道は続く



 王都の大通りとはいささか毛色が違う方向に繁華な町をエリナードは歩いている。もちろん一人ではなく、フェリクスと一緒に。急にこんなところに行く、と言われた理由が思い当たらず困惑しながら、少し自分より低い位置にある頭を見下ろす。この三年で、ずいぶん背が伸びたのだな、と不意にそんなことを思いつつ。
 はじめてこの通りに連れてこられたのは三年前の暑い夏の日のことだった。何かとフェリクスは同行するよう、と言ってくるからそのときには不思議にも思わず従った。
 ――あれはないぜ。ほんっと、無茶だわ。
 いまでも思い出すだけで頭を抱えたくなる。フェリクスは真面目だ。それも殊の外に大真面目だ。それであんなことをしでかされたら、弟子としては殊勝にうなずきつつ、内心で悲鳴を上げるしかない。
 それは大きな店だった。入り口の前に大きな角灯が備え付けられてあり、本来は火が燃えているべき場所には作り物ではあったけれど非常に美しい青薔薇が一輪。
「ここだよ」
 当時、十五歳だったエリナードの手を引くよう、フェリクスは店に入っていく。そのときにはもう、エリナードもおおよそここがなんの店なのか察してはいた。おそらくは抵抗しても無駄だろうとも。
「あの……師匠」
 が、無駄と悟っていても抵抗はしたい。是非ともしたい。よもやとは思うけれど、この師のことだ。何をするかわかったものではない。
「別にあなたを取って食おうってつもりじゃないし。だいたい弟子に手を出すほど飢えてないからね、僕は」
 問題はそこではないだろうという気はした。そもそも師が弟子の手を引いて娼館に連れてくること自体がおかしい。もうなにを言っても駄目だとエリナードは内心で溜息をつく。
「あのね、エリィ。これも勉強だからね? あなたに嫌がらせをするつもりじゃないし、だいたいエリィ、よく考えなよ。息子と濡れ場を見てなにが楽しいのさ。僕だって照れくさい」
 そっぽを向いてぼそりと言うから、たぶん本音だろう。エリナードはうつむいて小さく笑っていた。この師の、意外なところで照れ屋なところをエリナードはきっと他の弟子の誰よりよく知っている。
「ようこそ、青薔薇楼へ。――なんて可愛らしいお客様かしら」
 ふんわりとした柔らかな声。高すぎず低すぎず、そのときのエリナードにはまだよくわかってはいなかったけれど、官能的な声、とはこう言うことを言うのだろう。微笑む女はこの娼館の女主だ、と言う。
「フェリクス師。こんな可愛らしいお方に、よろしいの?」
「いいんだよ。この子はもう自分がどう見られるかを学ぶべきだね。自分がどうかってのもそうだけど。むしろそっちを学んでほしいんだけどね」
「まぁ、厳しいお方。でも、そうですわね。可愛らしいお方ですもの。なにも知らないではかえって危のうございますわね」
 そういうこと、とフェリクスがうなずいていた。いったい何がはじまるのだろう、とエリナードはどきどきしている。が、少なくともこの妖艶な女主に対してではないな、とも感じている。十五歳というまだ少年の年でありながら、エリナードは魔術師の卵でもある。同じ年頃の少年より遥かに分析に長けてもいる。たとえそれが自己に関してであったとしても。
 女主が案内してくれる後ろ姿にエリナードは従うつもりだった。が、意外なことに女主はエリナードに率先して話しかけてくれる。生来の引っ込み思案はいまだ直っていないエリナードだったけれど、気づけばいつの間にかくつろがされている。すごいな、素直に思った。
「はい、座って。エリィ」
 フェリクスは低い長椅子――ほとんど床と同じような高さのそれ――に座り、隣をぽんぽんと叩く。何気なく言われた通りにしたけれど、奇妙に居心地が悪い。
「フェリクス師。何かご用意いたしましょうか」
「そうだね。冷たい飲み物がいるかな。ただし!」
「心得ておりますよ、あれは抜きで、ですね?」
 くすくすと笑う女主の合図をどこかで受け取るものがいるのだろう。エリナードはその隙に、と部屋の中を見回す。一部屋としてはずいぶんと大きかった。何より存在を主張しているのは、もちろん長椅子の前にある寝台だ。そちらも低い作りになっていて、巨大なクッションのようでもあった。
「どうぞ。喉を潤してくださいませな」
「――あ、ありがとうございます」
「ではごゆっくり」
 娼館で、師匠と二人でどう何をゆっくりしろというのか。エリナードは内心で叫び、迂闊にも障壁が少し緩んでしまった。おかげでその叫びが届いたのだろう、フェリクスが冷たいものを飲みながらくすくすと笑う。
「その気持ちはわかるけどね。これも勉強だって言ったじゃない?」
 見て学びなさい、とフェリクスが前方を示す。つまり、寝台を。いつの間に入ってきたのか、一組の男女がいた。とても魅力的で、どちらも美しい。目のやり場に困るほどに薄い布しか身につけていないのでなかったならば、見つめてしまいたいほどだった。
「エリィ、目をそらさないでちゃんと見て」
「師匠! あの、これは、いったい!」
「だから、勉強。あのね、エリィ。あなたは魔術師になる。いまもその勉強をしてる。これはその一環、かな。あなたは自分の肉体というものがどういう風に反応して、どう制御するべきなのか学ぶ時期なんだよ」
 フェリクスの言葉の間にも男女は互いに服と言うべきかただの布と言うべきか迷うようなものを脱がせ合っていく。くちづけをかわし、見つめ合い。触れ合っては、声を漏らす。
「こっちを向いて」
 この娼館の娼婦と男娼なのだろう。フェリクスの要請ににこりと微笑んでエリナードに見えるようにしてくれた。できれば見たくない、と思いつつエリナードは見てしまう。
「あぁ、なるほどね。やっぱりそうじゃないかと思ってたんだけど」
「なにが、ですか」
 掠れた声にできれば気づかないでほしいと思うけれど、無駄だろうとも思う。が、フェリクスは少なくとも気づかなかったふり、はしてくれた。
「あなたはあんまり女の子に興味ないんだろうと思っててね。こうやって見ても、彼の方に興味があるでしょ?」
 頭の天辺から湯気が出そうで、しかも血の気が下がるという経験をはじめてエリナードはした。おろおろとどうするべきかを考え、結局はうなずくしかない。
「別にそれがどうこうじゃない。だいたい僕にだってタイラントがいるんだしね。――ただ、あなたは興味がなくても、女性の身体というものがどうなっているのかは学んで。いずれ役に立つからね」
「……どんな、ことにですか」
「うん、そうだね」
 こくり、と飲み物で喉を潤すフェリクスにつられるようエリナードも冷たいものを口にする。汗をかくほど暑いとは気づいていなかった。
「いずれあなたが一人前の魔術師になったとき、あなたには女の弟子ができるかもしれない。そのとき、彼女の体がどうなっているのかわからなかったら、あなたは混乱するだけでしょ。もう一つ。あなたがもっと高みを目指すならね、エリィ。とても大事なこと。ねぇ、魔術師にとって大事なことはなに?」
「平衡感覚と、物事を平らかに見聞きすること、です」
「そう、大事なことだよね。でもね、エリィ。あなたは男の子だ。どうしても、物事を男の目で見るようになる。だって仕方ないよね、男の体で男の心を持って生まれたんだから、あなたは。それは、そう言うものなんだよ」
 だから、ここに連れてきた、とフェリクスは言う。女性というものを少なくとも肉体的に見て学ぶことで、自分とは違う視点があることを学べと。
「よい魔術師って言うのはね、エリィ。自分の中で男女のつり合いが取れている人のことを言うんだ。こんな風に褒めたくはないんだけど、その点はリオンがとても上手だ」
「カロル師は、違うんですか」
「そうだね、カロルはどちらかと言えば男性的な自己像ができあがってるからね。というよりカロルはカロル、なのかな。まぁね、別にあの人はそれでいいんだよ。完全に均衡が取れてる連れ合いがいるんだから、自分が取れているも同然なんだ」
「あ――」
「ね、エリィ? 誰もがカロルのような幸運を手にできるわけじゃない。でも、魔術師たるものリオンができていることは、できるべきなんだ。ましてあなたは僕の弟子だ。リオンにできることができないとは言ってほしくないね」
 ふん、と鼻を鳴らすフェリクスの前、二人が最後に達していた。エリナードはちゃんと見ていなかったと言って怒られるかな、と思ったものの少しほっとしてもいる。
「努力します」
「うん、そうして。あなたならできると思ったから言ったんだしね。じゃあ、次に行こうか」
「はい!?」
 安堵したのも束の間。エリナードは忘れていた。己の師はカロリナ・フェリクス。星花宮における悪魔の顕現と伴侶に言わしめた男だということを。男女が去ったと思ったら、今度は女性の組みが出てきた。
「僕がそうであるように、あなたがそうであるように、この世はもちろん異性の組み合わせだけで成り立っているわけじゃないものね、エリィ?」
 いまならばタイラントに全面的に賛同できそうだとエリナードは思った。隣でくすくす笑いながら女性同士の絡み合いを眺めている師が悪魔に見えて仕方ない。もっとも、気が楽ではある。先ほどよりは多少。今度は身体の構造を学ぶという意味できちんと見ることができた、気がした。
「まぁ、ついでだしね」
 ぽう、と頭に上った血が頬にも上っているのだろう、エリナードの赤らんだ顔。客観的に見てとても魅力的だとフェリクスですら思う。
「師匠!」
 男性同士の組み合わせが出てきた途端に悲鳴を上げたエリナード。目許まで朱に染めておろおろとする可愛い弟子にフェリクスは微笑む。
「勉強だよ、勉強。あなたはとても可愛いからね、エリィ。あなたを狙ってどっかに連れ込んで悪さをする輩もいるかもしれないでしょ。僕としてはそんなことになって欲しくないし。ちょっと前にそんなことがあったよね?」
「だったら!」
「言って聞かせるより見せたほうが早くて確実だしね。あなたがとても好きな人とこういうことをするのは僕はもちろん否定しない。でも、無理矢理は論外でしょ。だから、なにが起こるのかは最低限、知識としては知っておきなさい」
 これはこれで師の思いやりなのだとエリナードは思う。思うけれど。思いはするけれど。目の前に大変に魅力的な光景が広がっている今、あまり感謝する気にはなれなかった。




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