道は続く

 フェリクスは久しぶりに厨房にいる。四魔導師用に、と作られた専用の厨房だ。実のところ、料理人のこればかりは断固とした反対にあって作ったもの。
「私らの仕事になりません」
 氷帝に向かってそこまで言ってのけるのはどれほどの勇気が必要だったことか。当時のことを思い出してフェリクスは手を動かしながら笑みを浮かべる。
「あんたがた用に、ちょいと作ったらいいじゃないか。ここには部屋がいくらでもあるんだし、そうおしよ」
 そう言ったのはメグという名の老女。フェリクスとタイラントの恩人だった。彼女が星花宮を支配していた時代を懐かしくフェリクスは思い出す。もうずいぶんと古い話だった。
 ――また相変わらずすげぇ臭いをさせてやすな。
 ひょい、とフェリクスの心に染み込んできた「声」。何気なく彼は振り返る。見知ったというべきか聞き知ったというべきか、この声の手触りとも古い馴染みだった。
「すごい臭いってどう言う意味さ。僕はお菓子を作ってるんであって、実験をしてるわけじゃないんだけど?」
 窓枠に座っていた影がぴょんと飛び降りてはフェリクスの足元にまとわりつく。猫だった。耳に四足の先端、尻尾の先、そこだけが灰に塗れたような銀色をした白い猫。耳ばかりが大きくて、まだまだ子猫だった。少なくとも、姿形は。
 ――とてもそうは見えねぇんでさぁ。
 くっくと猫が心の中で笑う。妙な縁で知り合って以来、時折この猫は星花宮にやってくる。別に飼っているわけではないし、そもそも飼えるようなものでもない。知り合ってどれほど経つのかはもう忘れたけれど、以来ずっと「子猫」であるようなものが猫であるはずはない。
「久しぶりだね、サガ。どうしたのさ」
 フェリクスが名付けたわけではなかった。本人がそう名乗ったから、フェリクスはそう呼んでいる。気に入りの名なのだろう、呼ぶたびにくすぐったそうに猫は笑う。
 ――あんたさんに可愛いお子ができたって聞いたから、見にきたんでさぁ。
「別に僕の息子じゃないけどね。血は全然繋がってないし」
 ――それでも旦那のお子なんでしょうが。
「まぁね」
 ふん、と鼻を鳴らせば付き合いの長いこの「猫」はくつくつと笑う。出来上がった菓子をざらりと皿にあければサガが顔を顰めた。
「そんな顔しないでよ。僕だって苦手なんだよ、こういうの。わかってるけどさ」
 それでも、こんなものでも喜ぶ子供がいるのだ、ここには。もっと上手な菓子を焼く人はいくらでもいる。星花宮には専門の料理人だとている。子供たちが多いから、と言って料理人はいつも子供が喜ぶものをたくさん作ってくれている。それでもなお。
 ――あっしはお子の味覚が心配でさぁね。
「言ってなよ、もう。僕だって心配だよ、ほんとどういう味覚してるんだか」
 作っている本人がそれを言っていては世話はない。フェリクスだとて自覚はあるのだ、自分が料理下手だということくらいは。こうして菓子を焼けばどれほど気をつけて細心の注意を払っても、何か違うものができてしまう。
 ――焦げの塊でさぁね。
 けっけとサガが笑った。フェリクス相手にこんなことができるのは星花宮広しといえどもサガの他にはいない。強いて言えばカロルがいるが、彼がすれば間違いなくフェリクスは反撃する。反撃すらしないで肩をすくめるのはサガだけだった。
「ちょうどいい。うちの子に会わせてあげるよ。いまは庭で遊んでるから」
 返事もせずサガはフェリクスの肩に飛び乗った。すぐさま彼の手がそこから引きずりおろす。目の前に掲げてにっこり笑ってサガを見つめれば哀れっぽく子猫は啼いた。
「言ってるよね、サガ? そこはタイラントの場所。あなたが乗っていいところじゃないの」
 ――んなこと言われても、まいったね。こりゃ。あっしが知ってるタイラントは人間でしょうが。こんなところになんざぁ乗れるはずはねぇ。
「それでもだよ。僕とタイラントの思い出なの。あなたはだめ」
 断言するフェリクスにサガは笑う。タイラントとフェリクスが二人で言葉を交わす場面などサガには見慣れたものだ。そしてその時フェリクスがどんな態度を取るか、サガはよくよく知っている。
 ――あっしが言うのもなんだがね、旦那。もうちっと亭主はかまっておやりなさいよ。
「誰が亭主だよ。僕はあんなのの嫁になった覚えはない!」
 言いながらフェリクスは笑っている。口ではどう言おうとも、タイラントはフェリクスの伴侶だ。カロルとリオンのよう、証の指輪などと言う恥ずかしいものこそなかったけれど、誓約式までしている。もちろん、司式したのはリオンではない。
 ――そうは言っても連れ合いでしょうが。人間は不思議だぁね。嫁の亭主のって言いながら、どっちも嫁だったり亭主だったりするときゃあなんて言うんだか。
「それは確かにね。僕もなんて言うべきなのか知らないよ。それこそどっちも亭主だったり嫁だったりでいいんじゃない? 僕は言わないけど。あとは僕の男とか?」
 ――本人には言わないくせによく言いまさぁ。
「僕の男とは言うよ。主に罵る時にね」
 腕の中のサガは身悶えて笑っていた。子猫がじゃれてくねっているようにしか見えない。そしてそんな猫に話しかけているフェリクスを怪訝な目で見るものもいない。ここは星花宮だった。
 ぱっと光が射して外に出る。フェリクスは眩しげに目を細め、わずかに肩をすくめた。少しばかり疲れているらしい。
 ――ちっとは旦那も体に気をつけなきゃいけませんぜ。
「そんな暇がなくてね。子供たちは次から次に悪戯するし。それを奨励してもいるしね。何かやらかして覚えるのが子供だから」
 ――相変わらず甘いこった。その甘さを菓子に生かせればねぇ、文句はねぇだろうに。
 言うなとばかりサガを睨みつけ、それでもフェリクスは笑っている。この子猫の形をした生き物がフェリクスは嫌いではない。こうして他愛ないことを話す相手としてはこの上ない。政治にも研究にもかかわらない話し相手、というのは中々いない。
「あぁ、いたね」
 フェリクスの言葉にサガは可愛らしい猫のふりをして振り返る。思わず笑いを噛み殺してしまったフェリクスだった。
「お菓子があるけど。食べる?」
 あるも何もない。子供たちが手に取ればすぐさま焼きたてだとわかるだろうに。それをフェリクスの照れだと彼らは知っているのだろうか。サガは群がる子供たちをざっと見回す。目が留まったのは、そこから外れた二人。皿の一つを子供たちに渡しておいてフェリクスはサガが思ったとおりそちらへと向かった。
「二人とも。食べる?」
 イメルとエリナードだった。あちらの子供たちは訓練中のまだ幼い子供。二人はちょうど出くわしただけだったのだろう。それなのに一歩を引いておずおずと彼らを眺めていた二人。まだまだ引っ込み思案は健在だ、とフェリクスは思う。こくりとうなずいたエリナードが手に取り、含羞みながら焼き菓子を食む。イメルも嬉しそうに食べていた。
「――師匠のお菓子、大好きです」
「あのね、エリィ。僕が作っておいて言うのもなんだけど。焦げてるし砂糖の量は間違ってるし、それが大好きってあなた、味覚が心配なんだけど」
「……焦げてても、なんか変な味しても、師匠が作ってくれたから、俺は大好きです」
 伏し目がちのエリナードが言うに至ってイメルが思わず吹き出す。それ以前に耐えきれなくなったのだろうサガが身悶えていた。
「あの、フェリクス師。伺ってもいいですか? その猫――」
「猫、じゃないですよね。師匠。なんですか、その子」
「え……エリナード? 猫じゃないって。猫だろ、どう見ても。俺には犬には見えないし。鳥でもない」
「見た目は猫だけど、猫じゃない。と思う」
 いつもならばイメルに向かい、お前は馬鹿か外見のことを誰が言っている、程度のことをエリナードは言い返す。が、フェリクスを前にしたエリナードはたいていこうだった。憧れの師を前にして緊張してしまうらしい。それをイメルは微笑ましく思って眺めていた。自分がタイラントの前に出れば似たようなものだというのを棚上げにして。
「うん、エリィが正しい。自己紹介、する?」
 ちょい、と抱いた子猫を掲げてフェリクスは話しかける。それに子供たちは目を丸くした。さすがに言葉が通じるとまでは思っていなかったらしい。
 ――あっしは使い魔でさぁ。サガと呼んでおくんなさいまし。
 そして心に接触してきたのにもまた、驚いたらしい。飛びあがりそうになっているのをフェリクスは笑みを浮かべて眺めていた。そのエリナードがさっと緊張する。
「――師匠。使い魔って。それは、その。俺なんかが差し出がましいですけど」
「ありがと、可愛いエリィ。僕の心配をしてくれてるの? サガは確かに使い魔なんだけどね、正しくは元使い魔、かな。僕のではないし、なんでふらふらしてるのかも知らないけどね」
 ――だからあっしはずっと言ってるでしょうが。旦那が契約してくれりゃあ、あっしはずっと動きやすくなりやすって。
「だからと言って宮廷魔導師が使い魔もつわけにはいかないでしょ。僕にだって評判ってものがあるんだから」
 ――旦那はそんなもんを気にするお人かねぇ?
 不思議そうに言いサガはきしし、と笑った。そのあまりに鮮明な声と笑いに子供たちはくらくらとしているらしい。
「ひょんなことで知り合ってね、長い付き合いなんだけど。世の中にはこういう存在もいるよってことであなたがたには会わせておこうかなと思って。ちょうど遊びに来たからね」
 ――あっしもあんたがたを見ておきたかったからね。
 師と子猫の形をした使い魔に言われてイメルはもう理解を放り投げたらしい。あとでじっくり考えるつもりだろう。が、エリナードは興味深げだった。
「見ておきたかったからって、なんでですか」
 ――こりゃまいったね。あっしはしがねぇ使い魔だ。敬語はよしだぜ、小さな魔術師さん。なに、旦那が……。
「サガ。生きてたかったら、その可愛いお口を閉じておくんだね」
 くすりと笑ったフェリクスが子猫の喉をくすぐっていた。サガの背に冷や汗が滴った音が聞こえるようで子供たちは顔を見合わす。聞こえさせたのもサガ。フェリクスの戯言と教えてくれたのもサガ。エリナードが小さく笑った。




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