エリナードが青き竜に興味を持っていた。青き竜に、ではないかもしれない。外で戦うことに対して、と言った方が正しいのではないかとフェリクスは思っている。正直に言って悩んでいた。 「青き竜はいい傭兵隊だけどね」 溜息まじり、カロルの部屋にいた。いまだにこうして悩み事があれば師の元に来てしまう。カロルもそれを拒みはしない。いい加減にしろと笑いはしても、相談相手にはなってくれる。決断するのはお前だ、と言いつつも。 「最近、隊長が変わったんじゃなかったか?」 「そう。ダリウスもいい年だったからね。引退して、ラグナだったかな。副隊長だった子が隊を預かってるよ」 「ほう」 当のラグナが聞けば頭を抱えるだろう。二人の魔術師に自分が子供扱いされていると知れば。すでにカロルもフェリクスも魔術師としてすら成熟の年齢を過ぎている。衰えの気配など微塵もなく、円熟の技を誇る二人だったが。 「なんでかな、エリィが外に出てみたいなんて思うのは」 研究命だったエリナードだ。戦闘に興味を引かれたとも思い難い。戦闘呪文の開発に興味があるから実地で研修がしたいというのならばまだわかるのだが。 「そりゃアレだろ。テメェだろうが」 「はい?」 「強くてかっこいい師匠に憧れて、テメェに追いつきたくってあの小僧は必死なんだろうよ。可愛いもんじゃねェかオイ」 「カロル、冗談は」 「言ってねェよ。エリナード見てっとどっかの誰かを思い出すよなァ、え?」 にやにやと笑うカロルを戯れにフェリクスは殴りつける。甘受する師が忌々しい。笑ったまま逃がしておいた茶を手渡してくれた。ほんのりと甘い香草の茶。疲れているから楽にしろ、と言われているらしい。そこまで悩み抜いていると言うわけでもない、と本人は思っている。カロルに言わせれば違うのだろうが。 「……不安なんだよ、僕は」 「ふうん?」 「ねぇ、もうあの子の同期で弟子として星花宮に残ってるのはあの子だけだ。どうしてみんな独り立ちを許したの」 カロルの弟子であるミスティも、リオンの弟子であるオーランドもすでに星花宮の魔導師としてアイフェイオンの名を許されている。四人の中で最も早く許されたのは意外なことにイメルだった。 「あの派手野郎はなんて言ってる?」 「タイラント? ……そうだね。半分くらいはエリィのためでもある、なんて偉そうに言ってたかな。あの子とイメル、仲いいじゃない? 二人でいれば、お互いにずっと仲良ししてるからね。それじゃだめだって思ったみたい」 「俺にゃイメルは少々考えなしなところがあるから外の風に揉まれてくればいいんだって言ってたがな。さすがあの派手野郎の弟子だぜ。誰がどの口で考えなしだとかぬかしやがるかね」 いまだにフェリクスを苛んだタイラントをカロルは許していないらしい。遥か昔の話だというのに。溜息を一つ。悪い気分ではなかった。今となっては許すつもりはなくとも怒っているわけではないのだから。 「で、馬鹿弟子よ。テメェはエリナードのなにがどう不安なんだっつーの。ありゃ技術的にゃもうとっくに名前を許されててもいい頃合だぞ」 四人の中でエリナードがあるいは最も才能にあふれている。正式に弟子として認められたその年に成し遂げた偉業を四魔導師は忘れていない。それ以後も着々と成果を重ねてきたエリナード。それでいて、彼一人がまだ弟子の身分。それなのにエリナード本人は腐るでもなく拗ねるでもなく研究に励む毎日だ。 「……笑わないでよ?」 「まぁ、努力はすらァな。期待はすんなよ」 「しないよ。絶対笑うから。……あの子、やっぱり僕の子だよ、ほんと……変なとこまで僕に似てる。――エリィはたぶん、何か芯がないとだめな子なんだと思う。強烈に目指す何かがないとだめな子。だからあの子はすごく、脆い。たぶんね、きっと。本人も気がついてないよ。自分が精神的にすごく脆いだなんてあの子は知らない。――だから僕は、あの子を独立させるのが怖いし、外に出すのなんて論外だと思っちゃう」 長く細い息をフェリクスは吐く。手を伸ばせば届くところにいるカロル。いまでもなんとなく隣に座ってしまうカロル。いつからだろうか、エリナードが正面に座るようになったのは。少し寂しい。少し、安堵する。その点が自分と違うと思えば、ほっとはするけれど、他はあまりにも。 「ちょっとカロル。いま、笑ったでしょ」 共に腰かけた長椅子がかすかに揺れた。何食わぬ顔をしてそっぽを向いていたカロルだったけれど、それこそ長い付き合いだ。嫌でも感じ取れる。 「……努力はするって言っただろうが。実らなかったんだよ!」 「もうちょっと頑張ってよ! もう」 「無理」 きっぱりと断言されて、フェリクスは気づけば笑っていた。仕方ないやつだな、とカロルが子供にするよう髪をかき混ぜる。嫌だと言っているのに、いつもする。本当はそれほど嫌ではないせいかもしれない。 「ま、あれだな。正確な自己分析ができる程度にゃテメェも大人になったわけだ。喜ばしい事実ってやつだな、そりゃ。一応はよ」 「含みがあり過ぎ、カロル」 「笑わねェ努力を継続中なんだっつの」 震える肩を打てばもうここでこらえきれなくなったのだろう、大笑いをされてしまった。腹を折って笑うカロルではあったけれど、フェリクスは怒りはしない、呆れもしない。 あるいは、羞恥を覚えることもなかった。カロルが自分と同じ見解を持っている、という証左だったから。やはりカロルもまた、エリナードに脆さを見ていたかと。 「いい加減にしてよ、カロル!」 頭から茶を浴びせるぞ、と笑えばカロルがお前も笑っているとまた笑う。まるで修業時代に戻った気分だった。カロルが悩みすぎるなと言ってくれているのを感じることだけが、当時とは違うこと。あの頃はカロル自身、止まることを知らない男だった。いまは誰かのせいで立ち止まることはできなくとも迂回はできるようになっている。そのせいだろう、フェリクスにも肩の力を抜けと示すのは。 「忌々しいんだかありがとうって思うべきなんだか、迷うよね」 「なにがだよ?」 「あのボケ神官のこと」 「あぁ、なるほどなってな、あれをボケって呼んでいいのは――」 「はいはい、あなただけ、そうだね、カロル。あなただけ、あなただけ。はいはい」 投げやりに言えばカロルの苦笑の気配。仄めかすよりも、はっきりした言葉が欲しいのかとばかり。実はそのとおりだったフェリクスだ。軽くうなずいて見せる。 「なぁ、馬鹿弟子よ。あの小僧にとって、テメェは何もんだ?」 「はい? そんなの決まってるじゃない。僕はあの子の師匠だよ。たまに冗談半分みたいにお父さんなんて言われるけど」 言われるときにはたいてい嫌味なのだが。エリナードはそんな嫌味が言えるようになっている。あの小さな子供が、欲しいものを欲しいとすら言えなかった子供が、そんなことを堂々と言い放つようになった。嬉しくないはずはない。思わず緩んだ口許を引き締めたところをカロルに見られてフェリクスは咳払いをする。 「まぁ、師匠だろうが親父だろうが、似たようなもんだろうが。テメェにとっての俺だってそうだろうよ。なぁ?」 肩先を抱かれ、引き寄せられ、わざわざ顔を覗き込まれた。そういうことはリオンにすればいいのに、思うけれどフェリクスはつん、と顎を上げたままカロルを睨む。からからと笑って腕が離れていった。 「テメェはあの小僧を息子だって言うんだろうがよ。あの小僧はテメェを親父だって言うんだろうがよ。だったらな、フェリクス。とっとと名前を許してやって、外に放り出せ」 「だって!」 「エリナードが脆い? んなこたァな、それこそガキん時から見てんだ、俺らの誰もがわかってることだ。派手野郎は知らねェけどよ。でもな、フェリクス。脆いエリナードをそのままほっとく方がまずいだろうが」 「それは、そうだけど。もう少し、もう少しって、ね。やっぱり、ためらうんだよ僕だって」 「ためらってる間に放り出せっつの。――俺はな、テメェを外に出したときに、物凄い後悔をした。覚えてるよな?」 忘れられるようなものではなかった。ぼろぼろになって、カロルの精神の中に丸ごと抱え込まれたあの日。カロルが死んでしまう。その恐怖に正気づいたようなものだった。ことりとうなずくフェリクスの頭をカロルは苦笑して撫でていた。こうして大人になった今でもまだ、幼かったころの細く柔らかな手触りをしているような気がしてしまうフェリクスの髪。本当に幼かったころに撫でてやった覚えがあまりないせいかもしれない、ふとそんなことを思う。 「でもな、フェリクスよ。覚えてるんだったら俺が言いたいこともわかんだろうが。――エリナードが外でどんな目に合おうがな、今ならまだテメェがいるんだ。テメェが死ぬまでっつか、エリナードが死ぬまで、か。それまでテメェが側にいて可愛い可愛いうちの子って守ってやれるもんでもねェだろ。つーかな、それはさすがにエリナードのほうが嫌がると思うぞ、そんな鬱陶しい親父、誰が欲しいもんかよ。いい加減に愛想尽かされんぞ。ま、ガキに捨てられる親父ってのも一興だがな」 「……だよね、それはわかる」 「あー、馬鹿弟子よ。テメェ本格的に悩んでやがんな? いまのは俺の嫌味で笑うところだ。本気で答えられたら間が抜けんだろうがよ」 「あ……」 「ったく、しょうがねェガキだな、おい。手がかかって仕方ねェっての」 「師匠と言ったら親同然、なんでしょ。息子の相談相手くらいやってよ」 「やってるだろうが。で、どうすんだ、助言はしたぞ?」 だから決断するのはお前だ。カロルの翠の目が笑っていた。フェリクスはその目に魅入られていた。いまでもまだ。 こうして、弟子の独立に悩むようになってもまだ。カロルはここにいてくれている。自分の師であってくれている。何かがあれば必ずお前の後ろにいるから頼れと言ってくれている。気づかないうちに、カロルの袖口を握っていた。思わず瞬き、苦笑する。子供じみた仕種なのに、子供のころはそんなことをした覚えがないせい。 「テメェと小僧は仲良すぎだ。派手野郎に妬かれんぞ」 「だからと言って僕とあなたみたいに半分殺し合いってのもどうかと思うけどね」 「そうでもねェだろ、いまはな」 ちょっとカロル。言いかけたフェリクスの声を待たずにカロルは思い切りフェリクスを抱き寄せる。腕の中に抱え込んでにやりと扉を見やる。そこには半泣きになって震えるタイラントがいた。 |