道は続く

 真夜中を過ぎたころだった。エリナードは一人、星花宮の共同浴場にいる。一段掘り下げになった半地下にある浴室で、昔ここが離宮であったころには大きな大理石の浴槽が一つあったらしい。いまはずっと大きな石造りの浴槽になっている。一度に数十人が入ることも可能なように。星花宮には訓練中の子供たちが嫌と言うほどいるのだからどうあっても必要な設備だった。
 余談だが、子供たちの入浴時間中はその場に居合わせた魔術師や年嵩の弟子によって壁が作られる。多感な年頃の少年少女を慮ってのことだが、通常は広々としたままだ。必要ならば自分で壁を作るだけのことで問題はない。もっとも男女と言うならば一人前の女性魔術師は気に留めないようで、うっかり出くわしてしまったときには男性のほうが退散する。
 が、もうこんな時間には人気などない。星花宮の魔術師は時間感覚が常人とは違う、とはよく言われる。単に研究に夢中になってしまうだけのことだな、とエリナードは思っている。彼自身、よくあることだった。
 いまは、違う。わざわざ選んでこの時間にここに来た。こんな時間に入浴するものはほとんどいない。あえてくるならば、それは清潔さを求めてのことより、緊張した精神をなだめに来たり、一仕事終えてほっとしに来たり。そういうものばかり。いまはそれもいなかったけれど。だから浴室内には明かりがほとんどない。洗い場が必要とされてはいないのだから、明かりを灯しておく必要はない、ということらしい。そもそもここを使うのは魔術師ばかり。必要があれば自力で魔法灯火を作れば済むだけだ。
 エリナードは一仕事が終わったわけでも緊張にさらされていたわけでもない。ただ、なんとなく一人になりたかった。一人で、のんびりと考え事がしたかった。夜遅くになって昇ったのだろう月が、天窓から見えている。半地下なのに明るいのは、そのおかげだった。昼は燦々とした陽射しが、夜は深々とした月光が降り注ぐ。いかにも魔術師の棲家らしい浴場だ。
 ――なんでかな。
 内心に呟いてしまう。近頃、どうにも苛立って仕方ない。こうして一人でいればいいのだけれど、イメルといてもフェリクスといても似たような苛立ちを感じる。
 決して嫌いではない。むしろ、どうして苛立ってしまうのか、そんな自分のほうこそを嫌いたくなるほど戸惑ってもいる。が、どうにもならない。暴言ぎりぎりのことを言っているはずなのに、笑って済ませてくれる師にも申し訳なくて申し訳なくて。
 ざばりと顔に湯をかける。浴槽の縁に腰かけていた体を再び湯の中へ。手足を伸ばせば、月光にゆらゆらと翳って見えた。長い溜息を一つ。考え事がしたくて来たはずなのに、考えているより迷っている時間のほうがずっと長い。いまもまた堂々巡りだ。苛立つ、なぜ。すまない、その繰り返し。湯に顎まで浸れば、背後で音。こんな時間だというのに誰かが入ってきたらしい。挨拶をしようと振り返り、エリナードはぴたりと止まる。ついで立ち上がりかけたけれど。
「逃げるな、エリナード」
 むっとしたフェリクスの声。確かにここから走って逃げられれば不愉快だろう。が、フェリクスが自分をきちんとエリナード、と呼んだことのほうになぜかエリナードは衝撃を受けた。
「……なんの用ですか、師匠」
 フェリクスがこの共同浴場を使うことはほとんどない。絶対にないとは言いきれないけれど、彼には自分で使える空間がいくらでもある。こんなところまで来る必要などどこにもない。よって、自分に会いに来たとしか思えなかった。
「別に?」
「師匠!」
「用事がなきゃだめなわけ? だったら用事をあげるよ、雑談だよ雑談。それが僕の用事。これでいい?」
 ちゃぽん、と長閑な音がした。ためらいなく隣に入られてしまった。もっともためらう理由などどこにもないし、フェリクスに対してそのような感情は微塵も持っていない。が。それでも。
「――タイラントはほっとけって言うんだけどね」
「……なにをですか」
「あなたのことだよ、エリィ」
 いつもどおり呼んでもらえてほっとした。はじめは女の子みたいだと思って少し恥ずかしかったのに、慣れたものだと内心で小さく笑う。こんなものに安堵してしまうのは。同じくらい、苛立つのだけれど。それを表したくなくてエリナードは黙る。
「少しね、僕の昔話をしようか」
 聞いているのはわかっているから返事などしなくてもいい。無言のフェリクスの優しさがエリナードは痛かった。不甲斐なくて、どうしようもなくて。とぷん、とフェリクスが湯の中で体を伸ばす音。
 そうして聞いた話はエリナードの苛立ちなど飛んで行ってしまうほどのものだった。
「この前話したよね。僕がカロルに会ったのは、いまのあなたよりもう少し小さかったころ。青薔薇楼から逃げて、カロルに拾われたんだ」
 くすくすと笑いながらフェリクスは話す。彼にとってはもういい思い出なのだろうか。エリナードには衝撃が強すぎる話だ。
「当然ね、僕はカロルを信用なんかしなかったよ。当たり前じゃない? だって客とおんなじような年頃だったしね。この男は僕を飼って好きなようにするんだろうって思ってた」
 笑えるよね、とフェリクスは言う。エリナードは笑えない。それまでの師の生きてきた道を思えばこそ。
「僕はできる限りの抵抗をしたよ。殴る蹴る、切りかかる。魔法を覚えてからは魔法でも。本気だったし、カロルも全力で相手してくれた。いつだったかな――。僕を殴るカロルのほうがずっと痛そうだって思ったのは」
 両手で湯をすくい、顔を洗うふり。フェリクスが隠したのはなんだろう。なぜかエリナードは涙のような気がした。
「それでもね、僕はカロルに隠し事をしてた。カロルは僕を拾ったけどね――僕が青薔薇楼の男娼だったのは、知らなかったんだよ」
 だから、嵌められたとフェリクスは言う。はじめてエリナードは聞いた。吟遊詩人が語る塔の迷宮の歌。あれは事実で、しかも当事者がここにいると知った。唖然として開いた口が塞がらない。
「結局ね、カロルが身を挺して僕を助けに来てくれた。魔法具で支配されてるって言ってもね、僕は半人前でも魔術師だ。もう一人の当事者は大臣だ。カロルが来てくれなかったら、僕一人が悪者にされていたのは間違いない」
「……だから、カロル師は」
「そう。わかってるから、助けに来てくれた。馬鹿の屑の言いながらね、あの人はあれで意外と優しい。だってね――魔法具に支配されてたって言ったでしょ。僕は、正気じゃなかった。自分が何をしてるかはわかってたけど、ほとんど狂気だった。そんな僕をどうやって魔法具から解放する? カロルだって魔法具を壊すくらいしか手がないよ。でも、それは僕が身につけてるんだ」
 どうしようもない。フェリクスは淡々と言う。エリナードには、わからなかった。方法が、ではなく、フェリクスのその静けさが。フェリクスは不意に湯の中から両手を上げる。まじまじと自分の手を見ていた。
「カロルはね、自分の身を差し出した。もちろん、僕に気づかせないようにね。戦いの中で、当然そうあるべき体勢に僕が自力で持って行ったと思わせて――僕に腹を貫かせた。背中までぐっさりだよ、ぐっさり。ほんと、思い切りがいいんだから」
 両手を見るフェリクス。何を見ているのか、今にしてエリナードにもわかる。その日に濡れた自分の手を。師の血に染まった自分の両手をフェリクスは見ていた。そんなものを見てほしくなくて、思わずフェリクスの手を取っていた。ちらりと彼が口許だけで笑った、気のせいかもしれない。何気なく、湯の中で手を繋がれる。まるで子供のように。不思議と苛立たなかった。
「あのときあの場にリオンがいなかったら間違いなくカロルは死んでたよ。僕は殺そうとしたし、カロルは死んでも仕方ないくらいに思ってた」
「……そんなの、ないでしょう。だって、どうして、そんな」
「だよね。あとになればね、そう思うものなんだよ。僕だってそう思うし、カロルだっててめぇのためになんか死んでやるかって笑うよ。でも、そんなものなんだよ、その場って言うのはね」
「その場の乗りで決めないください、そんなこと」
「その場の乗りで決めてもいいかなって思うくらい、僕はカロルに愛されてるんだよ。いまでもね。僕がこうやって、とりあえずは一人前の魔術師になってもカロルは馬鹿弟子って言うじゃない? カロルにとって僕はいまでも小さな弟子なんだと思うよ」
 自分にとってカロルが偉大な師であるのと同じように。フェリクスが続けなかった言葉がエリナードにもわかった。うつむけば、知らずうちに手に力が入ってしまっている。それなのにフェリクスは気づかないふりをしてくれた。
「それがね、僕の甘えだし、それでいいと思ってる。結局ね、僕ら魔術師に親はいない。でも師匠はいるじゃない? うまくなんて言えないけどね、それでいいんだと思うよ」
「俺は――」
「最近ね、ちょっとそっち方面のことでからかいすぎたかなとは思って反省してる。それは謝るよ、ごめんね。少しだけわかってほしいかな、と思うのはどんなにあなたが可愛いかってこと」
「……他にもいくらでも弟子がいるじゃないですか」
「だよね。なのにどうしてだろうね。あなただけはどうしてだろう。僕の息子って気がするんだよね。だからちょっと悪戯が過ぎちゃったりして、あなたが苛々したり怒ったりするんだと思うけどね」
 エリナードは無言だった。なにも言えない。ただじっと湯面を見ていた。月光が湯に反射して、ゆらゆらとした細波が銀色。細波の向こう、繋がれた手が見えて隠れて。
「大きくなったよね、エリィ」
「そう、ですか?」
「うん。だって、たった七歳だったあなたなのに、こうやって拗ねて怒って我が儘言って。冗談言ってるわけじゃないよ? 昔話、してあげたじゃない。僕がカロルに甘えてたやり方より、あなたのそれはずっと真っ当だと思うけど?」
 からりと笑う。同じだと笑う。それでいいと言ってくれる。成長の証なのだから。そして甘えられて嬉しいとも。
「背もずいぶん伸びた。もう僕より大きくなったじゃない。まだまだ伸びそうだよね。ちょっと羨ましいよ、僕は」
「身長、欲しかったんですか」
「そりゃね。あんまりちっちゃいとかっこ悪いじゃない」
 肩をすくめて何気なくフェリクスは繋いでいた手を離した。もう大丈夫だろう、と覗き込まれたわけでもないのに、窺われた気がした。だからエリナードはうなずく。それを確かめたかのよう、フェリクスが立ち上がる。
「あんまり長湯をすると体に悪いよ。――こういうのも、いまのあなたには鬱陶しいことだろうけどね。だからついでにもう一つ鬱陶しがられておくよ。あなたがね、エリィ。どんなに大きくて厳つい岩みたいな男になったとしてもね、あなたは僕の可愛い息子だよ、いつまで経ってもね」
 話しながら何でもない様子でフェリクスが浴室を去ろうとする。エリナードは小さく笑って言い返す。
「そう言うのって、普通は母親の台詞だと思いますよ」
「僕は魔術師だからね。これは女性的視点ってことだね」
 振り返れば、にやりと笑ったフェリクス。勝てない。思ったエリナードは気づけば自分が笑っているのを知る。




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