いまフェリクスは何か難しい魔法に取り組んでいるのだろう。星花宮の呪文室で炎を操っていたことでもそれはわかる。氷帝と呼ばれる彼であっても、炎を操ってさえ彼は一流以上だ。それが星花宮の魔導師と言うことでもある。その上で更なる高みをフェリクスは目指す。もっと遠くへ、もっと違うことを。まだ誰も目にしたことのない魔術の地平を彼は目指す。そんなフェリクスにエリナードは憧れてやまない。おそらくは星花宮の弟子はみなそうだろう。それも四魔導師直属の弟子は殊にそうだ。その師に憧れて、彼の後に続き、いつかはその先へ。間違いなく全員が共通してその思いを抱く。 けれどそれは簡単なものではない。フェリクスほどの魔術師が、なおリィ・サイファの塔を訪れる。自らの魔道を更に一歩進めようと。弟子の身とあっては追いつくの越すのと、ただの大言壮語でしかない。だが、いつかは。 弟子のそんな思いなどフェリクスには手に取るようわかっていた。自分がたどってきた道だ。エリナードがなぞるよう歩いてくるのが内心では面白くてならない。くすぐったい、とも言うけれど。微笑ましくて、嬉しくて、だからこそ顔をそむけたくなってしまう。それをしてはエリナードが傷つくかと思うから、フェリクスは仄かに微笑んで彼の前にいる。 ふと思う。タイラントには平気で顔をそむけるし、傷つくとわかっていても平然とそうする。たぶん、そのあとに詫びたり我が儘を言ったり、聞いたり。そういうことが楽しいからだろうとフェリクスは思わないでもない。タイラントの無理解に苛立ったのはいつだろう。最近ではそれほど苛立つことはない、はずだ。たぶん。小さく笑えばエリナードの不審そうな顔。 「そう言えば、師匠」 唐突なエリナードをフェリクスはあからさまにくすくすと笑った。嫌がる顔が可愛いとはタイラントにならば言わないが、エリナードにならば言う。いまは話を続けたそうだったからしなかったけれど。 「あの肖像、ありますよね」 居間の水盤にはリィ・ウォーロックから続く魔道の後継者たちの肖像が浮かびあがる。それがどうしたのだろう、と首をかしげるフェリクスにエリナードもまた首をかしげていた。 「なんでここにあるんですかね。そりゃ、リィ・サイファはここに住んでたんでしょうから、いいんでしょうけど。メロール師はなんでかなと思って」 尋ねつつも、なにもわざわざ星花宮に移す必要がなかっただけだろうとエリナードは思っている。ただの雑談だ。何やら研究疲れをしているらしいフェリクスだ。気晴らしくらいの役には立ちたい。 「あぁ……そういうことか。メロール師の肖像をここにって決めたのはカロルだよ。あの人はメロール師の弟子だしね。それを言ったら僕もそうなんだけど」 「そう、なんですか? カロル師の教導を受けたって聞いた気がしましたけど」 「まぁね。師匠と言うんならカロルなんだけど、メロール師にもいろいろ教えてもらってるよ。なにしろ当時は星花宮もいまほど厳密な組織になってなかったしね。カロルが最初に持った弟子は僕だし」 だからサリム・メロールも様々なことを教えてくれたのだ、とフェリクスは懐かしそうに言った。いまはもういない半エルフの魔術師。エリナードは会ってみたかったと思う。 「ねぇ、エリィ。僕ら魔術師はね、確かに星花宮の魔導師って呼ばれて、ラクルーサの臣下だってことになってる」 「なってる? 違うんですか」 「違うよ、正確にはね。正しくは、国王の臣下、だよ。この違いはけっこう大きい。僕ら星花宮の魔導師は、ただ一人、時の国王のみに忠誠を誓う。だから新王が立ったときには改めて忠誠の儀があるんだ」 まだエリナードは知らないだろうけれど。フェリクスは言い足す。あまり考えたこともなかったエリナードとしてはそのようなものかと思うだけだ。 「だからリィ・サイファの塔はここにあるまま、動かさないんだ。僕らの魔法をもってすればね、ラクルーサに移築することも可能だよ。でも、絶対にやらない。なんでかわかる?」 雑談のつもりが、どうやら政治的な話題になってしまったらしい。エリナードとしては申し訳なくも思うのだけれど、フェリクスは淡々と語り続けている。こんな顔のとき、師はとても楽しんで教えていると知らないではないエリナードだ。そのことにはほっとする。答えはさっぱりわからなかったけれど。 「万が一の事態を想定するから、だよ。なければそれに越したことはない。でもね、なにが起こるかわからないのがこの世って物だしね。あのね、エリィ。たとえばだよ? 時の王が世界征服を企てたとする。僕らは従わざるを得ない?」 「う……それは」 「僕らの魔法であればね、ミルテシアを一飲みにして、シャルマークを焦土と化すことなんか軽いものだ。――あなた、イルサゾートは撃てたっけ?」 「まだ安定しませんけど。発動だけは、なんとか」 一応は火系の最大呪文と言われているけれど、系統としては火、とは言いにくい呪文でもある。流星雨の召喚からの質量攻撃魔法だ。エリナードにも完全な火系でないぶん、発動自体は可能だった。 「最近のあなたは何かちょっと大きな呪文を考えてるみたいだね」 「はい。こう……鉄砲水から着想して、あれを自在に操ることはできないものかと」 「水の竜みたいなものになるのかな? 完成したらすごく綺麗だろうね」 微笑むフェリクスにエリナードは内心で歓喜に震える。師に褒められるのは――しかもこのような形で魔法に関して褒められるなど――殊の外に嬉しい。その思いが一気に冷えるようなことをフェリクスは言った。 「でもね、エリィ。そんな気はあなたにはない、僕は知ってる。あなたは魔術師として、研究がしたかっただけだ。見てみたかっただけだ。でも、それが完成して、たとえば征服を狙う国王に、それを町に向けて撃てと言われたらどうする?」 国王のみに忠誠誓う星花宮の魔導師だ。従軍したならばあり得ないどころではない、充分に想定できる事態だ。さっと青くなるエリナードにフェリクスはうなずく。 「だからね、ここがある。万が一にも魔法によって周囲に害を及ぼしかねない国王が現れたとき、僕ら魔術師が魔法を捨てずに逃れてくる場所として、ここがある。同時にね、星花宮の魔導師には、リィ・サイファの塔と言う最後の砦がある。それを国王は熟知している。どの国王もね」 次の国王はどうだろうか。フェリクスは不安だった。リィ・サイファの塔はいわば宝剣。実際に国王の横暴にさらされた場合、おそらくここは機能しない。星花宮の魔導師のそのすべてをこの塔に収容することはできる。が、後ろ盾一つなく立て籠もっても意味はない。内心でそっと溜息をつく。 「だから、下手な手には、出ない?」 「そういうこと。妙な野心を持てば、国内から魔法が消える。ミルテシアの魔法文化が遅れているって言ってもね、エリィ。ないわけじゃないんだ。もし王城から魔術師がいなくなったら?」 「――市井から、とりあえずかき集めるしか」 「だね。その場合、ミルテシアの宮廷魔導師の攻撃に耐えきれるかな? 僕らが作って維持している強固な結界があるからこそ、ミルテシアからの魔法攻撃から守られているってラクルーサ王はちゃんと知ってるよ」 いかなる攻撃も、探査も、あるいは呪詛でさえも撃退するだけの結界だとフェリクスは言う。あっさりと漏らされたおそらくは国家の秘事。が、現時点で漏らしてもなんの問題もない秘事でもあるとエリナードは気づく。まず自分自身は星花宮の弟子であるからすでに国王の臣下だ。次に、弟子である以上四魔導師の結界を破壊するだけの実力はまだない。最後に仮にそれだけの実力を得たとしても、自分は決してフェリクスを攻撃することはないと断言できる。たとえ国王に刃を向けても、フェリクスにはしない。エリナードの思考の遷移に気づいたのだろうフェリクスがにやりと笑った。 「国王に忠誠は誓う。けれど魔術師は独立した倫理観も持つ。だからこそ、自らの倫理に従って拒否もできる。――それを示すためにリィ・サイファの塔はあると言ってもいいくらいだ」 エリナードにとってここは魔道書の宝庫でしかなかった。本当に言葉どおりの意味で宝の山だ。住んでいいと言われたならば五年や十年はここから一歩も出ずに研究三昧で至福だろう。 けれど、それだけではなかったのだとフェリクスに示された。ここは魔術師が自らの道を正しく歩くための最後の砦。ぶるりと体が震えた。 「魔術師はね、常人には扱えないだけの力を持つ。嫌でも自分にできること、しちゃいけないことを考えなきゃならないときが来る」 「俺は、まだ――」 「あなたはもうそういう時期だと思うよ、僕はね。いまの研究に神聖言語がなきゃだめだって気がつくくらいなんだから」 「それ、でも」 「あなたは真言葉は発声できない。僕もだけどね。でも、意志になる前、思考より前の段階で、真言葉をちゃんと使ってるはずだ。その内語の段階の真言葉を、通常言語にそのまま移行させるのはかなり厳しい。だから神聖言語を噛ませる必要がある。それだって半エルフでもない僕らにとっては表記言語だからね、発音上の問題はあるけどそれもここで研究できる。そう言うつもりでしょ? ――あぁ、言わないほうがよかったかな。あなたは言葉にならなくても理解してると思ったから言っちゃったけど」 「あ、はい。たぶん、そういうことだと思います。……いえ、間違いない。それですね、俺がしてるのは、はい」 「ちょっとお節介だったね、ごめん。――ね、エリィ? そこまでのことがその若さでできるあなただ。僕はあなたが小さなころから魔術師の倫理ってものを厳しく仕込んできたつもりではあるよ」 「できるだけ覚えてるつもりではいます。忘れてたり勘違いしてたりとかもあるかもしれませんけど」 「うん、わかってるよ。だからその上で、あなた自身の言葉で、あなた自身が考える時期かなって言ってるの。僕が教えたことが全部正しいわけじゃないってことだよ、エリィ」 「そんなことはないです! 師匠は!」 「それだよ、それ。あなたは僕を絶対視しすぎてるよ、可愛いエリィ。憧れてくれるのは嬉しいけどね、それだと間違いなく僕は越えられない。僕は可愛い弟子にはいずれ僕より先に行ってほしいと思ってるよ」 にこりと微笑むフェリクスに愕然とした。いつの間にか浮かせていた腰をすとんと落とす。ここまで買われているとは思ってもみなかった。目を瞬き、そして背筋を伸ばしてうなずいたエリナードをフェリクスはくすぐったげに見つめていた。 「だったら、後継者の肖像に伴侶が一緒なのも、なんか意味があるんですよね」 実は昔から気になっていたことではある。はじめてここに連れてこられた時、どれほどときめいたことだろう。いい機会だから、尋ねてみたかった。フェリクスはあっさりと肩をすくめた。何か非常に嫌な予感がしたエリナードだ。 「あぁ、それね。カロルの冗談と言うか、嫌がらせ? 半エルフは親密な関係を見られるの、嫌がるからね。だからカロルは懐かしかっただけだとは思うけど。でもこれ、メロール師が見たら絶対に激怒するね」 「だったら、リィ・サイファは……」 「そっちは旅に出ちゃった友達が懐かしくてメロール師が作ったんだと思うよ。ウルフことカルム王子だってメロール師の友達だったんだし。あのね、エリィ。深遠な理由なんてそんなにないもんなんだよ?」 くつくつと笑うフェリクスにエリナードは肩を落とす。もしもいずれ自分が塔の管理者に指名されるようなことがあったならば。そして先の管理者がフェリクスであったならば。やはりタイラントと並んだフェリクスを作るだろうと思っては力なく笑った。 |