フェリクスは叫びだしたくてたまらなかった。できることならこのままカロルのところに駆け込んで、力一杯殴り飛ばされて自分の正気を確かめたい。それくらい、愕然としている。 もちろん、言うまでもなく原因はエリナードだ。 「師匠。あの……ちょっと、見てほしいことがあるんです」 星花宮の弟子として認められてまだ半年と経っていない。それでもまるで長い時間を経てきた魔術師のよう、エリナードは研究に励んでいる。星花宮の弟子の中でもほんの一握りだった、四魔導師の直弟子は。幼いから、贔屓をしているから、フェリクスが弟子としたのではない。いずれそれが誰にでもわかるだろう。エリナードゆえに彼はフェリクスの弟子なのだと。とはいえ、弟子としては破格に幼いエリナードだ、他の弟子たちより気にかけてはいる、主に安全面のために。 「いいよ。呪文室?」 星花宮に数多ある魔法のための部屋をエリナードは使っていた。これも実のところ四魔導師が揃って頭痛をこらえる原因の一つだ。 呪文室はその名のとおり、呪文を扱うための部屋だ。よって、当然のこととして危険を伴う。実験なのだから当たり前だ。だからこそ、危険への対処ができない未熟者の使用を避けるための規則が設けられていた。呪文室の扉に使用者と使用条件を記す、というだけのことだが。しかし、それを魔法でする。筆で書く、などと言う無様は決して許さない。だからこそ、四魔導師が頭を抱えるわけだ。十一歳のエリナードにそれをされてしまっては、他の弟子たちに発破をかけるしかないではないか。もちろん、四魔導師はエリナード本人には毛ほどもそんなことは匂わせない。よくやってるな、励んでいるな、と笑っていなす。 「これって、やっぱ才能の差ってやつかなぁ」 タイラントが言ったときにはフェリクスは思い切り彼の頬を叩いていた。最近ではそこまできつく叩いたことなどなかったものを。唖然としたタイラントが、次いで自分の非を悟ったのだろう、わずかに眼差しを下げる。 「あの子にあるのは努力する才能。だいたいね、こんなところで完成されちゃ困るんだよ。もっと伸びるはずだよ、あの子は。常人でもいるじゃない、ちっちゃいときは天才だったけどって人。僕はエリィにそうなって欲しくはないけど、でもあの子はそこまででしかないのかもしれない。だから、わかる? タイラント。僕らが、それを言っちゃだめなんだ。僕らは子供たちを導くのが務めでしょ。その僕らがすごいね、才能があるねって感心しててどうするのさ。あの子のためにならない」 滔々と言うフェリクスの手をタイラントは取る。心底から詫びている彼の顔。ぶるりと震えたのはたぶん、幼い者に接する覚悟を固めるため。今更だよ、笑ってフェリクスはタイラントの失言を許した。 だからエリナードは特に不自然とも思わず、できることをしているつもりだろう。呪文室も、使えるようになったから、使っている。その程度の認識だとフェリクスは思う。 おずおずと一歩下がって後ろに従うエリナードの小さな体。実はイメルと話しているときには結構口の悪い子供だとすでにフェリクスは知っている。こうして含羞むのが嘘のように。 ――憧れられてるね、この僕が。 そう思えば含羞みたいのはこちらだ、と思ってしまう。そこまで尊敬されるような魔術師ではない、とフェリクスは自分を評価している。感嘆するのならば、それはカロルのほうだとも。タイラントが知ればどちらも同じだと言うだろうし、リオンならば自己評価がなっていないと嘲笑するだろう。 「それで、何を見せたいの?」 小さめの呪文室だった。星花宮には大規模魔法にも耐え得る巨大な呪文室もあるが、いまエリナードが試しているのはそう言うことではないらしい。 「あ、はい。これ……なんですけど」 魔法は、定命の子には扱いにくい特殊技術だ。だからこそ、属性と言う概念がある。フェリクスは知っている。ここにはかつてサリム・メロールと言う半エルフの魔術師が存在した。彼には属性など何の関係もなかったと。 それほど難儀な技術だ。まだまだ研究をはじめたばかりのエリナードだから、いままで開発されてきた技術を自分の手で確かめたり、発展に苦慮してみたり、そのようなことをしているのだろうとフェリクスは思っていた。あながち間違ってはいなかった。が、それにしても。 「師匠?」 叫んでもいいだろうか。呪文室の一点を見やってフェリクスは無表情に溜息をつく、もちろん内心で、だが。 「あなたが何をしようとして作ったのか、聞かせて。エリィ」 淡々としたフェリクスの声にエリナードは少し身を縮める。それでも魔法のことならば、と思いなおしたのだろう、精一杯に胸を張って成果を述べる。 「いままで、師匠にあちこち連れて行ってもらいました。――でも、転移呪文はまだどうしても手に負えなくて」 当たり前だ。弟子になって半年と経たないひよこにそれをされてしまっては市井の魔術師が失業する。星花宮の魔導師は卒倒する。 「だから、自分で決めたところになら、跳べるようにできないかなって。最初にここって決めておいて、そこに印って言うか、魔法陣を作っておいて。そこを目標に転移する。それなら、何とかできるかもって」 わかっていてやったのか、と半ば呆然とフェリクスはエリナードを見ていた。できることならば書庫から転移関係の呪文書でも引っ張り出して丸写しにした、と言われてみたかったものを。 つかつかと魔法陣まで足を進めてフェリクスはじっくりと検分する。後ろで身を細らせてエリナードが自分の背を見つめている。それを感じられないほど、フェリクスは呆気にとられていた。 「あぁ、自己流だね」 「え……」 「最初は、呪文書から写したのかなと思ったんだけど。違うね、これ。あなた、自分で考えて描いたんでしょ」 「……はい」 「なに、がっかりしてるの? 魔法は研究の進んだ分野でもあるからね。あなたみたいな小さな弟子が考えつくようなことは他の人がもうやってる。そう言うものでもあるよ」 「はい!」 納得したのだろう、その上でならば学んで学んで学び尽して、新しい道を拓く、そんなエリナードのきらきらとした目。フェリクスはぽんと彼の金髪に手を置いた。 「その上でね、これはちょっと珍しい、かな。あなたみたいに経験の浅い弟子がここまでやるとはね」 「でも――」 「ん、何?」 「あんまり、遠くまでは、行けないんです。……理論的には、たとえば前に師匠に連れて行ってもらった北の薬草園にだって行けるはずなのに」 悔しそうに唇を噛むエリナードにフェリクスは微笑んでしまう。それを見た彼が、わずかに目許を険しくさせた。そんなところはまだ感情の隠せない子供で、だからこそ可愛い。 「あのね、エリィ。そこまでされちゃったら僕ら四魔導師の立場がないでしょ。どれだけ怠けていたのって話になっちゃう」 きょとんとしたエリナードの頭をフェリクスは撫でていた。この子の努力の成果だと思いつつ。北の薬草園、というところが気にかかったけれどこれはたぶん、エリナードが思いつく最も遠い場所、というだけだろう。 「だったら、師匠にもできないんですか。そんなはずはないと思います」 「当たり前じゃない。僕を誰だと思ってるの。できるよ、その程度のことはね。でも――あなたの年にはできなかった。ここにいる魔導師たちの誰も、ここまでやったことはないね」 「え――」 「ほんと、努力だけは立派だよ」 首まで振って見せているフェリクスをもしタイラントが見たならば慌てるだろう。とても子供を褒めているようには聞こえない。が、さすがエリナードだった。それが師のこれ以上ない褒め言葉だと彼は理解していた。ぱっと赤らんだ頬に、またももしタイラントがいたら、とフェリクスは考えてしまう。 「ねぇ、エリィ。ちゃんと寝てるの。食べてるの。ここまでする努力は立派。それは事実だけどね。あなたがまだたった十一歳の小さな子供であることも事実なんだ」 わかるか、とエリナードの顔を覗き込み、フェリクスは呪文室の床に腰を下ろした。すぐ隣に座らせて、肩先を抱いては首をかしげて子供を見つめる。 「うん、認めたくないのはわかるよ。僕だってあなたの年頃にはそうだったしね。子供だって言われて癇に障るのは知ってるけど。でも事実は事実でしょ。あなたにはこの先まだまだ長い時間が待っている。いまここで体を壊すことを僕は勧めないよ、可愛いエリィ」 「ちゃんと寝てるし食べてます!」 「だったらいいんだ。僕の忠告は忠告として、心に留めておけばいい。そう言うものでしょ、忠告って。――寝て食べて、ここまでするか。なるほどね。だったら僕から課題をあげよう」 ふっと笑ったフェリクスの目をエリナードはじっと覗いていた。星花宮にいるとき、師は決して幻影を被ったりしない。闇エルフの子の特徴もあらわな素顔のままだ。それを怖いとか忌まわしいとか思ったことがエリナードにはない。ただひたすらこの人に近づきたかった。 「距離が出ないって言ってたね? あなたは僕と一緒に跳んでるんだから、感覚は覚えてるはずだ。覚えてれば、転移点の改善個所もわかるはずだよ」 ちらりと魔法陣を見やって言うから、あれは転移点とすでに名づけられているのかとエリナードはがっかりする。が、自力でここまでたどり着いたのは自分だ。胸を張ってうなずいたエリナードにフェリクスは微笑む。 「いまここでね、あそこをこうしなさいって言うのは簡単だよ、エリィ。でもそうしない理由はわかってるね」 「……俺のためにならないから」 「そう言うこと。――うん、こういうのはどうかと思わなくもないんだけどね、もしあなたが自力で改善策を見つけられたら、ご褒美をあげよう。なんと言っても星花宮初の快挙だしね」 くすりと笑ってフェリクスは立ち上がる。褒美と言われて少しばかりむくれたエリナードが可愛い。そんなことをしなくとも努力はすると言いたげに。 「その代わり、約束すること。ちゃんと――」 「寝て食べます。大丈夫です!」 フェリクスの言葉を奪ったエリナードが、自らのしたことに青くなる。そんな姿も実のところフェリクスには愛らしくてならないだけなのだけれど。 「信用してるよ、可愛いエリィ。体にだけは気をつけて続けるようにね。僕はあなたが倒れるところなんて見たくないんだから」 「あ……」 「あなたにどう聞こえるかはちょっとわからないし、僕がこれを言うのもどうかと思うんだけどね、エリィ。でもね、可愛い息子が無茶して体壊すのを歓迎する親なんていないんだよ、わかった?」 小さなエリナードを覗き込み、その細い体をぎゅっと抱きしめる。抱き返してきたエリナードの腕は頼りなくて、けれど見上げてきた眼差しは魔術師のもの。もう一度頭を撫でてフェリクスは呪文室を立ち去った。 |