なんだか嬉しいものだね、とタイラントは言った。エリナードが魔力の欠乏に悩まされていたのだとすれば、イメルは外傷に苦しんでいた。気を失って星花宮に運び込まれた時点で酷い怪我を負っていた、彼は。だがしかし、彼の師はタイラント・カルミナムンディ。傷ならばあっという間に癒すことができる。そして目覚めたイメルは枕元に師を認め、掴みかからんばかりにして言ったそうだ。 「俺は……。師匠! あ……。違う、そうじゃない。師匠、どうして!」 「なにが? とりあえずちょっと落ち着いて。傷だけしか治ってないんだ、君はまだ。傷が塞がっても――」 「そんなことはどうでもいいんです! どうしてフェリクス師は俺を庇ったり! 俺より、エリナードが! エリナードは、無事なんですよね、師匠!」 もちろん。微笑むタイラントに訝しげな眼差しを向け、それでも師の言葉を信じたのだろう、やっとどさりと枕に頭を戻す。 「……どうしてフェリクス師は」 「うん、たぶんね。俺は現場を見たわけじゃないけど」 タイラントはフェリクスの考えが手に取るようにわかっていた。イメルは彼が庇わなければ、間に合わなかった。間違いなく死んでいた。エリナードだとて、似たようなものではあったはずだ。けれどフェリクスはイメルを選んだ。確実なイメルの死。致命傷であっても、一縷の望みがないわけでもないエリナード。どれほど苦渋に満ちた決断だったことか。心臓が一打ちする間に彼は、どんな咎でも背負うと決心した。敵わない、タイラントは思う。フェリクスが幼い者を守ろうとするその心には、とても敵わない。 「幸い、エリナードはサガが助けてくれたみたいだよ。だから大丈夫」 そのサガはもういなくなってしまったけれど。死んだのではない、魔族であるサガは己の世界に戻っただけだ。それでもサガがいないのをフェリクスが寂しく感じているのもタイラントは知っている。それ以上にエリナードを救ってくれたことをどれほど感謝していることか。 「エリナードの顔見に行っても――」 「だめ。君はまだぼろぼろなんだ。傷を治しても治っていないってのは、もう知ってるはずだよ。君はそこまで小さな子供だったかな?」 「……はい」 そこまでにこりと笑って言わなくてもいいとイメルは思う。それほど子供扱いしなくとも。けれどどうしてだろう。いまはそうしてもらえることがこんなにも嬉しい。枕元に師がいてくれる。とろとろと重くなる瞼の向こう、師がそこにいる。きっと目が覚めたときにもいてくれる。それを信じられることがイメルはとても嬉しかった。 そして四人はいま、イーサウにいる。エリナードとイメルの負傷を癒すため、というのは外向きの理由で、まだ幼い二人を政治に利用されたくもなかったし、何よりこんなときには魔術師と言うのは都合が悪い生き物だ。好奇心が旺盛すぎて子供の心など知ったことではないとばかりに質問攻めにするに決まっている。だから星花宮を一時離れるのが最適だった。 「ちょうどいい休暇だよなー」 優しい陽射しがタイラントを輝かせていた。夏も終わり、秋口に入りかけたこの季節の風は、涼やかだ。それも王都アントラルよりずっと北にあるせいだろう、心地よい爽やかさだった。 その風にタイラントは裸身をさらしていた。隣には蜂蜜色の肌をしたフェリクス。南の出身を思わせる健康的な色合いの彼に並ぶとタイラントはまるで雪の神のよう、そんなことを思ってイメルはほんのりと顔を赤らめていた。 イーサウは温泉の町。この町に温泉が湧きはじめたころはみなが裸で入っていたというけれど風紀上の問題が頻出するにしたがって袖も裾も短い湯浴み着を使うことになっている。もっとも、男性は面倒がって前を隠す布を腰に巻くだけの者が多い。いま四人はそうして湯に浸かっていた。宿の湯殿もよいけれど、そう言って子供たちを公共浴場に連れ出したのはタイラント。 「すごい!」 屋根もない、野原に風呂があるようだった。ごろごろとした大岩を組んだ風呂があり、滑らかな木の風呂もある。もうもうとした湯けむりの中、寝そべってくつろぐ人々の姿。イメルが嬉しげな歓声を上げていた。エリナードは声もなく目を丸くしている。 「ちょっといいよね、こういうのも。星花宮にも作ろうかなって思ったんだけど、僕らの時間が取れなくてね。あなた、やってみたら?」 エリナードの金髪を撫でれば瞬きをする。自分にできるのか、できるとしたらどんな方法か。それを彼は考えているのだろう。根っからの魔術師だな、とフェリクスは微笑ましい。 四人は小さめの風呂を占領していた。いくらでも大きな風呂がある湯だ。さして邪魔にもなっていない。そして四人だけの親密な雰囲気ができあがっているせいで誰も入り込んでこようとはしなかった。そうしているのは無論タイラント。世界の歌い手が入浴を楽しんでいる、そこに邪魔できる剛の者はそうはいない。 「師匠――」 「あぁ、これ? 素顔だと色々あるのは知ってるでしょ。だからね。それだけだよ。別に僕は正体隠したいわけじゃないからね、ちょっと緩和できればそれでいいんだ。だいたい隠れたいんだったらこいつが素顔でいる方がよっぽど問題でしょ、派手だし、目立ちすぎるし」 「そりゃないだろ、シェイティ!」 悲鳴じみたタイラントの声にイメルがくすくすと笑う。エリナードの無事を確かめて、イメルはようやく安心したらしい。顔色が星花宮を出たときより格段によくなっていた。 エリナードはイメルの笑い声に触発されるようちらりと笑い、それでも幻影をかけた師の姿を見ていた。あまり気分がよくないと思ったのはいつだったか。いまでもやはり、不愉快だ、そうせざるを得ないこの世界が。悔しいと言った方が正しいのかもしれない。 「うん、こんなことを君の前で言うのはどうかと思うんだけどさ、許してくれるだろ、シェイティ? でさ、イメル。君はシェイティが素顔でいるときに着替えとか、見ちゃったことあるよな?」 「それは、その! 偶々で!」 慌てるイメルにエリナードが忍び笑いを漏らす。そんな友を彼は恨めしそうに見やり溜息をついていた。まだまだ幼いエリナードが少しばかり羨ましい。 「わざとだったらいくら弟子でも締めてるよ? 偶然なのは知ってるけど、それでも見ちゃったときちょっとどきっとしただろ?」 正直に言えと微笑むタイラントにイメルはおろおろと視線をさまよわせ、フェリクスに眼差しが留まる。別にかまわないよと言うよう肩をすくめられてしまった。 「……う、はい」 「うん、それがまぁ、普通、かな? シェイティの出身を考えるとね、それがよくある反応だし、それがわずらわしいからこの人はこうやってちょっと形を変えてる。でもな、イメル。君がそう感じることそれ自体は否定するようなものじゃないんだ、わかるか?」 「あなたは十五歳になったんだっけ? だったらそういう年だよね。感じなかったらそっちの方が心配なくらい。それはそれでもいいんだけど。……エリィはまだ早いからね?」 「……師匠にそんなこと感じる外道にはなりたくないです」 「だよね。僕もだよ。息子に欲情されるのは遠慮したい」 「シェイティー。君ってやつはさぁ。言葉を選べよな!」 呆れ顔のタイラントにフェリクス師弟は顔を見合わせてしまう。特別おかしなことを言ったつもりも聞いたつもりもなかった。それをまたイメルが小さく笑っていた。 「まぁね、あなたには早いけど。でもね、自分の肉体のことは知るべきなんだよ、エリィ。一番身近にある研究材料でもあるからね、魔術師にとっては」 「それもそうだけどさ、そういう感情をまだまだ幼い君たちだと思って利用する輩って言うのが残念ながらいるからね。そう言うこともそろそろイメルは覚えた方がいい。健全な欲望は推奨するけどね、そうじゃないこともたくさんあるから」 イメルは話題が話題なだけに少し、居心地が悪そうだった。反面、エリナードは真剣に聞いている。まだ幼くて欲望を覚えない、というだけではないだろう。二人の性格の差かな、とフェリクスは思う。どちらも微笑ましく、そう思う自分がくすぐったい。 「この世界はね、とても美しくて、同じくらい醜いよ。俺はどっちも同じくらいあると思ってる。でも醜いもののほうが多く見えるよね? どうして、イメル?」 「えっと……目立つから、ですか?」 「うん、俺はそう思うってだけだけどね。だからね、そういうのがあると知ることは大事だよ、二人とも。あるってわかってれば、身を守ることができるだろ。知らないで直面するとは全然違う。だから、君たちに酷いものがあるって俺たちは教えるんだ。わかるか」 「夢も希望もない話だけどね。それが現実って物だからね。僕らはこの世界で生きてる。なら、どうやって生きて行くかを学ぶべきでしょ、より善く生きたいじゃない?」 言いながらフェリクスは優しくエリナードの金髪を梳いていた。普段は柔らかにうねる髪が、いまは濡れてくるくると巻いている。額にかかるそれをよけてやればほんのりと照れて微笑む。その目が一瞬にして真摯になった。 「師匠……。よかったんですか、星花宮を離れて。あれ……事故じゃ、ないんですよね」 不安そうに言うエリナードに、フェリクスは歓喜を覚えていた。醜いものも教える、そう言った途端に彼が考えたのは事故のこと。イメルが驚いてエリナードを見やる。 「イメルはまだ知らなかった? あなたがたのせいではない、と言う意味においては事故じゃないって言ってもいいね。あそこまで酷いことになると思ってなかったのか知らされてなかったのか。それはいまカロルとリオンが調査中だよ。これもね、あなたがたが身を守るために知っておいた方がいい醜いこと、の一つだね。エリィにはまだ早いと僕は思うんだけど。でも仕方ないね」 「君はそういうとこ、過保護だよな。シェイティ?」 「あのね、僕のちっちゃな可愛いタイラント? 弟子の前でからかわないでくれる?」 ひょいと隣に伸ばした手がタイラントの喉首をやんわりと締め上げていた。華やかな悲鳴を上げるタイラントと微笑むフェリクス。どっちもどっちだ、と二人の弟子は顔を見合わせ笑いあう。そしてエリナードがまた師を見やれば寸時を置かずフェリクスが弟子を見つめる。その様子に今度はタイラントとイメルが笑いあっていた。 「だったら、いいんですか。やっぱり――」 「あなたがもっと大きくなったら話してあげるけど。僕とカロルはちょっとした事情があって、精神に接触できる距離が長いんだよ。もしかしたらタイラントより遠くまで届くかも。試したことないけどね。お互いにいま見ているものを見ることすら可能だよ。めんどくさいからやらないけど。だからね、心配は要らない。カロルが情報をまとめてちゃんと僕に渡してくれてる。星花宮にいるのと変わらないくらいにね」 安心させるよう頭を撫でたのにエリナードはそれでもどこか不安なままだった。タイラントもそれに気づいたのだろう、茹ってしまいそうだ、わざとらしく声を上げて笑って湯から出た。 |