道は続く

 カロルは三日ほど塔にいてくれた。初日は身動きすらままならなかったフェリクスだ、その面倒を見るために、などと言って笑って。
 さすがにフェリクスも四魔導師と数えられる、一流の上に超がいくつもつくほどの魔術師だ、そこまで酷かったのははじめの一日だけ。それでも側にいてくれたカロルを思う。
「悪いとは、思ってるんだけどね」
 以来、もう三カ月になる。エリナードが暴走して、心を失ってしまって三カ月。フェリクスはごく当たり前の日常を送っている。精神の中、抱え込んだエリナードは確かにいる。けれど塊でしかない彼。まだ確かな「エリナード」の気配を感じたことが一度もない。それでもここにいる最愛の弟子をフェリクスは守り続けている。
 星花宮の業務は、他の三人が肩代わりしてくれていた。四人でしていても一日の時間より仕事のほうが多かったような有様なのに、と思えば忸怩とするものがある。それでも三人は何一つとして言ってこなかった。自分たちはできることをしているだけだから気にするな、とどことなく伝わってくるだけ。いまだ魔力の供給を受けている身だ、接触などしてこなくとも伝わってしまうものもある。
「リオンに借り、作ったんだからね。エリィ?」
 そっと弟子の髪を指で梳く。鮮やかだった金髪は、心を失って以来、艶まで失くしたかのよう。彼が自分の中で意識を取り戻せばフェリクスにも対応ができるのだけれど、今はエリナードの暴走した精神を守るのに手一杯。だから体にまで手がまわらない。体のほうは無理矢理食べて飲ませるのがせいぜいだ。
「元気になんかならなくっていいよ、エリィ。僕だって、そんな無茶は言わないからね。でもね、文句くらいは言ってほしいよ」
 エリナードを居間の窓際に座らせているのは、フェリクスの自己満足でしかない。彼は何も見ていないし、そもそも目は閉じたままだ。フェリクスが体を操ることができない、それに尽きている。放っておけば瞬きすらも忘れてしまうエリナードだった。目を離すこともできなくては、フェリクスのほうがまいってしまう。致し方なく、エリナードの目はフェリクスによって閉ざされたまま。
「僕の声が、あなたにはきっと聞こえてると、思うんだ。僕だって、知ってるからね」
 エリナードと同じ状態になったことが自分にもある。あのときカロルに守られた命でいま、エリナードを守ることができる。思わず潤んでしまった目を何度も瞬いていた。
「どことなく、ぼんやりと聞こえてるでしょ? あの時の僕は、いまのあなたみたいに正気を失くしてたわけじゃないけどね。カロルにもっと酷いことされたから、本当に最悪の気分だったんだよ」
 長々と溜息をついてフェリクスは笑う。エリナードを座らせた椅子の腕に腰を下ろしてその顔を覗き込む。くすくすと笑えば、心の中にまで響いて行くかのよう。
 できれば届いてほしいと願う。だからこそ、フェリクスは日常であろうとし続けている。エリナードに、日々の営みを感じさせようと。自分が健全であれば、いずれ必ずエリナードに届くと祈るよう。
 もう一度優しく金髪を梳いてフェリクスは席を立つ。ちょっとご飯の支度をしてくるよ、と言いおいて。もちろん返事などあるはずはなかった。
 いまのエリナードが口にできるものは限られている。噛んで飲み込む、というそれだけのことがいまの彼にはできない。ほとんど飲ませているだけ、でもある。自然、食事と言っても流し込む物ばかりだ。
「こう言うの、食べてもあんまりおいしくないと思うんだけどね」
 彼の体は居間にある。だがエリナードはいまここ、フェリクスがいる場所にこそいる。そのせいだろう、独り言めいているのにやはり会話のような口調なのは。
 カロルもそうだった、とフェリクスは思い出す。自分が抱え込まれている間、カロルはきちんと心の中にいる自分と話しつつ、それでもお前はこちらだ、と体にもちゃんと話しかけてくれていた。本来の場所はそこだ、とばかりに。
「意外とさ、細やかな人だと思わない、エリィ? ほんと、態度が悪いだけだよね、あの人。がさつなんだよ、もう。もうちょっとまともになれば貴族の受けだっていいのにね」
 実際問題として、カロルはさほど貴族から疎んじられてはいない。あれで外面を取り繕うこともできる人だとフェリクスは知っている。
「あの外面ってね、エリィ。あなたは会ったことなかったよね。でも、肖像で知ってるじゃない? あのメロール師の姿に学んでるんだよ、カロルは」
 宮廷でどんな態度を取ればいいのか、カロルはおそらくメロールの真似をしているのだろうとフェリクスは思っている。が、それがまずおかしいのだ。
「だってさ、エリィ。メロール師はすごい人だったよ。魔術師としての技量がどうのなんて言うのを放り投げたくなるくらい。この僕が言うんだよ、あなたにはその意味がわかるでしょ?」
 定命の魔術師には到達しようにもできないだけの技術の研鑽。そして半エルフの彼には属性と言う概念そのものがなかった。火も水もこの世界のあるべき姿の一部でしかない、と言われては定命の子は肩をすくめて違うことをするしかなくなる。
「だから僕はいまの属性区分ってものを作ったわけだけどね。そっちの方が扱いやすいし。無理してできないことやって事故るのも馬鹿らしいからね。――でもメロール師にそんなもの関係なかったよ。ほんと、すごかった」
 いまもしここにあの半エルフがいてくれたならば。自分が抱え込まれたとき、メロールの悲鳴が聞こえた気がしていた。カロルの中にいてすら響いてきたあの絶叫。どんな思いだったのだろうとフェリクスは思う。
 小さく首を振り、リオンが送ってきてくれた強壮薬を仕込んだ流動食を作り上げた。顔を顰めてしまうのは、絶対にまずいだろうと思うせい。元々フェリクスは食事の支度が強烈に下手だ。
「まぁ、いいかな。あなた、僕の焼き菓子だって好きだって言う、ちょっと味覚が心配な子だからね」
 本当はフェリクスだとて知っている。愛されていたのに、それを失ってしまった子供だったエリナード。自分には何ら責任がないことで親に拒絶されたエリナード。わけもわからずセリスに救い出されて、星花宮にやってきた小さな子供。少しずつ星花宮に馴染んで、生きていていいのだと理解していった子供。フェリクスに憧れて、大好きで。それが恥ずかしくて言えないから、焼き菓子を好きだという彼。
「ほんと、変なところで照れ屋なんだから。今更あなたが僕を大好きでも誰もなんにも言わないと思うけどね。ただの事実なんだし」
 見ていれば誰にでもわかったのだから。フェリクスは笑って胸に手を置く。いつもならば激しい拒絶と喚きにも似た照れた悲鳴が上がるのに、いまは無言で荒れ狂っている彼の精神。
「ただいま、エリィ」
 それでも体の元に戻ればフェリクスは何事もなかったかのようそう言う。元の椅子の腕に軽く腰を下ろしてはエリナードに食事をさせる。飲み込めなくて零れたものを拭いてやり、甲斐甲斐しく世話をしながらフェリクスは決して目だけはそらさない。
 見たくなかった、心の底から見たくなかった。こんなエリナードの姿は痛々しくて見ていられなかった。あの場で死なせてやったほうがずっと彼自身は楽だったとフェリクスにもわかっている。自分がすべきは救出ではなく、とどめを刺すことだったのかもしれないと思うほどに。
 それだけは、どうあってもできなかったけれど。
 だからこそ、フェリクスはエリナードの無惨な姿から目をそらさない。現実としてここにあるものを見続けている。
 いまのエリナードならば、フェリクスが目をそらそうが涙をこらえて口の中を噛み切ろうが気づくことはない。それでもいつかは気づく。彼が正気になったら、エリナードはフェリクスの心の隅々まで否応なしに見るだろう。抱え込んでいるのだから、フェリクスに拒否できることではない。その覚悟で、今こうしている。
 ためらいがないはずはなかった。すでにエリナードはフェリクスの過去を知ってはいる。それでも目の当たりにするも同然に見てしまうのはやはり、違うだろう。
「信じてるよ、可愛い僕のエリィ」
 それでも何を見てもエリナードならばきっと変わらない。いままでどおりの自分たちであれるとフェリクスは疑わない。
 タイラントのおかげだな、とちらりと思っていた。むしろ、彼と諍いをしたおかげ、かもしれない。ほぼ四年間、タイラントとは追われて逃げての繰り返し。あの時フェリクスは知り抜いた。信じられなかったのは、自分自身でしかなかったのだと。それを理解せざるを得なかったのが、あの諍いだった。
「だからね、いまの僕はあなたを信じられるよ。僕はもう自分を疑いはしないからね」
 水を飲ませて、口許を拭う。返事などなくとも、きっと聞こえていると疑いもせずに。そのまましばしエリナードの髪を撫でていた。
「そうだ、話が途中だったっけ。カロルのことだけど」
 不思議なことをしている、とフェリクスは笑ってしまった。先ほどは独り言めいて口にしていただけなのに、今はこうして話の続きをしようとしている。エリナードがいるのが自分の心の中なのだから、当たり前のことではあるのだけれど、なにとはなしに不思議だとも思う。
「メロール師はすごい人だったけどって話だったっけ。そりゃね、僕にとってのもう一人の師匠みたいな人ってことはあなただって知ってるじゃない? だから……そうだね、もういないからいいかな。僕は、メロール師が大好きだったよ。本人を前にしてはちょっと、言いにくいからね」
 我が儘一杯に育てられた自分を仕方ない子供だと苦笑して見ていたメロール。カロルとフェリクスの師弟のことだと放置して耐えてくれていたのだと知ったのはいつだったか。
「それでもあの人は半エルフだからね。思いっきり異種族じゃない。その態度を真似して宮廷を乗り切っていこうってカロルも結構おかしいよね。あの人、自分が変なことしてるって自覚だけはないんだよ」
 カロルが疎んじられてはいず、けれど畏怖はされているその主な理由はそこだろうとフェリクスは思っている。人間であるはずのカロル。それでいてそこはかとなく漂う異種族の気配。
「元々黒衣の魔導師とかって言われてたしね。あの人は他人の目ってのをちゃんと意識して遠ざけるってことを知ってるんだよね。……ん、だったらあれなのかな。ほんとはメロール師の真似も、わかっててやってるのかな。どうだろうね、エリィ」
 弟子の前でする話ではないな、とフェリクスは苦笑する。もしエリナードが正気で自分の前に座っていたならば、まだこんな話はしないだろう。いずれするかもしれないけれど。フェリクスにとってエリナードはまだ独立を許したとはいえ未熟な若き魔術師でしかない。あるいは、エリナードが正気を取り戻した後ならば、こんな話もできるのだろうか。
「これって、あれかな。常人の父親がさ、一人前になった息子と飲みに行きたいなってのに、似てるのかな。なんだかね、飲みに行きたいのに、でもまだ腕の中で庇ってあげられるほど小さな子供でいてほしい、みたいな。そんな変な感じなんだよ、エリィ。笑う?」
 窓際に、目を閉じたまま座らせているエリナード。陽射しのせいだった。射し込んできたそれに口許が陰になり、フェリクスの目には小さく笑ったように見えてしまった。




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