道は続く

 呆然としている間に聖娼たちが汚れたものを片付けてくれていた。いつ立たされたのかもエリナードは覚えていない。再び座っていいと示されたときにはもう気力がすべてどこかに行ってしまっていて、思わずぺたりと床に座り込む。低い長椅子の上に体を伸ばしたフェリクスがそんなエリナードを見てはくすくすと笑っていた。
「生きた魚を飲み込んだみたいな顔してるよ、エリィ」
「生きた魚を飲み込んだみたいな気分なんです」
「うん、言い返せるくらいなら平気だね」
 微笑む師にエリナードは頼りなく首を振る。とても平気だとは我ながら思えない。そこに謎めいた笑みを浮かべた青年がやってくる。フェリクスに硝子の酒杯を手渡しては思わせぶりにエリナードを見やった。何かを言うべきか。少なくとも、片付けをしてもらった礼は言うべきか。仄めかされているものは、わかっている。ここはそう言う店で、神殿でもある。だが自分は。おろおろとするエリナードを青年はまだ見ていた。
「ほら、エリィ。水でも飲んで落ち着きなよ、もう。別に泊っていってもおかしい年じゃないじゃない、あなたは。興味がないわけじゃないんでしょ。してみたいから誰彼かまわずってのはどうかと思うけど、ここの人たちだったらいいと思うよ、僕は。いろいろ教えてくれるしね」
「……いまのところまだ教えてほしいとは思いません!」
「ふうん、そう? 別にいいけど。まぁ、気が向いたら泊っていきなよ。ちゃんと体を傷つけない愛し合い方も教えてもらえるからね」
 性対象が同性ならば、男のお前には必要な知識だ、とはっきり言われた気がしてエリナードはうつむいたままうなずく。照れくさくて顔が上げられなかった。
「無理強いはしないよ、でも魔法以外のことにもたまには目を向けなさい。外の世界を知るのも大事なことだよ」
「……はい」
「まだまだあなたは魔法が楽しくて仕方ない時期なんだと思うけどね。あなたは十五歳で僕がここに連れてきた。いままでも機会はあったのに、今日が二度目だ。ここに来てみようとも思わなかったでしょ?」
「それは、はい」
「あなたくらいの年頃だと体のことは興味があっても不思議じゃないんだけどね。もちろん興味がなくても不思議じゃない。あなたはどちらかと言えば奥手なほうみたいだしね。でもね、外に興味を持たないから、僕が言うまであなたはここの人たちがどう言う存在なのかを知らなかった」
 そうでしょ、とフェリクスが長椅子の上から覗き込んできた。こくりとうなずくエリナードの目からはもう先ほどの青年の影が完全に消えている。フェリクスしか見ていなかった。あるいは、魔法しか。
「この世界に、しかも王都に、あなたが暮らしている場所のこんな近くに、聖娼がいるなんて思ったこと、なかったんでしょ」
「言葉自体は知ってましたけど。でも」
「それを知ってるってことがあなたの努力だし、勉強好きなところだし、いいことだよ、それは。でも知識は実体を伴うのが望ましいね。これは経験できることなんだから」
「はい」
「僕らだってね、この世界で生きている生身の存在だ。聖娼がそうであるようにね。――あなたがどう考えるかはわからないけどね、双子神が花街を支配しているってのは僕にとっては望ましい」
 そして小さくフェリクスは溜息をつく。昔のことだ、と師は言った。いまのエリナードより少し年上だったころのこと、と。
「詳細はいずれ話してあげるけどね。僕がここの出身だって言うのがばれたのが、それくらいの年だった。それを王が激怒してね」
「そんな! だって、師匠は……その。でも」
「あぁ、誤解だよ。僕に怒ったんじゃない。僕がそんな環境に置かれざるを得なかった状況を、彼は怒ったんだ。だから、さっき言ったね? 双子神の神官を連れてきちゃったんだ」
 徹底してこの花街を破壊することもできた、と師は言う。エリナードはいっそそうしてほしかったと思っている自分に驚く。フェリクスが、そんな酷い目にあっていたなど、信じたくない。もしもその場に自分がいられたならば、破壊してまわっていたに違いない。
 エリナードの目に怒りを見てフェリクスはくすぐったいような気分でいた。弟子の中にそんな感情が湧いたことを喜んではならないはずだ。が、こうしてかつての境遇に怒りを感じてくれる人がいる。それはやはりいまだに嬉しい。フェリクスは黙ってぽん、とエリナードの頭に手を置いた。
「王はね、知ってたんだよ。ここを叩き潰したらどうなるかがね。売られた女も男も子供も、死ぬまで使われるだけだ。地下に潜ってね。王の手の届かないところで、殺されるだけだってわかってた」
「あ――」
「だから、双子神の神官に頼んだんだ。それにね、性というものは抑えつけようがないものでもある。抑えていいものでもないしね。だったら、やってはいけないことだけ、を規制するんだよ」
「師匠、でも。愚か者は大勢います。屑も、どうしようもない人間も。殺したほうが世のためなやつも」
「それはね、僕もそう思う。ただ、これはね。長い間をかけて人が人であろうとして変わって行かなきゃならない部分だよ、エリィ。より善き人であるためにね」
「……それは、そうかもしれませんけど。でも」
「いま大変な人はどうするのかって? もちろんね、ここの人たちが双子神の神官なんだって理解できないお馬鹿さんたちは大勢いたよ、当たり前じゃない」
 くつりとフェリクスが笑った。その笑い声に顔を上げたエリナードは彼が本当に楽しそうな顔をしているのに少し、驚く。ふと理解した。少しでもよい方向になったからこそ、師は喜んでいるのだと。急がない、急ぎ過ぎない。苛々とするような時間だけが流れて行く中、師はずっとここを見守り続けてきたのだと思う。
「どうするんですか、そういう馬鹿は」
 おそらく、とエリナードは思う。当時のフェリクスのような子供を買いに来る人間も、殺すほど痛めつける人間もまだ大勢いたのだろう。規則だと言って聞かせて素直にうなずくとは思えなかった。殊に貴族は。その手に権力があればあるぶん、自分だけは規則に縛られないと思うものらしい。ならばか弱い聖娼たちが被害にあうだけではないか。
「言ってるじゃない、エリィ? 彼らは聖職者なんだよ。そういう馬鹿は神聖冒涜の罪で公然としょっ引くんだ。当然じゃない? 顔も身分も公にさらされてもらうんだよ、だって神官を侮辱したんだからね」
 エリナードは知らず顔を覆っていた。確かに極悪非道な人間だ、それは。殺してやりたいほどの屑だ。身元を公にされ、社会的な死と大差ない制裁を科す是非を内心に問うていた。
「酷いことをすると思う、あなたは?」
「いいえ。――やられたほうは死んだ方がましな思いでしょうけど。でも、本当なら殺してやりたいくらいなんで。命があるだけまぁ、いいのかな、と」
「やらないようにね? それをやったらあなたは殺人者だから。いくら僕でも庇ってあげられない」
「やりませんから!」
「それにね、僕がそんな境遇にあったのは大昔のことだしね。もう客だったのは全員墓の中だ」
「……なんだったら墓の上に舞踏室を作りたい気分です」
「何度でも踊りに戻ってこられるように? あなたもいい加減過激だよね。しかもちょっと暑苦しいくらい僕を思ってくれてるし。タイラントに聞かせないようにね?」
「そう言う意味じゃ、ありません、から!」
「それは僕だってごめんだって言ってるじゃない。僕はそこまで歪んでない」
 それを笑いながら言わないでほしいとエリナードは思う。いろいろ詰め込まれ過ぎて朦朧としていた頭が痛みを覚え出して、かえってすっきりした。
「あ……。星花宮」
 つい漏れ出た呟きにフェリクスがにやりとした。ついで頭をぽんぽんと叩かれる。褒められたらしい、子供のように。最近ではそんな仕種に苛立ちを覚えることも多々あるのに、今日に限っては妙に嬉しい。
「気がついたみたいだね。そのとおり、星花宮だよ、エリィ。この青薔薇楼も、この世にあるけれどどうしようもない部分ってのを担ってるね」
「大事だけど、嫌がる人もいるんじゃないんですか」
「いるよ、当然。娼婦、男娼の存在そのものを認めないって人もいるし、ドンカ信仰の一派には同性愛を認めないってのがいる。あそこは元々子孫繁栄を司ってるからね、信仰上無理はないかな」
「でも、この世にある……」
「そう。嫌がろうが憎もうが、敬遠しようが見ないふりをしようが。ここにこうしてあるんだよ」
 性交渉も、魔法も。同じだと言えば顔を顰める人が星花宮にもたぶんいる。きっとここにもいる。けれど似たものでもある、とフェリクスの弟子であるエリナードは感じる。
「あるものはね、あるんだから。どうしようもないじゃない? 目の前から消えろって言ってどうにかなるものでもない。だったら上手に付き合っていくのが賢明だし、うまく組織として運営するのも必要なこと」
 それが星花宮のしてきたことだ、とフェリクスは弟子に向けて笑みを見せる。が、内心で顔を顰めていた。
 現実問題として、嫌がってどうにかできるものではない、普通は。けれど普通ではない人間が嫌悪した場合。嫌だと言って実現できてしまう人間がいる場合。それがちらちらと視界の端に浮かびはじめているのをフェリクスは感じている。エリナードとイメルを事故に合わせた裏側にいたあの、王子が。
 ――魔法が嫌いだってわけじゃないところが厄介だよね。
 思わず呟いてしまった言葉にエリナードがぴくりと顔を上げた。はっきりとした言葉として聞こえてはいなかったらしい。が、何かは感じた。
「あなたの勘の良さというべきか、熱心なところというべきか。あなたの前では独り言も迂闊に言えないよね」
「聞き耳立ててたわけじゃないですから」
「それは知ってるけどね。ほんと、上達が早くて師匠としては嬉しいんだけど。健康な男の子として遊びの一つも覚えたらいいのにとは思うよ?」
「だから、まだそっちのことは、俺は――!」
 ぬかったと思った。言ってしまってから気がついた。言葉が取り戻せればいいのにとまで思った。溜息をつくエリナードをフェリクスが笑う。
「僕はそっちの遊びを覚えろとは言ってないのにね、可愛いエリィ? ほら、興味があるんじゃない。さっきの子、好みなんだったら手ほどきしてもらいなよ」
 ほろほろとした笑い声や、楽器の練習をする音が響いていた居間だった。聖娼たちは自分たちへの用が済んだと見做したのだろう、思い思いのことをしている。先ほどの彼も、また。それなのにどうしてだろう。すぐさまこちらに気づいて笑顔を浮かべたりするのは。
「だから、俺は! 帰りますからね、師匠!」
「そこまできっぱり断るのも失礼だよ、エリィ? まぁね、照れてるんだと思うし。そのうちこっそり来ると思うから、そのときには手ほどきしてやってね」
 師を置いてずかずかと帰ろうとするエリナードの背中にフェリクスの声が聞こえてしまった。長い溜息をつく。遺憾ながらそのとおりになるだろうと思っていた。




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