エリナードもいまではわかっている。あれはちょうどそういう時期だったのだ、と。星花宮の弟子たちは年頃になるとここに連れてこられる、という。さすがに照れくさかったのか、あとになってイメルが教えてくれた。 そして青薔薇楼はこの花街にあって、ただの娼館ではない、とも教えてもらった。ある種の神殿らしい。 「ミルテシアでは盛んなんだけどね。こっちではあんまり信仰されてないかな」 フェリクスはそのとき肩をすくめて教えてくれた。愛と欲望の双子神を祭っているのだ、という。男性の、女性の、そして男女の双子でもあるらしい。自分には信仰がないから本当のところはわからない、それでも神様は神様だ、とフェリクスは言った。エリナードは深くうなずく思いだ。自分にもどうやら信仰心はあまりないらしいともうわかっている。 そして青薔薇楼に勤める男女は、双子神の神官でもあるようだった。自らの肉体をもって神々に奉仕する、という信仰らしい。 ――さっぱりわからん。 エリナードはその時点で理解を放棄した。たぶん、それで問題ない。所詮、信仰というものはその中に身を投げてみてはじめて理解できるもの、否、そうなれば理解など要らなくなるものなのかもしれないが、信仰を持たなければわからない、という意味においては同じだ。だから、エリナードはわからない、が正解だと思っている。 「わからなくっていいと思うよ。知った顔で語るよりずっといい。あなたがするべきなのは?」 「わからないならわからないなりに、それでも隣の道を歩いて行くこと。手を貸せるならば貸すこと。差し出された手をためらいなくとること」 そのとおり。フェリクスが無言で微笑む。すべての信仰を持つ人、持たぬ人がそうであれればいいね、というように。神々はある種の家族のようなものらしいけれど、信者のすべてが親類縁者のようになれるかと言えばそのようなことはない。幸いなことに血で血を洗う抗争、などという事態になったことはアルハイドの長い歴史において一度たりともあったためしはないのだけれど。 そしていま、またあの青薔薇楼に向かっている。エリナードとしては実に落ち着かない。着せられている服がまた、落ち着かない。こっくりとした琥珀色の胴着には金糸の縦糸が織り込まれている。上品で華やかではあると思うけれど、いかんせん派手だ、とも思う。少なくとも自分で選ぶ服ならばこんなものは決して着ない。まして隣のフェリクスに至っては純白の胴着を裾長に仕立て、一面に漆黒の糸で象徴化した蔓薔薇が刺繍されている。並んで歩いているだけで人目を引きそうでたまらない。 「エリィ。あんまり裾を引っ張らないの。子供じゃないんだから」 「……師匠」 「なに? あぁ、その胴着? 元はタイラントのだよ。あいつに作ってやったんだけど、僕の目算違いでね。あいつが着るとどこからどう見ても詐欺師にしか見えなくって」 溜息をつきつつくつくつと笑っていた。ならば自分が着ても同じではないだろうか。そもそも意匠に問題があるのではないだろうか。 「あなたは若くて華やかな顔立ちだしね。とてもよく似あってるよ、エリィ」 まったく褒められている気はしなかった。が、こんなところで嘘をつくような師でもない。エリナードは黙って歩いていた。内心では妙なところで器用な人だな、と思っている。タイラントのもの、ということは自分の体には合わないはずだ。タイラントは細身に見えて、その実鍛え抜いた体をしている。まだ発展途上の、男の体になりかけの自分とは厚みが違う。 「エリィ、何を考えてるの」 「……タイラント師は、体格がいいので。俺に合わせるの大変だった気がして。俺は、まだ、その」 「あのね、エリィ。まさかと思うけど――」 「タイラント師の裸を想像したりしてません! 思い出してはいましたけど、そう言う意味じゃありません!」 「なるほどね。思い出していた、ね」 にやにやとするフェリクスにエリナードはそっぽを向く。こう言うときのフェリクスには何を言っても無駄だ。言えば言うだけからかわれる。遊び好きの猫のようなものだった。 「ほら、ついたよ」 青薔薇楼の角灯が見えてきた。夜になるとあの角灯の中の青薔薇は仄かに光る。まだ陽も落ちていない今、儚げに角灯が揺れているだけだった。 入り口をくぐってすぐ、細長い廊下を越えたところに広間があった。正しくは居間、だろうか。大小様々なクッションから長椅子。たなびく甘い香り、床に散らされた花びら。当然にして薄物をまとった聖職者でもある男女。 「久しぶりだね。新顔がいるみたいだ」 営業時間前、などと言う無粋な言葉で言っていいのかどうか。まだ男女はここでくつろいでいたらしい。訝しげな顔をするもの、嬉しげな顔をするもの、色々だ。奥から優雅に歩いてきたのはあのときと変わらない女主。 「お久しゅうございます、フェリクス師。こちらは……あのときの可愛らしいお方かしら。まぁ、ずいぶんと立派になられて」 どぎまぎと頭を下げるエリナードをフェリクスが面白そうな顔をして見ていた。断固としてエリナードは師を見ない。見れば、何かを言われるに決まっている。 「話を聞かせてもらっていいかな」 「もちろんです。聞いてやってくださいませ」 師と女主の間はそれでよかったのだろうけれど、エリナードにはさっぱりだ。そもそも自分がなぜ連れてこられたのかもいまだわからない。 「あなたには僕がここでしてる仕事を見せようと思っただけ。別に放り込むつもりはないから安心しなよ」 「仕事、ですか」 「そうだよ、仕事。おいで、エリィ」 言いながらフェリクスは長椅子の一つに腰を下ろす。ようやくエリナードにはこの派手な衣装の意味が飲み込めた。確かにここで何か仕事をする、というのならば魔術師の長衣姿はそぐわないだろう。人に会うというのならばエリナードの日常の作業着は論外だ。この衣装なら、ここにいて娼婦や男娼を前にしていてもさほど違和感がない。もっとも、客になったようでそれはそれで落ち着かないが。 エリナードがごそごそとしている間にもフェリクスは数人ずつ彼らを呼んでいた。黙って聞いてみれば、どうやら雑談にしか思えない。 「僕はね、ここの人たちが、ここだけじゃないね、この花街の人たちが健康で危害を加えられていないかを監督してまわってるんだ」 何気なくぽん、と隣に座ったエリナードの膝を叩き、フェリクスは言う。こんなとき師はこちらが卒倒するようなことを言う、とエリナードはすでに学んでいた。 「僕はこの青薔薇楼の出身だからね。――昔は酷い娼家だったんだけど、諸事情あってね、いまの陛下のお父上が双子神の神官を連れて来てここに据えて、大改革をしたんだ。以来、僕がここを任されてる」 もちろん官吏は他にいる、自分がしているのは彼ら彼女らが官吏には言いにくいことがないか、いわば相談役だと。 「え……師匠……」 呆然としていた、エリナードは。いったい何を言い出したのかと思ってしまう。その彼の隣でフェリクスはそっと微笑んで小首をかしげる。ただ、それだけ。ぞくりとした。 「師匠! からかわないでください!」 「あなたは性指向がこっちだからね、ほんと楽なもんだよ。ね、エリィ? これで信じるでしょ。――僕はここで少年男娼だったんだ。五歳かそれくらいからかな。今のあなたよりもう少し小さいくらいまで、ここで客を取ってた」 「五歳って!」 「ここは、そういうところだったんだ。許されることじゃない。僕がそうだったからと言うだけじゃなくてね、許していいことじゃないでしょ、そんなことは。生き物として」 「当たり前です!」 「だからここは変えられたんだ。二度とあんな魔所にならないようにね」 そしてフェリクスの言葉に娼婦も男娼も笑顔でうなずく。エリナードは無言で彼らを見回した。愛と欲望の双子神に仕えている、というのだから欲望を煽る衣装を身にまとっているのは彼らにとって正しいこと。彼らにとってそれは神官服でもあるのだから。その誰もが、誇らしげだった。そして全員が、若くとも大人だった。最低限、自分より年下などはいないとエリナードは見る。 「王都はね、エリィ。人だまりだからね。どうしても一定数の危ない趣味の持ち主が出てくる」 「それは……」 「そうだね、たとえば叩いたり叩かれたりするのもそうだし、乱交もあるね。それを眺めてたいだけってのもいる」 だがそれは問題ない、とフェリクスは言う。合意ならばいい、という。エリナードにはうなずけなかった。それにちらりとフェリクスは目だけで笑い、一人の女を呼ぶ。 「さっきから気になってたんだ。これ、縛りの跡だよね? 赤くなってるよ。ちゃんと細工はしてあるんでしょ?」 「もちろん。これは――居続けのお客だからですもの。ほんのさっき出来たばかりなの。だからまだ赤いの」 「あぁ、いまはちょっと一息なのか。だったらまだ赤くても仕方ないかな」 「仕方ないって、師匠、そんな……」 「お師匠様に落胆しないでくださいませな。私たちはちゃんと細工した小道具を使いますのよ。素人の方々とそれが違います。それに、縛りを好まない者がこの奉仕をすることもありませんわ」 くらくらとしてきた。が、彼女の誇りに輝く顔にエリナードは納得はする。決して無理につらい勤めをしているわけではないのだと。 「――俺は、田舎の出なので」 「あぁ、わかります。苦界に身を落とす可哀想な人々、と思うのでしょう。この花街にもそういう人たちはいます。ですが、この店は違います」 「つらい思いをしている人たちがね、できるだけ抜け出せる手立てを考えるのもこの青薔薇楼の役目なんだよ」 「私たちは神職ですもの。望まぬ奉仕は双子神もお喜びになりませんわ」 「だから僕はそれを公的に後押しする役目ってところだね。――好きでやってるわけじゃない人には本当に苦しくてつらいだけだから」 フェリクスの眼差しが一瞬だけ床に落ちた。エリナードは背筋を伸ばす。あからさまに目をそらしたりしなかった。真っ直ぐと師のそんな姿を見た。顔を上げたフェリクスが誇りに感じられるように。ふとエリナードを見上げたフェリクスは満足そうに笑っていた。 その師の笑顔にエリナードは急に照れくささを感じてしまった。思わず応接に出されていた飲み物に手を伸ばす。 「エリィ、ここで飲み食いはしない方がいいよ。泊っていくならかまわないけど。それ、催淫剤入りだからね」 ごとりと飲み物が入ったままの杯が床に落ち、エリナードが目をさまよわせる。聖娼たちがたまらずくすくすと笑っていた。 |