二人の元、ゆっくりとカロルが歩み寄ってきた。その手には小さなものを持っている。が、その話は後だと言わんばかりにカロルはエリナードの頭に手を置く。 「怪我はねェな? テメェらでよかったぜ、ちびっこいガキどもだったら死んでらァな」 「よかったってことはないじゃない、カロル!」 「比較の問題だ比較の。うっせェぞクソガキが。がたがた騒ぐんじゃねェよ」 言いながらカロルはちらりと笑った。言葉ほどに乱暴ではない手がエリナードの髪を梳く。暴風にさらされたかのよう乱れて絡まった髪だった。 「で。原因だがな」 「待ってよ、カロル――」 「ガキには話す必要はねェってか? ンなことねェだろうがよ。知ってりゃ対処ができる。それほどちっこいガキじゃねェんだ、これでも弟子なんだぜ? だったらこいつは知るべきだし、知らなきゃならないことなら知るに早いなんてこたァねェよ。テメェは過保護なんだっての」 滔々と言いつつ笑うカロルにエリナードが小さく口許をほころばせる。それにフェリクスは溜息をつき、カロルを促した。 「これだよ、これ。見りゃわかんだろ」 そして手に持っていたものを差し出した。フェリクスの表情が一変して厳しくなる。エリナードは驚いてその短刀を見ていた。 「わかるか? ほう、そりゃたいしたもんだぜ。こりゃテメェが見たとおり、魔法のかかった短刀ってやつだな。しかもあれだ。きっちり逆転の呪文付きだぜ、誰だか知らねェが舐めた真似しくさってくれたもんだぜ」 ふん、とカロルが鼻を鳴らした。エリナードは確かにそこに魔法を見ていた。短刀ならば素早さを増したり、切れ味をよくしたり。あるいは護身呪をかけたりすることもある。けれどこれは。周囲一帯の魔法を逆転させ、暴発させる、そんな魔法がかかっていた。エリナードにはさっぱり組み立てがわからない。 「あなたにはまだ早い。基礎ができてからでいいんだよ、こういうのは」 「師匠――」 「世の中にはこう言うものもある。それから身を守ったり人を守ったりするのにね、あなたは覚える必要がある。でもまだ早い」 言い募るフェリクスをカロルが過保護だと笑った。それに憤然と彼を見やったときにはすでにカロルは平静の表情。 「とりあえず原因だけは知らせとくぜ。あとはこっちでやる。俺とリオンの領分だな、こりゃ。テメェらはガキの面倒見てな」 「……言いたくないけど、リオンに礼を言っといて」 「はぁ? 馬鹿言ってんじゃねえよ、テメェで言いやがれ。――おいコラ馬鹿弟子」 無造作な指がフェリクスの顎先を捉え持ち上げる。じっとその目を覗き込み、カロルはにやりと笑った。ただ、それだけ。 ――心配すんじゃねェよ。こっちで片付ける段取りは組んでやる。テメェも噛ませてやるからよけいなことをいまは、考えんじゃねェ。怪我してんぞ、馬鹿。 カロルの目だけが和んでいた。精神に触れてくる彼の指先。その伝えてくる声。たとえ隣にタイラントがいたとしても聞こえないだろう、限定的な接触。エリナードになど聞こえるはずもない。ただ二人が睨みあっているのか見つめ合っているのか、微動だにしない、それだけが子供に見えていたもの。 「もう、いいよ。知らない。行くよ、エリィ」 鼻を鳴らすフェリクスはカロルとよく似ていた。エリナードはなにが起こっているのかいまだ理解できていない。勢いよく頭を下げてフェリクスに従った。 ぽつぽつと歩く。周囲は立ち騒ぐ魔術師でいっぱいだった。ここにはこれほど多くの魔術師がいたのかとエリナードは目を見張る。数年を経てもまだ会ったことのない魔術師がいくらでもいたらしい。 「おいで」 言葉少ななフェリクスに連れられて着いたのは、なんのことはない、よく見知ったフェリクスの部屋だった。 「あ――」 けれど、はじめてのことが起きた。部屋の扉を閉めるなり、フェリクスが膝をつく。そのままぎゅっとエリナードは抱かれていた。 「師匠?」 おろおろと呼びかけても、フェリクスはじっと黙ったまま。胸元に、フェリクスの頭があった。見下ろしているのが不思議で、エリナードは混乱する。 「……恨んでいいよ。恨んでも怒ってもいい。……あなたが無事で……よかった」 「え? はい? 師匠……」 「僕は、イメルを選んだ。あなたじゃなくてね。あなたが無傷なのは、ただの偶然だ。サガが、この世の肉体をかけてあなたを守ってくれたおかげだ。サガが間に合ったのは、偶然だけど」 あの瞬間、イメルの前に立ちはだかったフェリクス。真正面にエリナードが見えていた。決定的な瞬間に飛び込んでくれたサガを思う。その耳に届いた小さな笑い声。 「エリィ?」 「恨んだりするはず、ありません」 「だって、僕は――」 「師匠はきっと、俺を助けてくれた。守ってくれた、そう思います。でも、その前にイメルが危なかっただけ。そうでしょう? 俺は致命傷で済んだかもしれないけど、イメルはたぶん間に合わなかったら、死んでた。違いますか」 普段の内気さがこんなときには影を潜めてエリナードは真っ直ぐと彼の師を見つめる。見上げてくるフェリクスの目が揺れていた。いまになってフェリクスが震えていることにエリナードは気づく。何を思うより先に子供の手はその師を抱き返していた。 「師匠は絶対に俺を助けてくれる。……そう、信じてますから。だから、恨んだりするはずなんてないです」 含羞んで微笑むエリナードの胸にフェリクスは頭を預ける。ここに来たばかりの時にはこうして自分が膝をついていても同じくらいの目線だったものが、ずいぶんと背が伸びた。背と同じほど、心も伸びた。 「……エリィ。ごめんね、ありがとう」 「だから、師匠」 「いいんだよ、それで。僕は……あなたの師であれることが今ほど誇らしいことはないね。おんなじくらい怖いけど」 「なんでですか」 「幻滅されちゃうのは嫌じゃない? エリィ、怪我はないの。さっきはよく見えなかったんだ」 肩をすくめて笑いながらフェリクスは立ち上がる。少し照れたのかもしれない。それにエリナードもまた羞恥を覚える。 「俺は全然。師匠のほうが」 そしてエリナードは顔を派手に顰めて見せた。あとになって思い出しては怖い思いをするのかもしれない、ちらりとそうは思った。けれどいまは少しも怖くはない。それより落ち込んでいる師の手助けのほうがずっと大事なこと。まだまだ何もできない自分だけれど、それでも。 「あぁ……。これか。窓を突き破っちゃったからね」 ようやくフェリクスは自分の体に目をやった。所構わず血だらけだ。細かい傷が網目のように血を流している。おまけにサガのために切った腕からはまだ血が滴るほど。 「窓、ですか?」 「そう、間に合わないから窓突き破って、それでも間に合わないから転移して」 無茶だ、とエリナードは思った。正確に言えば呆れた。弟子を助けるために自分が死にかねない。それでもフェリクスはそれを選んだ。咄嗟のことだったから、彼はたぶんそう言う。けれど咄嗟にそういうことができるのが己の師だ、とエリナードは自分のほうこそ彼が誇らしい。 「手当て、俺でよかったらしますから。師匠、座ってください」 てきぱきと動く子供の姿をフェリクスは微笑んで見ていた。いまになって傷が多少痛みはじめた。ずいぶんと気を張っていたらしい。まだまだだ、内心で長い溜息をつく。 「驚かないでよ、エリィ」 言って傷薬を手に戻ったエリナードの前、フェリクスは血を流す。あ、と小さな声を上げただけでエリナードはその師の姿を見つめていた。 「はい、いま僕は何をしたと思う?」 こんなときに勉強か、と言わんばかりに顰められたエリナードの顔。手早く布で流された血を拭っていった。 「傷口に、硝子の欠片が入っていると困るから、押し流したのはわかります。でも、そんなことをすると体が持たないと思います!」 純粋な抗議にフェリクスはつい、微笑んでしまっていた。こんな風に案じられるというのも嬉しいものだと思う。 「笑ってないで血を止めてください」 「ふうん、僕にできると思うの、エリィ?」 「流せたなら止められないはずはないです。それに……水系魔法なんですから、師匠にできないはずはないです」 「血液も水の一種って思えるところがあなたのませたところだよね。ちなみに、褒めてるんだけどね」 褒めているようには聞こえない、と小声で抗議をしながらエリナードは傷の手当てをしていた。うつむきがちなのは、照れているせい。紛れもない褒め言葉だったから。 「……さっきのはね、政治的な色々ってやつ。あなたに知らせるべきではない気がするけど、カロルなら伝えとけって言うしね。純粋な事故ではないし、あなたにもイメルにも落ち度はないよ。そんなものはね、見ればわかるから」 「……よかった」 「そう?」 「はい。俺が……イメルに手伝ってもらってたから。俺が下手なせいでイメルに怪我させてたんだったら」 「僕は目で見ていたわけじゃないけどね、あなたがたが中庭で研究してたのは知ってるよ。だから、うまく行ってたのも知ってる。二人のせいじゃないよ」 あからさまにエリナードはほっとしていた。だからカロルはきちんと告げろと言ったのかと思う。自分のせいで友に傷を負わせたのかもしれないと不安がっていたエリナードだからこそ。そして目が覚めればイメルも同じことを思うのだろう。 「ありがと、エリィ。上手だね」 包帯も綺麗に巻き終えて、エリナードは少し満足げだった。その頭を撫でてやる自分の手のほうがまだかすかに震えていて、フェリクスは内心で顔を顰める。 「何があったか聞かせて。隣においで、エリィ。――って、あなた。ずいぶん消耗してるじゃない、気がつかない僕も僕だけど。いいよ、ここにおいで」 手を引いて座らされたと思ったときにはどうして自分は天井を見ているのだろうとエリナードはぼんやりと思う。 「エリィ、接触はできるね? 僕に触って、僕から魔力を取る。できるでしょ。ゆっくり、息をするように。すこしずつだよ」 他愛ないことを話して、エリナードはやっと平常に戻ったらしい。戻って、だからこそ魔力の欠乏に朦朧としはじめている。そんな子供に微笑んで、フェリクスは彼の頭を膝に乗せたままそっとその金髪を梳いていた。 |