真っ暗だった。 自分の手も見えない。足も見えない。立っているのだろうか、横になっているのだろうか。空も大地もない。 何一つ見えない闇の中、ここはどこだろうと思う。このままずぶずぶと蕩けて闇の中に溶け入ってしまいたい。けれどちくりとした痛み。次第に強くなるそれは、突き刺すような氷の冷たさ。 自分の手も見えない、足も見えない、空も大地もないここで。けれど、こことはどこだろう。 自分は、誰だろう。 星花宮の四魔導師が一堂に会する機会は四六時中あると言うわけではない。それぞれがそれぞれに仕事を抱えて忙しい。だから久しぶりのこの機会に、とばかり四人ともが雑談に興じもする。茶飲み話ではあるものの、あながち雑談とも言いきれないような話ばかりではあったけれど。深刻ではないぶんやはりそれは雑談、ではあったのかもしれない。 「なんだ、その戯言ァよ」 はん、とカロルが鼻で笑う。言い返そうとしたフェリクスが呼吸を止める。はっしとばかり宙を睨み、微動だにせず。さすが四魔導師だった、他の三人はそれを注視するだけで一言として口を挟もうとはしなかった。 「カロル。僕の精神に手を引っかけてて」 言うなりフェリクスはその場から跳んだ。呆れたカロルが肩をすくめるのすら見ずに。事情はタイラントが説明するだろう。そう信じていたのかもしれない。あるいはそれさえ考えつかないほどフェリクスは動揺していたのかもしれない。 跳んだ先はラクルーサの南だった。異常を感知して何も見ずに跳んだ。さすがにひやりとする。フェリクスはただエリナード一人を目標として、彼の精神がある場所へと、跳んだ。次第に薄れて行くそれを追いながら。 「ラグナ!」 到着するなり、一目瞭然だった。エリナードが暴走している。戦闘は終了しているのだろう、駆け寄ってきたラグナの痛ましげな顔。それでだいたい、察してしまった。 「……フィンレイとかって子が、戦死でもしたの?」 どうやらエリナードは彼が好きだったらしい。フェリクスとしてはあまり歓迎できない男ではあった。もっとも、エリナードが誰を連れて来ても文句を言うだろう自分であるともフェリクスは認めている。そのフェリクスの前、ラグナが黙って首を振る。 「……エリナードの魔法の前に出た、馬鹿が一人、いただけだ」 息を飲む。座り込んで魔力を垂れ流すエリナード。虚ろな目をして、どこも見ていないエリナード。こんな姿を人目にさらすのは忍びない。早く連れて帰ろう、そう思っていたのに。 「……そっか。ほんとに、馬鹿だ」 フェリクスはエリナードを教え導いた。誰より彼の実力を知っている。戦闘中、彼の魔法の前に常人が出たならば、体など欠片も残らなかったに違ない。 「後で、事情は聞かせてもらうと思う。でも今は。連れて帰るから」 硬いフェリクスの声にラグナはがくりとうなずいていた。エリナードを買ってくれていた傭兵隊長。ラクルーサ宮廷との秘密の橋渡しで何度となく会談を持ったラグナ。いまは一回りも二回りも小さく見えた。 「エリィ、おうちに帰るよ」 返事など期待していない。ただ、声をかけずにいられなかった。腕を引けば、ことりと首が動く。ゆらゆら揺れて定まらない。彼の周囲、帰還の紐がちぎれて飾り玉が散る。 山査子の飾り玉。自分の名に、そして愛弟子の秘められた名に通じもする山査子に込めた祈り。フェリクスはぎゅっと唇を噛み、エリナードの体を腕に抱く。小さな自分の体では、弟子に縋っているようだったけれど。 「さぁ、エリィ。いまから僕は無茶をするからね」 言葉と共にエリナードの目から光が失われた。ぎょっとするラグナにフェリクスは無言で首を振る。いまは口もきけなかった。凄まじい衝撃が体を突き抜け、一瞬一瞬に引きちぎられそうになる。 「カロル!」 必死になって叫んだ。合図とともに接触したままだったカロルの精神から魔力の供給。無茶苦茶だ、内心で思ってもフェリクスにはそれを口に出す余裕がない。まるで修業時代に返ったかのよう、拙い手で魔法を操る。一つ一つを確認して、ゆっくりと組み上げて、不器用に、少しずつ。それでも氷帝と異名される彼だった。ラグナにしてみれば発動は一瞬。そしてフェリクス師弟は戦場から姿を消した。 「無事か、馬鹿弟子」 揺らいだ体を支えてくれたのはカロルの腕。自分よりエリナードを。言葉にならないその思いを汲んだカロルは黙ってエリナードの体を受け取った。抱き上げて、長椅子に下ろす。横たわらせてやってもエリナードは口を半開きにしたまま、天井を見ていた。あるいはただ、前を見ていた。 「ガキはそっちだな?」 ちょん、とカロルの指がフェリクスの胸元をつつく。どことなく苦笑しているのは、かつての自分を思い出したせいか。 「無理に引きずり出したか? いや、一応聞いただけだ。んなことができるほど正気じゃなかったみてェだしよ。いまもダメだろうが?」 睨んでくるフェリクス。それでも彼はまだ声が出せない。フェリクスは以前の自分と同じことをしたのかとカロルは思う。無茶加減が妙に似ていて、困る。 何があったのかは現時点でカロルも知らない。おおよそのことはタイラントから中継されていたけれど、フェリクスほどエリナードを知らないのもまた事実だ。 逆に言えば、フェリクスのことならば知っている。お互いに、知らなくていいことまでよくよく知り抜いている。こうしてフェリクスを目前にすれば、考えていることまで伝わってしまうほどに。 「結構つらいだろうが? 人ひとりの精神体丸ごと抱え込むってなァきついぜ?」 「……でも、やるんだ。僕、は。エリィを、死なせない」 「わかってるよ、んなこたァな。心配すんじゃねェ。テメェには俺がいる。この期に及んでタイラントが拒否するはずはねェしよ、俺はテメェの男が薄情もんだとは思ってねェしな」 意味がわからない、と額に脂汗を浮かべたフェリクスが首を振る。エリナードの体の傍らに座り込み、自分の体だとてつらいだろうにその髪を撫でてやったりしている。いつぞやの再現だった。 「テメェにゃ俺ら四魔導師の全面的な補助があるってことだ。遠慮なんざァいる間柄でもねェだろ。魔力は俺が中継してやらァ。好きなだけ使え」 見つめてくるフェリクスの目。自分の精神の中、同じ大きさの異物がある。その拒絶反応と痛みに引きちぎられそうになりながらも見上げてくる弟子の目。カロルは照れくさくなってそっぽを向く。子供にするようフェリクスの頭に手を置いた。 「こっちの方が魔力的に安定してるからな。しばらくは……エリナードが少なくともテメェん中で正気になるまでは、ここにいろ」 言われてはじめてフェリクスは気づいたのだろう、ここが星花宮ではなくリィ・サイファの塔であるのだと。それだけいまのフェリクスは危うい。放置すればエリナードと共倒れだ。 「わかってるな? 一瞬でも気を抜きゃあテメェは持ってかれるぞ」 「……あなたに、できて。僕にできない、とでも?」 「ま、その意気だって言っといてやるか」 にやりと笑ったカロルからいまもまだ魔力の供給を受けているフェリクスだった。久しぶりに勝てない、と実感する。あのときカロルは一人だった。たった一人で自分を抱え込んで、生かした。 「やりゃ、テメェにだってできるだろうよ。ただな、供給源が他にあるんだったら別に無茶する必要はねェだろうが。テメェが死にたがりなのは知ってっけどよ、エリナード抱えたまま死にたかねェだろ?」 当たり前だ、とフェリクスの眼差し。いまはまだ食べ物など喉を通らないのはわかっている。自分もそうだった。だからこそ、茶くらいは飲んでいないとそれこそ精神がやられる前に体が持たない。淹れてやった茶を受け取るフェリクスの手が震えていた。 「しばらくすると、慣れる。いまが一番きついところだ」 ただ、とカロルにも不安がある。あの時のフェリクスは正気だった。ただ死にたかっただけで、気が違ってはいなかった。いまのエリナードはどうなのだろう。体のほうを見る限り、かなり危険なのではないかと思う。そしてフェリクスの中にあってもまだ、エリナードは応答すらしていない。言ってみればフェリクスはいま、生の魔力の塊を抱えているようなものだった、それも暴走する塊を。意志も心もなく、ただ暴れ狂うそれを。 「……どうして、カロル」 「ん?」 けほり、とフェリクスが咳き込んだ。よほどつらいのだろう。魔力に当てられて、喉が破れたか、もっと深くか。掌に鮮血を吐く。カロルはじっとしていろ、と手振りで言ってそれを拭ってやっていた。苦手だ、と呟きながら水球を作り、血の汚れを洗っていく。仕事をしながらカロルは何気なくフェリクスを抱き寄せた。寄りかかっていろ、と。少なくとも、体はそれで少しは楽だからと。 「なんでテメェを手伝うかって? そりゃな、昔の俺がやったことをいまテメェがやるってんならだめだたァ言いにくいだろうがよ」 言えばいいのに、と首を振るフェリクス。素直な黒髪が脂汗に塗れて額に張り付く。それを取ってやりつつカロルは苦笑する。 「テメェにとって俺はなんだよ? テメェは俺の倅だろうが。倅が自分のガキを助けるんだって身を投げ出してんだ、俺がここで噛まねェでいつ噛めってんだよ」 戯言を。いつものフェリクスならば冷たい口調で言い放つ。目だけはほんのりと和らいで。いまは何も言えない。黙ってカロルの肩先に額を当てる。 「テメェは知ってるはずだ。一人っきりで死にたくったってな、案外そうはならねェもんだったよな? テメェが死ぬのは、この俺が許さねェ。だからテメェは死なせなかった。同じだろ」 ことりとうなずくフェリクス。肩先を撫でてやれば話している間にも憔悴して薄くなっていくような、嫌な気配。 「おんなじように、知ってるな? いまは死にたくってしょうがねェのかもしれねェよ、そいつも。そんな意志もねェかな。でもな……フェリクス。あのとき生きて、よかっただろ?」 うなずきもしなかった。それが返答。カロルはせめて助けになれればと魔力の供給だけは絶やさない。いまの自分にはそれしかできない。見守るほうがよほど、つらかった。 「だから、助けてやれ。いつか必ず生きててよかったって、そのガキも言う日が来る。必ずだ」 その日を迎えさせるのが務めだ。カロルの続けなかった言葉にフェリクスは泣きそうだった。もしいま泣くなどと言う余力があれば、きっとそうしていた。 「さぁ、馬鹿弟子よ。しばらくテメェは寝れねェぞ。覚悟しやがれ」 笑ってカロルはフェリクスの手を取る。物理的に接触している方が魔力の供給は容易い。だがそれ以上に。 |