もう少しで何かが掴めそうだった。エリナードは必死になって探っている。けれど顔は涼しいまま。たぶん、イメルにはわかるだろう。イメルと師以外の誰にもきっとわからない。エリナードがどれほど努力を重ねているか。 「エリナード。もうちょっと抵抗かけてみるか? どうだろ。ちょっと違うと思うんだけど」 イメルの示唆にエリナードはにやりと笑う。彼は自分よりずっと早くそれに気づいていたはずだった。他人は言う。エリナードは才能の塊だ、と。同時期に弟子と認められたイメルより遥かに素晴らしい素質を持っていると。 エリナードは違うと思っている。自分もイメルも素質はある。だからここにいる。多寡もある。けれどそれは決して優劣ではない。自分が先に先にと進んで行くのが目立つだけだ。イメルは言動こそ軽はずみだったけれど、魔法に関してはじっくりと考える。だから進み方が遅く見えるだけ。 「うん、頼むよ。こっちでも対抗するから」 二人の間に浮かんだ水の塊が急に動きを速めた。くるくると回転し、身悶えし、引き伸ばされては縮んでいく。風を操るイメルもいまは真剣そのものの顔をしていた。 二人の視界に同時に人影が映る。星花宮の中庭に貴族がいるのは珍しいことではなかった。単なる物珍しさであったり、用事があったり。頻繁ではなかったけれど、目を見張ると言うほどでもない。だから二人は気にしなかった。ここには簡易結界が張ってあって、危険は少ない。まして自分たちの魔法陣もある。二人とも、年若くして弟子と認められただけはあった。ここまでは問題ない、これ以上は呪文室、その区別がしっかりとできている。だから、本来ならばなんの問題もなかった。 「行くよ、イメル」 エリナードが力を強める。いままでのは前段階だとでも言うように。それでもこれは危険とは程遠い。星花宮の魔法、と言うようなものではない。 だから、紛れもなくそれは悪意。貴族が二人の間に短刀を投じる。冗談交じりのように、子供をからかうように。けれど、その結果は。 フェリクスは二人が中庭で遊んでいるのを知っていた。自分の執務室からその光景がよく見える。それでなくとも感覚できている。 ――まだまだ楽しくって仕方ないってとこかねぇ、お子がたは。かわゆいもんでやすな。 ちょろちょろと床の上を行ったり来たりしているのはサガだった。執務中だというのに遠慮もなにもあったものではない。付き合いが長いだけはある。フェリクスが本当に忙しいとき、あるいは極秘の執務をしているときには決してサガはここにはいない。 「そりゃそうでしょ。まだまだ覚えたてのことを試してみたくて色々やってみたくて。あとでもうそれは誰かが通ってきた道だってわかって悔しかったりするんだけど。でも自分で考えて試すってのはいいことだからね」 ――なんか覚えでもありそうでやすな? 「当たり前じゃない。僕だってはじめからこんなじゃなかったもの。僕だって若くて右も左もわからない可愛いころがあったよ」 ――旦那が? にやりとする――猫の顔など変わりはしない。けれどはっきりと笑ったとわかるサガの顔――猫にフェリクスは肩をすくめる。自分でも少しばかり図太い言い分だったかと思わなくもない。相手がサガだと気楽だった。気心の知れた四魔導師ではあるけれど、カロルはやはり師であったし、リオンには冗談めいてはいるものの隔意がある。タイラントは言うに及ばず。 「前も言ったと思うけど。どうかな? 僕は他愛ない雑談できる人ってあなたくらいしかいないんだよね。どう? ちょっと誇らしかったりする?」 ――誇らしいってよりゃあ、なんて寂しい人生だって涙が出そうですわ。まぁ、なんですかい、雑談の相手くらいだったらいつでも務めましょうさ。だから……。 契約をしないか、いつもどおりサガは続けようとしたのだろう。にやにや笑いの猫の顔をして。誘惑者の顔をして。フェリクスはそれをいなすのを楽しんでいる。いつもならばだから、そう続くはずだったのに。 「何――!」 さっとフェリクスの顔が窓に向く。そのまま窓を突き破って飛び出した、続いて短距離転移。中庭へのそれという超短距離だった。けれどそれでも間に合わない。己の喉が悲鳴を絞り出していた。 エリナードは愕然としていた。それでも身についた訓練は魔法を発動させている。咄嗟に張った魔法壁が眼前の爆発をかろうじて防いだ。いまは、まだ。いまこの瞬間だけは、なんとか。向こうでイメルがどうしているかまではわからない。 信じられないことが起こっていた。二人の間に投じられた短刀。エリナードはそれが短刀だったとは知らない。何かが飛んできた、と思った次には魔法が異常爆発を起こした。ありえない事態だった。そもそも爆発をするような魔法の組み立てではない。それならば呪文室を使っている。 混乱は一瞬。その間にも爆発がエリナードの障壁を食いちぎりつつあった。荒れ狂う魔力の中、貴族が死んだのだけはなぜか、感知した。自分もああなる。ぞくりとした。 そしてイメルの悲鳴。彼の障壁は持たなかったのだろう。イメルのほうが一歩前にいた。エリナードが水に抵抗をかけた瞬間だった。たった、それだけの差。崩れるイメルを見た気がした。それを抱きとめた人影。 「あ……」 ぽかん、と口を開けた気がした、エリナードは。イメルを抱いたのは突如として現れたフェリクス。不思議と血だらけになったイメルがはっきりと見えた。こちらを見たフェリクスの顔も。 「――エリィ!」 どうにもならなかった。フェリクスの前、二十歩の距離が無限に伸びている。自分が介入しなければ、イメルは即死だった。けれどエリナードは。わずかは持つ。その間にフェリクスが届けば。ここに二十歩の壁。即時転移をするには無謀な魔力の嵐。 エリナードが自分を見ているのをフェリクスははっきりと見ていた。修練の差がここに出ている。エリナードには靄越しに見えているだろう光景も、フェリクスには何の障害もない。だからこそ、エリナードの不思議と静かな顔が見えていた。手を伸ばす、無駄だと知りつつ。悲鳴を上げる。届かないのに。 そのときだった。エリナードの前、白い閃光が走ったのは。魔力に撃たれ、光が散りしだかれエリナードの頬に飛び散る。それはぬるつく赤い色となっていた。 「え……」 ぼんやりと手を伸ばした。そこに何かがある。否、いる。否、いたはずのもの。血だらけの塊になったもの。すでに生き物だったものの、その残骸。 「……サガ? サガ、だよね? え、どうして」 霧散した爆発の残光の中から落ちてきたものを知らず受け止め。両手の中、ちぎれた子猫の体。裂けた腹からはもう血は零れてもいなかった。猫としての形を失い、いまのサガはどろどろとした透明な何かに塗れていた。肉体すら、青黒い塊になりつつある。 ――無事でやすかい? そりゃようござんした。 それでもまだ鮮明なサガの心の声。エリナードはわけがわからない。ただ助かったのは知った。サガがその身を賭して助けてくれたのは、理解した。 「サガ。どうして。あなたは――」 ゆっくりとフェリクスが歩いてきた。足下が震えている。もう星花宮の四魔導師が集いつつあった。この時点を以て星花宮は一時封印された。何人たりとも四魔導師の許可なく出入りはできない。続々と中庭に転移してくる仲間たちにフェリクスは膝が砕けそうだった。声もなくイメルを抱きかかえたタイラント。真っ青だった。 ――そりゃあ、旦那が可愛がってるお子だからね。 「でも、あなたは」 ――あっしがいいことをしたら不思議ですかい? まぁね、あっしも不思議でやすよ。あれだね、きっと。旦那が喜ぶ顔が見たかったんだ、それだけさね。別にいいことでもなんでもねぇわな。 すくめる肩もないのにサガが笑っていた。エリナードの両手の中に入ってしまうほど壊れて崩れた体で笑っていた。何気なくフェリクスはエリナードの頬に血んだ血を拭ってやる。サガの血。彼の、この世界での肉体が流した貴い血。そしてフェリクスの手には彼の愛剣があった。 「カロリナ・フェリクスの名において――」 剣を掲げ、まるで騎士の哀悼のよう。エリナードは師とサガだったものを交互に見ていた。まだ、サガが死に逝こうとしているのが信じられなかった。 「――悪魔フォルニウスに感謝する。受け取り、退去せよ」 言い様にフェリクスは己の剣で自らの腕に切りつける。エリナードの手の中、サガの上にフェリクスの鮮血が滴った。 ――旦那、あんた……。 「長い付き合いじゃない。僕があなたの名前を知らないと本気で思ってたの? 魔力不足で帰れなかったのも知ってる。契約してあげるわけにはいかないけど、僕の血なら帰るくらいはできるでしょ」 顔を顰めるフェリクスの前、サガだった塊が蕩けて行く。ゆっくりとそれは実体を伴った煙と化し、フェリクスとエリナードの間を漂った。忍び笑いが漏れはじめ、次第にそれは哄笑へと。 「地上の子を甘く見ていたわ。所詮は戯れ暇つぶしと思っていたものを」 「諸事情あって僕はあなた関係は強いんだよ、学術的にね。ただそれだけ」 「ならば契約をすればよかろうに。肉に縛られていたままならば思いのままに使えたろう」 「言ってるじゃない、僕は宮廷魔導師なの。外聞があるんだよ、外聞が。――それにね、これも言ったよ。あなたくらいしか雑談相手がいないってね。友達を失くすのは嫌だったからね」 くかか、とサガだった何かが笑っていた。使い魔の肉体を脱したサガ、否、フォルニウスはまるで鮫だった。宙を舞う、ありえない、けれど美しい鮫。目を丸くするのも忘れてエリナードはそれを見ていた。その体がそっと抱き寄せられる。 「僕の友達だったサガに、感謝を。僕の息子を守ってくれてありがとう」 フェリクスの腕のぬくもりに、エリナードは震えた。ようやく震えることを思い出した。そっと、けれど確かに支えてくれている師の腕。 「――礼を言うはこちらよ、これで帰還がかなうわ。達者で暮らせ、二度と出逢わぬことを願おう!」 まるではじめから何もなかったかのようだった。煙はかき消え、手にべっとりとついていた血もぬめりもなにもない。 「サガは――」 「悪魔だって僕は知ってたんだけどね。害意はなかったから……」 「違うんです。どうして、俺を……。自分が死んでまで、どうして」 エリナードはその両手を見ていた。今までサガが乗っていた自分の手。熱い血もまだはっきりと覚えているのに。汚れていない自分の手。 「悪魔の考えることなんて、僕らにはわからない。でも……自分で言ってたじゃない? あなたを守りたかったからだって。だから」 ことりとエリナードがうなずいた。彼の藍色の目はどこを見るのだろう。遠いどこか、去って行ったサガの姿。 「ありがとう、サガ……」 叫び声は掠れて小さく、震えて。エリナードを抱き締めながらフェリクスは願う、この声があの悪魔に届けと。 |