魔術師は魔法となると見境がないが政治にはまったく興味を示さないものが大多数だ。だから星花宮はすでに平静を取り戻している。エリナードもまた、研究を再開させていた。 「ん、よし」 小さく拳を握って星花宮の中にいるはずの師を探す。精神の指先をそっと伸ばせば、あちらから感知してくれた。これで呪文室で待っていればいい。すぐにフェリクスは来てくれることだろう。そしてフェリクスはエリナードの予想どおり、現れる。どうしたの、と軽く小首をかしげたままの師の姿。ほっと安堵してしまいそうになって強いてエリナードは身を引き締める。 「少し、見ていただきたいことが、あって」 緊張の隠せない弟子にフェリクスはかすかに微笑む。好きにやってごらん、とでも言うように。それに意を強くしてエリナードは魔法を操りはじめた。 「それで、エリィ?」 一通りエリナードが見せたい、と思っているものが終わったあとのことだった。まだまだ未熟な弟子は肩で息をしている。 「ずっと、探していたものが、わかった気がして。巧く、言葉では言えなくて。これが、本当の水って言うか、でもそれも違うんじゃないかと思うんですけど」 言いたいことは確かにある。が、エリナードはそれが言葉にできない。だから、見てもらった。けれどそれではだめだったのだろうか。きゅっと唇を噛んだエリナードにフェリクスは目を細める。 「もう一度、できる? じゃあ、ちょっと待って」 待てと言われた言葉にうなずくより先、呪文室の扉が開く。驚いて見やったエリナードの前、がしがしと頭をかきむしるカロルがいた。 「こっちはクソ忙しいんだって言ってんだろうが、この馬鹿が。くだらねェ用事だったら叩きのめすから覚悟しやがれ」 「あなたと遊びたいからちょっと来てとか? お茶淹れてとか? そんなはずないでしょ。いいから黙って見ててよ」 「あん?」 黙れ、と手で示しフェリクスはエリナードを促す。後年のエリナードならばともかく、幼い彼には酷なことだった。けれど必死になって最前フェリクスに見せたものを繰り返す。終わったときにはぜいぜいと息が荒かった。 「……なるほどな。テメェが見せてェと思うわけだわ。おいコラそこのちびっこいの。いまテメェは何をやったと思ってる?」 「えっと……その。俺が、感じる、ほんとの水、です。巧く言えないんですけど」 「言えるわけはねェわな。いまテメェがやったのは――」 つい、とカロルが何事かを言った。同時に出現したのは先ほどエリナードが操ったのと寸分違わぬ水。だがエリナードは目を丸くすることもできずに驚く。いまのは違う。魔法にして魔法ではない、何かだった。 「これがな、真言葉だ。現在では廃れた真言葉魔法ってのは、この、物事の本質を支配する言葉一つで現象を操る。わかるか」 「あなたは自力で真言葉にまで到達したわけだね、エリィ。ちなみに、どうして真言葉魔法から鍵語魔法に移行したか、あなたは想像できる?」 「え――。想像でしかないです。それでも……。はい。あの……カロル師のいまの感じ、すごく危なく感じました。不安定で。あと……同じやり方だったら、俺には絶対再現できません」 「それはテメェがガキで未熟だからじゃねェの?」 「違います。それは、そうですけど、でも、そうじゃなくて……。俺は、どんなに修練を積んでも、その言葉が発音できない、そんな気がします」 「そう。だから、真言葉魔法は廃れたんだよ。真言葉を発音できるかどうかは、本当に生まれ持った才能だ。訓練もなにもない。聞き取れて発音できるかどうか、すべてはまずそこから。だからね、エリィ。ほんのちょっとのことで事故が起き得る、起き得たんだ」 「しかもな、これはいまの鍵語魔法に比べると格段に威力が強い。なんでだ?」 「その物、本当の本物だから、です」 「だな。だから、事故ったときは大惨事だ。テメェはこの前事故った当事者なわけだがよ。あれが真言葉の事故だったらテメェは生きちゃいねェし、星花宮自体が木端微塵になってもおかしかねェ規模になる」 「だったらね、エリィ。いまの魔法はどうなってると思う。あなたの感覚でいい」 言われてエリナードは戸惑わなかった。二人の師を前にした緊張などとっくに飛んで行ってしまっている。ただひたすらに魔法が楽しくてならない。考えることが、予想することが。目を煌めかせる子供を師たちはくすぐったそうに眺めていた。 「全然……違うものじゃない、と思います。はい、違わないです。えっと……その。いつだろう――。たぶん、入門儀礼。あそこで、俺たちが意識しないうちに、発音できない、感知もできない、そんな形で、真言葉が刷り込まれてる気がします。だから、通常言語で、魔法が発動する。呪文の詠唱は、俺たちの精神に刷り込まれた真言葉を起動させる……鍵。あぁ、そっか。だから、鍵語、魔法なんだ」 ぱちぱちぱち、と拍手の音がした。からかうような目をしたカロル。目を細めているフェリクス。エリナードの頬に血が上っては熱くなる。 「そういうこと、だ。――それにしたってよ、テメェはなんで俺に見せようとしたんだってーの。テメェの弟子だろうが」 「はい、なに馬鹿なこと言ってるの? 僕は真言葉の才能がないんだ。僕が見るよりあなたが見たほうが正確じゃない。だいたいあなたは僕の師匠なんだ。相談くらい乗りなよ」 「あー、はいはい。乗りますよ、乗ってやりますよ」 投げやりなカロルの言葉だったけれど、笑っていた。が、フェリクスの言葉にエリナードは驚いている。 「あぁ、あなた。カロルが僕の師匠だって、知らなかったっけ? ほんと、集中すると他のことはどうでもよくなっちゃうんだから、この子は。それも魔術師らしいけどね」 肩をすくめてぽん、と頭に手を乗せられた。師弟であると言うのはずいぶん前に聞いた覚えがあったけれど、エリナードはだからそこに驚いたのではなく、いまでもまだフェリクスがその師を頼るのだという事実。「自分の師」ではない顔が彼にもあったのだと改めて思えば、赤くなった頬が二度と再び戻らなくなるような気がしてきて、より一層エリナードは赤くなる。 「だったらいいね、カロル?」 「あいよ。機会ができたら連れてってやんな。こいつは自力で探る段階はもう越えてるわ。このあとは先人が通った道を先に教えた方が効率いいからよ」 「じゃあ、エリィ。今度僕と塔に行こう」 言われた言葉がわからずにぽかん、とエリナードは口を開ける。呆気にとられる自分の頭をフェリクスが撫でているのは感じていた。返事もできないでいるうちにカロルが紛れもなく冗談なのだろう、フェリクスの頭を同じように撫でている。憤然と睨みつけたけれど、どことなく師は嬉しそうだと思ったところでようやく理性が帰還した。 「師匠!?」 「どうしたの」 「だって、塔って! リィ・サイファの塔の、ことですよね?」 他にあるんだったら聞かせてよ、などと呟くフェリクスに片手を上げてカロルは去って行った。忙しいのは事実らしい。けれどエリナードは頭だけ下げたのしか覚えていなかった。まだまだじっとフェリクスを見ていた。穴が開くほどに。 「さっきカロルも言ってたけどね。あなたは自分で真言葉までたどり着いちゃったんだよ。あなたがイメルの手を借りて実験してたのは知ってるって言ったでしょ。いずれね、行き詰ったらあなたが求めてるのが何か示唆をあげようと思ってたんだけど、必要なかったし。だからね、エリィ。ここまで一人で来たんだったら、もうあなたは次の段階に進むべきなんだ」 わかるか、と覗き込んでくる師の目から視線を外せなかった。リィ・サイファの塔とは、それだけの驚愕をエリナードにもたらした。かつてシャルマークの大穴と呼ばれた大陸最大の魔所を攻略した四英雄、その一人である魔術師リィ・サイファ。半エルフのその魔術師は、最後の旅に出る前、友人であった魔術師サリム・メロールに己の塔を委ねた、と言う。そしてその管理権限がいまは星花宮にあった。先ほどの会話からすればカロルが管理しているのだろう。エリナードは何を考えることもできずに首を振っている。そこに連れて行ってもらえるなど、まだまだ遥かに遠い先のことだと思っていた。 「塔にはね、古今の魔道書がほぼすべて揃ってる。我々魔術師の始祖であるリィ・ウォーロックの魔道原書なんて言うものもあるよ」 さすがに真言葉魔法だからすぐさま実行はできないけれど、現在でも充分参考になるとフェリクスは笑う。 「俺は、まだ――」 「だからね、エリィ。――リィ・ウォーロック、リィ・サイファ、サリム・メロール、それからカロル。他にも一門の魔術師たちが書き残したものとかやってみたことの記録とか、そう言うものが塔にはいくらでもある。あなたはもうそれを研究する段階なんだ。わかる? 先人の知恵を学ぶときなんだよ」 なぜかわかるか、とフェリクスが尋ねた。いまだ呆然としているらしいエリナードの藍色の目が揺れていた。少し早すぎたか、と思わなくもない。エリナードは星花宮の弟子となってまだ最初の一年を過ごしてもいない。けれど年月ではない。問題は彼がどこまで何を理解しているかのほうだ。そしてここまで到達したのならば、先に進ませたい。魔道を歩む速度と同じほど、魔術師としての倫理も叩きこむ必要が出てくるけれど、そんなものは苦でもない。エリナードはそもそも倫理観に欠ける質ではない。 「俺が、同じことを繰り返さなくて、いいように……?」 「そのとおり。あなたは自分で考えて、やってみて、できた、その過程を経なくてもね、たぶんもう先人の記録を読むだけで理解ができる。だったら、いままでの魔術師が何をやってきたのか学んだらいい」 「その、先に進めるように」 「そういうこと。どう、行く気になった?」 膝に手を当てエリナードの視線に合わせていたフェリクスは笑いながら背を伸ばす。成人男性としてはひときわ小柄なフェリクスだったけれど、エリナードはまだそれほど小さい。 「――はい!」 少しずつ実感がわいてきたのだろう。ここが、星花宮の弟子が上る階段の一つだと。また一段、師に近づくことができる。その手段が手に入った。エリナードの目が輝く。きらきらと、あまりにも眩しくてフェリクスの目をくらませんばかりに。 その思いにフェリクスは内心で苦笑していた。弟子が可愛くて仕方ない。そんな気持ちをカロルも感じたことがあるのだろうか。疑問に思ったのは修辞、というもの。あるのを知っていた。知らずほんのりと頬が赤らむ。 「師匠?」 「別に。なんでもないよ、可愛いエリィ」 「それ、よしてください。……ちょっと、恥ずかしいです」 ぽ、と赤らんだ頬。イーサウではまだ早いと思っていたけれど、そろそろ身の回りに気を付けることは教えるべきかもしれない。そう思ってしまった自分に小さく溜息。 「これって親馬鹿ってやつかな」 呟くフェリクスをエリナードが不思議そうに見上げていた。なにも知らない無垢なままの表情で。 |