はじめて塔に連れて行ってもらったのは降臨祭のころだった。それまでは何かと忙しくて時間が取れない、とフェリクスは言っていた。せっかくならば数日であってものんびり遊びたいだろう、とも。 「遊び、ですか?」 問うエリナードに、遊びじゃないの、と逆にフェリクスは不思議そう。彼にとって魔法は最大の娯楽でもあるらしい。苦笑いをしたエリナードだったけれど、よくよく考えれば自分も同じだ、と思ってしまった。 だから、降臨祭のあとだった。星花宮でも降臨祭は祝う。宗教行事、というよりは完全に娯楽だ。普段は訓練に次ぐ訓練の幼い子供たち、修行修行で時間の感覚もなくなった弟子たち。揃って大騒ぎを繰り広げる。もちろん、そそのかすのは四魔導師だ。一人前の魔術師たちも率先して遊びに興じるけれど、一番酷いのが四魔導師なのだから、たいていは何をしても咎められない。 王都ではこの時期は休暇の時期でもある。多くの奉公人は年に一度、実家に帰るのを殊の外楽しみにしている。そして星花宮にもごく少数、そう言うものはいる。親類縁者に魔法を忌避されていない場合彼らは生家に戻って休暇を過ごすこともある。だからこそ、奉公人たちと同じよう、休暇期間、というものがあったりする。 「結構長めなんだよ、星花宮のは」 いつかフェリクスが言っていた。多くの奉公人たちは降臨祭前後二日か、三日、その程度だという。ここでは前後五日の休暇がある。もちろんほとんどが星花宮に住んでいるわけだから、休暇の間に好きな「研究」に励むのもまた自由だったが。 エリナードももちろん、その予定でいた。宗教行事でもないことから、降臨祭当日だけが特に騒がしい星花宮だ。わくわくとしながら準備をして、そしてご馳走を食べて、お祭り騒ぎをして。そしてあとの五日はどう過ごそうか。あれもしたい、これも途中だ。なにから手を付けようかと心待ちにしていたところ、フェリクスの誘いだった。 「エリィ。暇だったら付き合いなよ。塔に行くよ」 一も二もなかった。飛びつくように師に従う。実際、フェリクスの腰のあたりに飛び込んでしまった。普段内気なエリナードのその態度にフェリクスは驚いたのだろう、大笑いをされてしまう。それでもエリナードは気分がよかった。フェリクスが詠唱する呪文の低い響き。そんなことはしなくても平気なのに、と思いつつも庇うように肩を抱いてくれる腕のぬくもり。 「はい、到着」 転移はいつもながら一瞬だ。フェリクスにとっては言ってみれば通い慣れた「道」でもある。変わらぬリィ・サイファの塔の静謐さ。それにほっと息をつく思いでいた。 「やっと静かだよね。子供たちが楽しんでるのはいいんだけど、さすがにちょっとうるさすぎるよ」 溜息まじりのフェリクスにエリナードは笑いを漏らす。一番子供たちと遊ぶのは実はフェリクスだということにすでにエリナードは気づいている。一見、タイラントのほうが大騒ぎをして賑やかに子供たちと戯れている。けれど本当は。 「なに、エリィ。言いたいことがあるなら言えばいいのに」 「……いえ、別に。なんでもないです!」 「ふうん、そう? 別にいいけど。ほら、ここが塔だよ。とりあえず見学だね」 言われてエリナードは改めて周囲を見回す。古い、時代を感じさせる趣のある居間だった。程よく使いこまれた長椅子があり、上品な茶道具がある。まるで裕福で歴史のある貴族の部屋のよう、エリナードはそんな想像をする。もちろんそんなものを見たことはない。 「あ――」 その目が一点に止まった。水盤だった、それは。水が滾々と湧き出ては細波を立てている。けれどしかし、湧き出す水は一滴たりとも床に零れはしなかった。水盤からあふれているにもかかわらず。 「綺麗だよね。便利な道具でもあるけど綺麗ってすごいと思わない? それがリィ・サイファの水盤。彼が当時自分で使っていたものだそうだよ、メロール師によればね」 恐る恐るエリナードは手を伸ばす。水に触れたいと思った。慌てて師を振り仰いでは顔を窺う。フェリクスは触ってごらん、と微笑んでいた。 「水だ……普通の、水なのに」 「そう、それ自体は当たり前の水。僕も調べたことあるんだけどね、ここの地下水と一緒だったよ、中身」 だから結局は他に魔法が働いているのだ、とフェリクスは笑う。エリナードごとき、なにがどうなっているのかさっぱりわからない。恐ろしいことにフェリクスもうなずいた。 「言ったじゃない。僕は鍵語魔法の使い手であって真言葉はわからないんだよ。そりゃね、あなたよりは研鑽も積んでるからね、まったくわからないってほどじゃない。でも発声はできないからね」 本当のところではわからない、とフェリクスは言う。そしてこの水盤は、リィ・サイファは、その真言葉魔法の時代の魔術師なのだと。 「ここから……いままで。すごくたくさんの魔術師がいて」 「そう。魔法を繋いで広めて、進めてきた。ごらん、エリィ」 ふわりとフェリクスが何かを呟き手をかざす。そして水盤の上に立ち現れた影。エリナードは息を飲んで見つめていた。何者かはわからないけれど、特徴的な銀髪をした精悍な人間の男性だった。 「これが僕ら魔術師の始祖。リィ・ウォーロックの似姿だってさ。当然僕は会ったことないわけだし、本物かどうかは知らない。メロール師も会ったことないらしいしね。ただ、メロール師はリィ・サイファの友達だったからね。リィ・ウォーロックは、その名の通りリィ・サイファの師であるわけだから。もちろん、この似姿はそのリィ・サイファが作ったもの。自分の師匠の似姿だったら、さすがに間違えたりしないだろうし」 だからたぶん、リィ・ウォーロックとはこんな男だったのだろう、とフェリクスは言う。自分で見たことがないからわからないよ、と言い足すあたりにフェリクスの性格を見る気がして、エリナードは楽しい。それから次にフェリクスはリィ・サイファとその伴侶である戦士ウルフの、サリム・メロールと擁護者にして伴侶アルディアの肖像を、と見せてくれた。それぞれ作ったのはメロールとカロルだ、と言い添えて。 「いつかね、ここにはカロルの肖像が加えられることになるよ。いまの管理者はあの人だからね」 「……その、あとは?」 「なに、僕になれって言うの、あなた? まぁ、どうかな。そうなったらちょっと嬉しいかなとは思うけど。責任も重くなるからね。ほんとはリオンあたりに押しつけたいところかも。どうかな、その時になってみないとわからないね。それより、あなたは、エリィ?」 「え――」 「いつか、ここに並んでみたいとは思わない?」 目を丸くして、言葉もなく驚いているエリナードの顎先をフェリクスは指で持ち上げた。ぽかんと口まで開けているのに本人は気づいていないらしい。そしてそこまでされてもなお、エリナードは気づかなかった。 「え……師匠? どういう――」 「塔を管理する、ここの肖像に加えられる、それはね、エリィ。少なくとも星花宮において一番の腕利きってことだよ。大言壮語かもしれないけど、僕は事実だと思うけど、たぶん間違いなく、この世界で一番の腕利きってことだね」 「だったら!」 「あなたはそうなってみたいとは思わないの? だったらがっかりだよ、エリィ。僕は現実味があるからね、面倒くさいし責任も重いしって思うけど、あなたは違うでしょ、いつかここに並んで見せるくらい言いなよ、僕の弟子なんだから」 「あ……」 「どう、エリィ?」 にやりと笑うフェリクスにエリナードは言葉では答えなかった。ただじっと師を見つめて一度だけこくりとうなずく。フェリクスもまた、なにも言わなかった。黙ってエリナードをその腕に抱く。励ましのような、愛おしさがこらえきれなかったかのような。急に恥ずかしくなってエリナードは師の胸を押しやっていた。 「なに照れてるのさ。僕のほうが恥ずかしいじゃない」 「そんなことないです! それより……師匠。聞いてもいいですか。その、サガのことなんですけど」 「なに、急に。どうしたの」 突然に持ち出されてさすがのフェリクスも驚いたらしい。真摯な顔になったかと思うと手振りで座れ、と示す。いつの間にかそこにあった茶道具の支度が調っていて、フェリクスは無言で茶を淹れてくれた。 「急にって言うか。ずっと聞きたかったんです、本当は。でも――星花宮では、誰が聞いてるかわからないから。師匠は、サガに外聞が悪いって言ったじゃないですか。だから、サガが、本当は何者だったのか、俺には……誰が知ってて、誰に聞かれちゃいけないか、区別がつかないから」 ぽつぽつと言いながらうつむくエリナードの頭をフェリクスは撫でていた。なぜという理由はないのだけれど、どういうわけか彼と話す時はつい、隣に座ってしまう。思わず手を伸ばすことができる場所に。 「そのちゃんと考えるあなたの偉さをタイラントに分けてやってほしいね、ほんと。正しいよ、エリィ。区別がつかないなら、完全に僕と二人だけって考えたのは。それで?」 「師匠。――寂しく、ないですか。俺は」 「もちろん寂しいよ。長年の友達だったからね。でも、サガがあなたを守ってくれたのはそれ以上にとても嬉しい。わかる?」 「……でも、サガはどうして、俺を」 「守りたかったって、本人が言ってたじゃない。だから、それだけだと思うよ。あのね、エリィ。人の世の中で何がどう言われていようとね、神々も悪魔も善悪で語るべきではないと僕は思ってる。その善悪は所詮、人にとって都合のいい善悪じゃない? 僕は常人より多少は悪魔というものを知らないではない。だからね、彼らはただ自分のしたいことをするだけだって知ってる。だから?」 「……サガは、自分の、したいことを、した?」 そういうことだ、とフェリクスは微笑んだ。気に病んでいたのだろう、師に友人を失わせてしまったと。その思いをここまで耐えて隠してこられるエリナードの強靭さを思う。同時に脆さを。 「サガ、どうして二度と会わないことを願うって、言ったんですか」 自分だったらまた会いたい、戻ってきたい。そう思うのに、エリナードはうつむいて言った。いつの間にかフェリクスの腕の中に抱き寄せられていることも、師の胸元に頭を預けているのにも彼は気づいていないらしい。 「単純なことだよ、エリィ。サガに再会するってことはね、彼が悪魔として召喚されたか、僕が召喚するかだ。悪魔召喚しといて世界平和を願う魔術師なんていないしね。召喚された場合、僕は間違いなく討伐する方だよね、一応はまともな魔術師だし。召喚するほうだった場合は、僕がなんかやらかして悪に堕しているってことだよ」 だからサガは言ったのだ。フェリクスのために二度と会いたくはない、と。友の心が嬉しかった。その友が守ってくれた息子が、今になって悲しくなったのだろう、ほろほろと泣いていた。 |