時折口にする。カロルが置いて行ってくれた甘い茶だった。疲労回復効果の高いこの茶をフェリクスは好んでいる、効能より甘さを。いまのフェリクスには必要だろうとカロルは笑っていたけれど、彼とて想起しないはずはない。フェリクスがエリナードにも飲ませていた茶とは。
 彼は十日に一度ほど、様子を窺いに来てくれる。本当は必要などない。ただ顔を見に来ているだけだろうとフェリクスはどことなくくすぐったい思いでいた。魔力の供給を受けている体だった、様子などそれこそ星花宮にいてもカロルには手に取るようにわかっているはず。それでもなお顔を見に来てくれる師のありがたさ。
「いまだに至らなくって嫌になるよね、エリィ」
 小さく溜息をついてフェリクスは笑う。隣にはエリナードの体があった。いまは長椅子に腰かけさせているせいか、昔のような気分が少ししないでもない。小さかったエリナードをこうして隣に座らせて色々な話をしたものだった。
「ほんと、大きくなっちゃってさ。あんなにちっちゃくって可愛かったのに。いまでも可愛いけどね」
 どんなに大きくなろうともエリナードはフェリクスの弟子だ。いまだかつて感じたためしがないほど愛おしい弟子だ。長年星花宮で暮らしているうち、フェリクスが直接に導いた弟子だけ数えても相当な数になる。その中でたった一人。
「どうしてだろうね、エリィ。あなただけはなんでかわかんないけど、僕の息子って気がするのは。なんでだろうね」
 いつだっただろうか。案じ方が度を越していて、そういう態度は母親のものだろうと溜息をつかれたのは。懐かしいがゆえの痛み。
「エリィ」
 そっと金髪に手を滑らせて子供にするよう撫でてみた。答えることもないエリナード。もういい大人だと反発していたのはいつだっただろう。
「いずれね、あなたが正気に返れば嫌でもわかっちゃうことだけどね。――僕はとても後悔をしているよ、エリィ。あなたを外になんか出すんじゃなかったよ」
 脆いからこそ、鍛えられてほしいと願った。いつかは自分も死ぬ。エリナードが死ぬまでずっと彼の側で案じていられるわけではない。だからこそ、一人で大丈夫だとエリナード自身に言ってほしかったのかもしれない。
「でもね、早かったのかもしれないね。エリィ」
 もっと時間をかけてからのほうがよかったのかもしれない。ふとフェリクスは思い出す。自分自身がカロルに抱えられていた当時のことを。あのときのカロルの後悔をまざまざと思い出す。
「ほんと、師弟して何やってんだかね」
 よく似た道を歩いてきた自分たち。フェリクスは少しも知らなかったところまで、そっくりだった。エリナードは違う道を歩いてほしいと思う。できれば、自分のずっと先まで行ってほしいと思う。
「……でもね、エリィ。どこにも行かなくってもいいよ、いまは。僕はただ」
 突如としてフェリクスが言葉を切った。じっとエリナードの体を見つめる。それでいて、自身の精神の中を。小さく唇がほころんだ。
 ――何やってんだ、師匠!? あんた馬鹿か! 死ぬぞ、離せ!
 なにが切っ掛けだったのか、後々になってもフェリクスにはわからない。無論エリナード自身にも。突然にエリナードは蘇る。
「ちょっと、その言い草はないじゃない?」
 ――でも、師匠!
「あのね、エリィ。あなたはいま正気に戻ったわけでしょ。だったら今がいつでここがどこで、僕が何をしてたのか、もう感じ取ってるはずだよ。精神の理解ってのは早いものだからね。口で話して聞かせるよりずっと早いって、知ってるでしょ」
 ――だって!
「いいから、エリィ。ちゃんと見るべきところを見る。それで、ちょっと落ち着きなよ。あのね、今更あなたがおろおろしてもどうにもならないでしょ」
 もう四カ月も経っている。その間ずっとフェリクスに抱えられたままだった。理解などしたくなくとも知ってしまったエリナードはぞっとして肌を粟立たせた。粟立つ肌などどこにもないというのに。
 ――そんな……師匠。だって、俺なんかのために……こんな、危ない。
「あなたがどう思ってようとね、エリィ。僕はあなたを死なせたくなかった。それだけ。――きっとね、あなたにとっては何もわからないまま、あのときに暴走したままとどめを刺されたほうがよっぽど楽だったと思うよ。――でも、僕が嫌だった。どうしてもそれは嫌だった。あなたには、生きていてほしかった。つらい道を強いたのはわかってるよ、僕の我が儘だ」
 それでも生きていて。フェリクスの言葉にしなかった声が彼の心に丸抱えされているいま、エリナードに強く響く。フェリクスがすぐそこにある自分の体に手を伸ばし、子供にするよう髪を梳く。それを見ている奇妙さ。それなのに、どうしてだろう。
「なんかさ、ちょっと泣けるでしょ?」
 ――師匠!
「もう見たでしょ、エリィ? 僕にもあなたと同じ経験があるんだよ。あの時の僕がどうしたか、あなたにはわかるでしょ」
 カロルの精神の中で涙も流せないのに号泣していたフェリクスの記憶。目前に据えられてエリナードは言葉もない。
 ――それでも……師匠。俺は、フィンを殺しました。
「そうだね」
 ――あの馬鹿が……魔法の前に飛びだしたりするから。俺は……選ばなきゃならなかった。
 説明など要らないのだろう、フェリクスには。自分に見せていると同じほど、フェリクスは自分の隅々まで見ている、その感覚がエリナードにはある。嫌悪は微塵もなかった。
「それにはね、エリィ。僕にはどんな助言もあげられない。たぶんね、あなたが死ぬまで抱えなきゃならない傷だと思うよ」
 そんな傷をつけた相手を決して許さない。フェリクスの声にならない言葉。さすがにはっきりとした言葉にはしかねたのだろう、仮にもエリナードが愛した男だ。師の心の中、エリナードはそっと目を閉じる。
「……ごめんね、エリィ」
 ――はい!? なんですか、急に!
「だってね、助けなかった方があなたは楽だって、僕は知ってるんだよ」
 それでも生きていてほしかった。どうあっても。フェリクスの祈りのような響き。楽な生き方などきっとない。エリナードは言い返すこともなくただそう思う。フェリクスは黙ってエリナードの体を抱きしめていた。
 ――師匠……俺は、大丈夫です。だから、もう。
「自分の体に返せって? 僕がどう返答するか、あなたはわかってると思うんだけど?」
 ――だって、無茶でしょう!? 四カ月だ!? 自殺願望があるとは知りませんでしたよ!
「あなたの知らない僕だってことだね。カロルに言わせると僕は稀代の死にたがりだそうだけどね」
 ――でも、死にたいはずはないでしょう? 俺なら、もう……。
「だめ」
 一言の元に拒絶され、エリナードは身悶えをする。惑乱し、フェリクスの心の中で暴れている。だからこそ、体になど返せたものではない、フェリクスはそう断じている。いま戻せば、再び暴走だ。元の木阿弥以外の何物でもない。
「……エリィ」
 ――なんすか。
「僕はね、確かにいま死にたくはないよ」
 ――だったら!
「エリナード、しつこい! 僕はあなたを守りたい。だから死にたくなんかない! そう言ってるの。理解が遅い!」
 そう言う台詞はタイラントに言え。無言の抗議も心の中に抱えられていては無駄だった。フェリクスが顔を顰め、けれど口許で笑ったのがエリナードにも感じられる。
「僕もいまのあなたと同じように、カロルに助けられた。あの日に救われたこの命をね、いまあなたのために使えるなら、僕はこんなに嬉しいことはないよ。そうだね、本望ですらある」
 ――そんなはずはないでしょう! やりたいことだってまだまだいっぱいあるでしょう!
「あるよ。あるけどね、そのすべてと引き換えにしたって構わない。僕は魔道を歩き続けるより、先を見るより、あなた一人が大事だからね」
 ――タイラント師はどうするんですか!
「まだまだだね、エリィ。あいつは僕の判断を否定なんかしないよ。俺より息子を取るのかなんて馬鹿なこと、言うわけないでしょ。ほんと、馬鹿な子」
 早く大人になりなよ、笑うフェリクスにエリナードは言葉を失う。心の中で膝を抱えて丸まった。ゆらゆらと漂うのが少し不思議だ。氷帝と言われていてもフェリクスもまた水系魔術師と言うことなのか、まるで海の中を漂っているかのよう。健全で強い師の中でエリナードは目を閉じている。
 あるいはだからこそ、黙って漂っているからこそ、感じた。フェリクスもまたいわく言い難い脆さを持った男なのだと。知らず小さく笑う。
「どうしたの、エリィ?」
 ――変な……ところで、似てるなと思って。
「そうだね。僕もよく思うよ。僕とカロルも妙に似てるからね。あなたとも似てると思うよ」
 ――カロル師は……関係あるんですか。
「あるんじゃないかな。あなたを抱えるって決めたときのこと、見てごらん」
 膨大な記憶と思い出のすべてを一瞬にして見られるわけでもない。意図的に見せたいのならばエリナードが自主的に何かを見る、探す、そんな精神の作用が必要でもある。強引に見せることもできたけれど。
「僕はあの人の息子なんだってさ。自分の息子なんだから、息子が自分の子供を助けるって言ってるのに手を貸さないはずはないってね。あの人もけっこう恥ずかしいこと言うでしょ」
 その場に居合わせたかのようエリナードは見ているはずだ。何を思うのだろう。いまだ完全な正気とは言い難いエリナードだ。精神の動きも緩慢で鈍い。かつての生き生きとした弾むようなエリナードではない。
 ――俺は……。元になんか、戻れないかもしれません。
「別にいいよ、それならそれで。それもあなたが選ぶ道の一つだからね。僕はあなたに死んでほしくないだけ。心も、体もね」
 いまだエリナードにはその意味は理解できなかった。完全に理解したのはそれより五年以上も後のこと。いまはただ。
「急にたくさんお喋りして疲れたでしょ。働き過ぎなんだよ、あなたは。休暇だと思ってちょっとのんびりしなよ。付き合ってあげるから」
 言ってフェリクスは抱えたままのエリナードの背をぽんぽんと叩いた。いま彼は自分の体を感じられない。それでも何かは思うはず、かつての自分がそうであったように。




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