道は続く

 呪文室の扉に入室禁止の斜線は引いていない。特に秘密にするような研究はしていなかったし、突然に入られて危険な実験もしていない。そのせいではある。
 が、それにしても最近はよく来るな、と思ってしまう。嫌がっているわけではなかったけれど不思議ではある。何しろ見に来ているのはタイラントなのだから。
「タイラント師。ちょっと手伝ってもらってもいいですか。というか、手伝ってほしいんですが」
「いるんだったら師匠筋でも働けって? 君のそういうとこ、ほんとシェイティの弟子だよなぁ。いいけど。何したらいい?」
「じゃあ、その――」
 単純な風系魔法の訓練に等しいものだった、エリナードが頼んだのは。イメルがいるならばイメルにやらせるのだけれど、彼はいま城下に歌いに行っている。
 にこにことしながらタイラントは易々と魔法を操ってくれた。まるで歌うようだ、と思う。呪歌ではない、純粋な鍵語魔法であるのに、タイラントのそれは音楽のよう。イメルがいたら驚喜しただろうな、と思って内心で苦笑しつつエリナードは新しく考えている呪文の詠唱にかかる。こればかりは真剣だった。危険はないはず。けれど常に魔法の実験は事故と隣り合わせだ。
「ずいぶん慎重だね、エリナード」
 一通り魔法の働きを試した後のことだった。新しい呪文であっても、タイラントにはそのあたりの勘所がさすがにわかっている。イメルならば話しかけてほしくないときに何かを言ってくる。絶対に。たまにはわざとだろうかと思うが。
「そりゃ、まぁ。一応は、外気の中で使うことを想定してるんで、そのせいです」
「だから風系?」
「はい」
 自然環境の風と魔法の風は似ていて違う。けれど、大気の流れという意味では同じものだ。そこに風を起こさせた原因が何か、というものが違うのであって、流れているものは同じなのだから当然ではある。
「その辺がさ、君のすごいとこだなって俺なんかは思うよ、エリナード」
「はい!?」
「だってさ、原因と結果の関係性をさ、君は言われる前にちゃんと飲み込んでるだろ。俺はそれに苦労したからなぁ」
 タイラントは大人になってから己に魔力があると知ったと言っていた。むしろ、己が身に備わった不思議が魔法というものだったのだと知ったのが大人になってからだった、ということらしい。おかげで勉強も訓練も遅くなった、それで苦労をしたとタイラントは笑う。エリナードとしては信じがたい。よくぞ暴走しなかったものだと思って。比べるのもおこがましいけれど、自分は七歳にして暴走寸前だったと後で聞いた。この、タイラントより魔力の劣る自分が。やはり四魔導師は違うな、と思ってしまう。
「それに、慎重だった理由はそれだけじゃないだろ?」
「だって、風系ですから。水系の俺の魔法とは増幅しあいますし。俺はまだ未熟だから……気をつけてないと制御を失くしちゃうんで」
「ほらな? それだってちゃんと理解してる。俺はその辺の飲み込みがほんっとに悪くってさ。もうどんだけシェイティに怒鳴られ続けたことか」
 はぁ、とわざとらしい溜息だった。それに乗ってやるほどエリナードは人が好くはないし、そもそもこれはただの惚気だとわかっている。
「そんなに、怒鳴りますか?」
 それなのに、つい言ってしまった自分の若さに腹が立つ。そんなエリナードをちらりとタイラントが笑った気がした。
「怒鳴ってるだろ? もう四六時中、寝ながら怒鳴ってるんじゃないかと思うくらい怒鳴ってるじゃん」
「え……?」
「あぁ……エリナード。君は、シェイティの弟子なんだなぁ」
 呪文室の床に胡坐をかいたままだったタイラントが腹を折って笑いだした。その姿勢で先ほどまで魔法を操っていたのだから、鍛錬がどうのと言う問題以前の気がしているエリナードだなど知りもせず。
「タイラント師?」
 笑われる原因がさっぱりわからないエリナードだった。魔法の因果関係は理解できても、人の感情の機微となればまだ二十歳前の小僧でしかない。
「だってさ、君はシェイティが怒鳴ってるって思ってないんだろ?」
「……少なくとも、俺には怒鳴ってないので」
「だからそれがおかしいんだよ、君は。だって怒鳴ってるだろ!? もうほんっと、喉が張り裂けるんじゃないかと思うくらい怒鳴りまくりだろ!? それなのに君ときたら。ほんとにもう」
 大笑いをするタイラントだったけれど、エリナードは腑に落ちない。まったくもってどこにも落ちない。確かに声を荒らげることはある。たしなめられることも多々ある。が、特に怒鳴られていると思ったことはない。首をかしげるエリナードをふ、とタイラントが妙な目つきで見やった。
「そういうとこなのかな」
「何がです?」
「いーや、こっちの話。別に気にしなくていいよ」
「ものすごく気になるんですけど。それと……邪魔じゃないんですよ? ただ、最近タイラント師、俺んところに何しに来てらっしゃるんですか」
「んー、やっぱり――」
「邪魔じゃないとはいま言いましたよ」
 ぷっとタイラントが吹き出す。彼の色違いの目が言っていた、そんな物言いもフェリクスに似ているな、と。エリナードは思わず目をそらす。
「照れなくってもいいだろ、別に?」
「そんなことしてませんから! 俺はイメルじゃないんです。師匠の真似をしたいとは思いません!」
「へー、あいつそんなことしてるんだ? 気がつかなかったなぁ。可愛いところあるな、結構」
 ふふん、と満足そうに笑う。本気で気がついていなかったとはエリナードは微塵も思っていない。だからこそ、タイラントが何を言ったのかが理解できてしまう。君だって同じだろうと言われたのを。
「ですから、タイラント師」
「まぁ、あれだね。言ってみれば私用だな」
「私用、ですか」
 これ以上真似がどうのと言うならば四魔導師であれ呪文室から追い出すぞ、との恫喝もあらわなエリナードをタイラントはあっさりいなして話を戻す。フェリクスならばまだまだ存分に遊ばれている。こればかりはタイラントがありがたかった。もっとも、エリナードはフェリクスを恫喝するようなことは決してしない。師が恐ろしいのではなく、彼に対する甘えがそうさせた。フェリクスもまた、それを理解しているからこそ、からかって遊び倒すのではないかとエリナードは疑っている。否、信じている。
 不意に気づいた。数日前、浴場の改造修繕をしていたときイメルが戯言を言っていた。エリナードの耳にも届いていた噂話だ。まさかと思うが、よもやがないとは言いきれない。
「うん、実はそう」
「タイラント師! 冗談でもやめてください! 俺は――!」
「あぁ、違うよ? 別に君がシェイティとどうこうなったなんて思ってない。それはないよ。これでも俺は愛されてるからね」
 胸を張るくらいならば妙なことを言わないでほしい。がっくりとその場に座り込み、タイラントをねめつける。
「たださ、なんて言うのかなぁ。エリナード、君はすっごく可愛がられてるよな?」
「むしろ師匠には遊びがいのある玩具なんだと思いますが」
「それもないかな? シェイティは――なんて言ったらいいんだろうな。吟遊詩人の誇りにかけてこんなことは言いたくないけど、言葉にならない」
 言い切ってタイラントは天井を仰ぐ。そして小さく歌いだした。歌詞のない音楽。世界の歌い手の喉が奏でるこの世界の歌。
 確かに言葉になどしようがなかった。それでもいまこの瞬間だけ、エリナードは全き形で理解する。自分に対するフェリクスの思いを。そして自分がどう思っているのかを。あとになれば途切れ途切れ、ちぎれた断片でしかないだろうそれであっても、エリナードは忘れないだろうと思う。
「な? 君とシェイティの間には、こんな思いがある。シェイティがどれほど君を可愛がってるか、わかるだろ?」
「……まぁ」
「だよな。君くらいの年の男の子としては可愛がられてるって言われて素直にはいとは言えないよな。それもわかるんだけどさ」
 くつくつとタイラントは笑う。エリナードとしてはどうにも居心地が悪かった。魔法の話ならばともかく、呪文室で自分たちは何をしているのかと思ってしまう。
「なんて言うかさ。それがちょっと俺としては羨ましいかなって」
「はい!?」
「だってさー、いいよな、君。俺とは違う形だけど、こんなにシェイティに愛されてる。俺だって可愛がられたいし。だから君を見てちょっと勉強しようか――」
 タイラントが頻繁に顔を見せる理由がそれか、とできることならば呪文室の床にめり込んでしまいたいエリナードだったけれど、不自然に言葉を切り、しかも青ざめてだらだらと冷や汗を流しているタイラントが目の前にいるのだ。そうもできない。
「ちょっと、そこの馬鹿。うちの子になに言ってくれてるわけ? その辺の理由を微に入り細を穿って聞かせてもらおうか、ね? ちっちゃな可愛い僕のタイラント?」
 もちろん顔を見せたのはフェリクスだ。いまは背にしている部屋の扉をエリナードは振り返りたくない。とはいえ、ここにいるのもご免こうむる。
「あなたはあなたでエリィじゃないじゃない。だいたいエリィと二人でこもって何してるかと思えば。それだって結構不愉快だって言うのに」
「えーと、師匠。俺は退席したいです」
「うん、そうして。あぁ、エリィ。悪いけど、扉の印、書き換えて行ってね。とても人様にお見せできる状態じゃなくなるから」
 にこり微笑む悪魔にタイラントが震えている。が、フェリクスの険悪な眼差しにそれが本気になった。エリナードは黙って肩をすくめて出て行こうとする。その背後、フェリクスの魔法の気配。慌てず騒がずそっと扉を閉めて入室禁止とした。
 気が抜けてしまって、今日の研究はここまでにしようかと自室に戻って本でも読む。しばらくするとイメルが戻ってきた。
「あれ、エリナード。なんでお前ここにいるんだよ? 呪文室の印、直ってなかったぜ」
「師匠が使ってるよ」
 肩をすくめて事のあらましをイメルに話せば硬直した。そこに居合わせたのが自分でなくてよかったと心底思っているらしい。
「で、師匠が魔法撃ったんだ。――間違いなく、そっち系の」
「はい!?」
「いまごろタイラント師、ケダモノになってると思う。たぶんあれだよ、師匠はタイラント師が俺と一緒だったってのが気に入らなかったんだと思う」
「なんでそこでお前に嫉妬するわけ!? 意味がわからない……」
「俺もだよ、イメル」
 淡々と言ってエリナードは読書の続きに戻る。それくらいのことで動じていてはフェリクスの弟子などとても務まらないと言いたげに。




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