それからが困難の始まりだった。いまの段階で市井の魔術師としてならば充分にやっていける。それも一流と呼ばれて生きて行ける。エリナードは師の言葉を退けた。まだ先がある、と。 そして星花宮の弟子として研究と鍛錬の日々。いままでの研究は本当に魔法という玄妙の一角でしかなかったのだと思い知るような毎日だった。 あの日、フェリクスに告げられた言葉と同じものをそれぞれの師に他の三人も言われたらしい。当然のようエリナードを含めた四人ともが星花宮に残った。そして改めて気がつく。もう旅立って行った仲間がずいぶんといるのだと。訓練時代を含めれば、残っている仲間のほうがずっと少ない。 「まぁ、当たり前か」 訓練は魔力を持った子供たちが自然に生きて行かれるように、との願いを込めたもの。初期訓練を終えてそのまま市井に戻る子供も多い。星花宮の弟子となってもここまでたどり着いた仲間は少ない。もう魔法を諦め市井で生きると決めた仲間がずいぶんといた。 それはそれでいいことだとエリナードは思う。彼らは自分の道をここではない場所で見つけたのだろうから。星花宮の道は険しく厳しい。残ると決めた日からエリナードは体重がかなり落ちた。 「エリィ。寝て、食べる。その程度のことができないんだったら放りだすよ」 フェリクスに顰め面をされてやっと気づいて改めた。それだけ夢中だったとも言える。弟子となってから感じたあの魔法への面白さがまた戻ってきている。いままでだとて興味を失っていたわけでは決してない。新しい呪文の構成を考えるとき、魔法の効率化を研究するとき、常にわくわくとしていた。 「それでも質が違うってやつかな。――だめだ、足らねぇな」 ふふん、と鼻で笑うのは楽しくて仕方ないから。うっかり鼻歌でもはじめかねない自分に苦笑すればそんな態度にもなる。 「師匠、お願いがあるんですが」 呪文室を使っているフェリクスだった。彼が使用中の呪文室は扉の前に粉雪が舞い散る。弟子の多くがこれに怯むというけれどエリナードは綺麗だな、と眺めてあっさりと扉を開く。 「なに? お願いの内容にもよるよ。別に僕はあなたに甘い自覚はあるけど無条件ってわけでもないからね」 言いながら放っていた魔法を収束させていく。氷帝と渾名されるフェリクスだというのに、いまの彼は炎を操る。白くも見えてしまう炎にその温度の高さを思う。いつかここまで到達できれば。武者震いをするエリナードをフェリクスがそっと微笑んでいた。 「神聖言語の、研究がしたくて。ちょっと新しいことをしたいんですが、ここだと文献が足らないんです」 「あぁ、あっち? そうだね、神聖言語だったら塔のほうがあるからね。いいよ、僕もちょうど用事がある。行こうか」 「いいんですか?」 問うたときにはすでに転移呪文の詠唱に入っているフェリクスだ。苦笑を一つ。エリナードも追随する。転移呪文はフェリクスが最も得意としている呪文の一つだ。その師に倣いたいエリナードが研鑽を積んだ分野でもある。おかげで同期の仲間内ではエリナードが一番うまい。 「ふうん。速くなったもんだね。さすが僕の弟子?」 塔の居間でフェリクスは長椅子にくつろいでいた。いくら同期で一番速いと言ってもここまで差がある。エリナードは落ち込みはしない。到達の目標がまだ遠いことを喜ぶだけだ。 二人して書庫に移動してそれぞれが目的の文献を漁っていく。エリナードが研究中の魔法にはどうしても神聖言語が必要だった。通常言語で考えていてはどうにもならない。かといって真言葉では問題がある。 けれど最大の問題が一つ。神聖言語は解明が済んでいない。かつてこの世界に君臨した神人が使っていた言語だ、という。四魔導師によれば半エルフたちは生まれたときからこの言葉を話せるらしいけれど、エリナードは半エルフの知り合いがいないから実感はない。そして現在、ラクルーサ王国に親しい半エルフは一人もいない。結局いままでに解明できた部分を細々と繋げて続けて行くだけだ。 なんとか解明が済んでいる文字であっても、現代の文字への対応が可能になった、というだけで単語、言語としての解明はまだまだだ。文字として対応できている部分が八割、単語単位で考えればその半分、というのが最大見積もったあたりだろうとエリナードは思う。そもそも神人と人間では見ている世界が違ったのか考えているものが違うのか、言葉で表現しようがないともフェリクスは言った。文字がわかろうが単語になろうが、概念として人間が理解できようがないと。少しばかり悔しそうで、これが理解できれば魔道がどれほど進むか、そんなことを師が思っているのが如実に伝わる。エリナードはフェリクスのそんな表情が何より好きだった。いまもまだ魔法に憧れる少年のままのような、そんな顔を彼はする。師の生い立ちを考えれば、そんな長閑な少年時代など決してなかったのだろうけれど。 「あんまり根を詰めると体を壊すよ、エリィ。お茶にしない?」 ひょい、と背中からまわってきた小さな手が目隠しをしてくる。強引に仕事をやめろと言っている師ではあるのだけれど、なぜか溜息をつきたくなる。 「師匠、いいですか」 「なに?」 「俺は子供じゃないんです」 立ち上がってわざわざフェリクスを見下ろした。なにをどう言おうが休憩をさせられることはわかっている。ならば話しながら居間に移動するべきだ。書庫で茶を飲むつもりなど微塵もない。ここには貴重極まりない文献が寒気がするほどあるのだから。 「知ってるよ? ほんと、ずいぶん背が伸びたよね。頭一つ分は大きいもの。嫌になるよ、まったく」 背伸びをして頭の天辺に手を置いてくる。微笑んで優しい顔をしているからと言って、フェリクスが自分で遊んでいないとはまるきり思わないエリナードだった。 「だから子供扱いはやめてほしいなって言ってるんですけど」 「うん、それも知ってる。だから?」 案の定だった。わかっていてやっている。そしてやめる気は毛頭ない。笑顔の向こうで断言された。これもまた師の愛かとエリナードはあからさまに溜息をついて見せる。内心では嬉しさがくすぐったかったけれど。 「あなた幾つになったっけ? いま、あれから三年くらい経ってて……二十八歳? そのわりに顔が変わらないね。だいたいあのあたりで止まったかな」 「たぶん」 「あなたもわりに魔力が強いほうだからね。僕の勝ちかな」 「はい?」 居間で茶を淹れるのはエリナードだった。別に彼と決まっているわけではなかったけれど、なんとなくそんな気分だ。フェリクスが淹れてくれる茶のほうがエリナードは好きだ。が、それを言うと半日は遊ばれる。 「タイラントとさ、賭けをしててね。あなたの成長がどの辺で止まるかなって。魔力が大きいほど成長は止まりがちだからね。その辺はリオンが研究してるよ、今度聞いたら?」 「……師匠」 「なに?」 言いつつ持参の菓子を皿にあけていた。いつものようフェリクスが焼いたのだろう。しっかりと焦げている。懐かしい思いに微笑みそうになってエリナードは思い切り顔を顰めた。 「弟子で遊ぶならともかく賭け事はないでしょう、賭け事は」 「普通は遊ぶなって言うと思うんだけど」 「遊ばれ慣れました。別にそれはいいです。師匠の弟子ならそれくらいで動じてちゃ務まりませんし」 「できた弟子もいたものだね」 にやりと笑いフェリクスは手渡された茶器を軽く掲げる。礼を示して口をつけ、ほっと微笑む。気に入ったらしい。それを横目にエリナードも腰を下ろす。 「僕はあなたが二十代半ばで止まると思ってた。タイラントはもう少し上だろうってね」 「それはまぁ……師匠の弟子ですし。師匠のほうが見えてて当然かと」 「なに、可愛くないの。さすが師匠って言いなよ」 ぷん、と頬を膨らませて見せるのにエリナードは肩をすくめる。自分にそんなことをして何がしたいというのか、フェリクスは。ただの冗談だろうが。 「師匠だって二十代半ば、くらいじゃないんですか」 「たぶんね。ただ、僕は元が童顔だし、背も小さいしね。下手すれば十代かって言われるから」 「……見えますね、怖いことに」 「でしょ。けっこうな悩みだよ。花街に監査に行くのだって気を使う」 王城の外に出るときには人間の幻影を被っているとはいえ元々のフェリクスの顔立ちが変わっているわけではない。よって、どうあってもフェリクスは人目を引く。年嵩に見えるように、と着飾っていたりすれば覿面だ。危ない方向に。 「ほんとね、売る方に見えたことが何度あったか。それも若すぎる売り手だって言うんで衛兵に捕まりかけてね。こっちの身元が証明されるまで大変だし、されたらされたで平謝られるし。面倒くさいったらないよ」 「女の子だったら若くて可愛いってのは誰でも欲しがりそうなもんですけどね」 「そうなの? 僕は女心は疎いからね、知らない。――だいたいね、弟子に可愛いって言われてるようじゃおしまいだよ」 「いや、別に! 師匠が可愛いなんて俺は!」 「ふうん? 別にいいけど。でもタイラントには報告しておくね、可愛いエリィ?」 内心で叫ぶ、やめろクソジジイと。聞こえたわけもないけれどフェリクスはにやりと笑った。タイラントとフェリクスの遊びの種にされているらしい、自分は。嫌ではなかったけれど、あからさまに言われて喜べるほど歪んではいない。 「それとね、エリィ。聞きたいことがあるんだけどいい?」 いいですよ、と首をかしげつつエリナードは緊張している。こんな戯言から真剣な話題に移行することが何度あったか。 「ちょっと不思議なんだよ。あなた、そっちに座ったじゃない?」 顎でフェリクスはエリナードの座っている正面の椅子を指す。向かい合わせのエリナードとしては何が不思議なのかわからない。 「まだちっちゃかった頃にはちょこんと僕の隣に座ってたのにさ。あれ、すごく可愛かったのに」 「……こんなでかい男が横に座っても可愛くないでしょうが!」 「そうでもないよ。いまでもあなたは僕の可愛いエリィだからね」 戯言から、戯言に移行しただけだった。がっくりと肩を落としつつエリナードはうつむいて笑う。それで師の仕事疲れを癒すことができるのならば望むところだとばかりに。 |