道は続く

 星花宮の弟子となったエリナードの生活は激変した。まるで違う世界に来てしまったのかと思うほどに。
 が、エリナード本人がそう感じたにしろ、彼の生活はほとんど変わっていなかった。訓練に当たっていた時間が修業に代わっただけ。それも外部の人間が見ればやっていることは大差ないと言うに違いない。エリナードには、まったく違った。星花宮の弟子の誰に聞いてもそう言うに違いない。それほど訓練と修行は違う。たとえて言うならば、いままでは教えられたことをなぞっているに過ぎなかった。弟子となれば自ら先を追い求めて行くことになる。それも嬉々として、楽しく。この上ない歓喜を以てして。
 そうは言ってもエリナードはまだ十一歳の少年だ。歴代星花宮の弟子たちの中でも群を抜いて若い。大丈夫なのか、とカロルが不安に思っているとは四魔導師以外に誰も知らない。それもカロルは本人が体を壊す、あるいは心を病む、その可能性を懸念しているのであって、エリナードの能力に疑問を持っているのではない。それほど彼は努力するということを知っていた。正にフェリクスが言ったとおり、エリナードには努力する才能があった。だからこそ、時折身を休めることも知っている。もっとも魔法に熱中している彼のこと、うっかりと限界を超すこともままあった。
「ここがさぁ、うまく行かないんだよなぁ!」
 いつもの星花宮の庭だった。イメルも弟子と認められるには若干若い。が、エリナードがいるおかげで目立っていなかった。それを本人は歓迎しているらしい。フェリクスの懸念などどこ吹く風、と二人はいまも変わらず仲がいい。
「イメルは不器用なんだよ。ほら、貸せよ」
「不器用って言うなよ!」
「言われるのが嫌だったら練習しろよ、へたっぴ」
 ふふん、と笑ってエリナードはイメルの手から魔法を取り上げる。実体のないものを取り上げるとはいかなることかと思うけれど、それ以外に表現のしようがないのだから致し方ない。そしてエリナードの手の中、鮮やかに魔法が花開く。
「見た?」
「もう一回」
「うん」
 繰り返すエリナードの手の中を、その魔法の感覚をイメルは吸収する。大切なのは仕種でもなんでもない、その感覚。もう一度試したイメルは今度こそ晴れやかに笑う。
「やった! ほんと、お前が手伝ってくれると助かるよ。うまくできないときでもさ、こうやってお前が試してくれるだろ」
「俺はいいけど、それじゃお前が上達しないし、先には進めないだろ。いいのかよ、それで」
「よくないけどさ。いまはまだ。俺はここで立ち止まるつもりはないし、進むよ、必ず。でも、まだまだちょっと先にいる誰かが俺には必要なんだって」
「それが俺だってのが問題なんだろ。俺、言いたくないけどお前より年下だぞ、イメル」
 知っている、とイメルは偉そうに胸をそらした。もうそれにはエリナードも笑うしかない。イメルのその明るさがエリナードの救いだった。自分の代わりに泣いてくれるような優しさと共に。
「それにさ、お前には感じられないだろ、この風の色」
 庭の空気を目一杯に吸い込んでイメルは満足そうに辺りを見回す。輝くような揺蕩うような風の色。水系魔術師のエリナードにはたぶん見えない。自分ほどには。同じくらい、エリナードが見ている水の姿が自分にはわからない。
「なんかさ、こういうの、楽しくないか? おんなじ場所にいて、似たようなものを見てるのにさ、全然見てるのが違うんだ。俺はそう言うの、すごく楽しい」
「イメルさ……。お前、タイラント師に歌とかも習ってるんだろ?」
「うん、風系は必ずやるしね」
「もうちょっとちゃんとやった方がいい。すっごい嘘くさいよ、お前!」
 言ったな、と笑ってイメルはエリナードに掴みかかる。彼が星花宮に来て、そして引き合わされたときからずっとここは二人の遊び場だ。その前は一人でここにいた、イメルは。友達がいる、それがこんなにもまだまだ楽しい。ずっと楽しければいいな、と思うイメルの手が止まる。
「あれ……」
 不意に顔を上げたイメルに倣ってエリナードもそちらを見やった。まだ人影など少しもない。けれどこれが魔術師だ、たとえまだまだ端くれだとしても。現に二人が待つ程もなく、見知った人がこちらにやって来ていた。
「パトリックさん!」
 イメルの明るい声に、きっとパトリックも救われるだろう。そうエリナードは思う。北の薬草園の庭師頭がこちらに向かって手を振り返す。困り顔と笑みが半分ずつ。
「よう、元気そうだな。坊主たち」
 あの日あの場でエリナードを巻き込んだ修羅場を彼は見た。なにをどうしたものか、二度と顔を合わせない方がいいか、そんな風にも思っていた。それだからこそ、イメルの声に彼は救われる。
「もちろん。パトリックさん、どうしたんですか、ずいぶん遠い道なのに」
 怪訝そうなイメルにパトリックは苦笑した。確かに遠い。魔術師たちは気軽に転移をして跳んでくるけれど、常人のパトリックは馬を乗り継いでこなければならない。言葉に詰まったパトリックに二人はわずかに首をかしげた。そして聞くべきではない、と納得したのだろう。何事もなかったよう微笑む。それに知らず込み上げてくるものがあるパトリックだった。
「わしは元騎士さ。ここで――お仕えしていたよ」
 ここ、というのだから王宮に、延いては国王その人に仕えていたに違いない。目を丸くする子供たちにパトリックは昔を話す。ささやかな事件に巻き込まれたと。悪かったのは自分ではなく、けれど責任を取らざるを得なかったこと。その命を救ってくれたのも、庭仕事を斡旋してくれたのもフェリクスだったと。
「だからな、フェリクス様はわしの命の恩人だ。命だけじゃない、生き方そのものの、恩人だ」
 騎士の家に生まれた者として叙勲を受けた。が、決して好きで騎士をしていたわけではなかった。むしろフェリクスが勧めてくれたよう、庭仕事のほうがずっとずっと好きだった。いまもこうしてその好きな仕事で身を立てていられる。それがどれほど嬉しくありがたいことか。
「フェリクス様に従ってれば、なんの間違いもない。わしはそう思うよ」
「違うよ、パトリックさん」
「エリナード?」
 普段はおとなしい彼がこんなにもきっぱりと言うことが珍しかった。常ならば口を挟むことすらしない子供だったものを。
「俺たちは師匠に従ってるだけじゃない。いつか必ず師匠の手助けができるようになる。そのあとは、師匠を越える。魔術師としても、人としても」
 眩しいような決意の表明。パトリックは茶化さなかった。子供の言うことだと馬鹿にしたりもしなかった。ただただフェリクスを思う。心の中でそっと呟く、あなた様のお弟子はこんなにも素晴らしいお子だと。
「あぁ……そのとおりだ。頑張れよ」
 言った途端、自分の言葉に恥ずかしくなってしまったのだろうエリナードがわずかに足を引いてはイメルの影に隠れようとする。それをイメルと二人、笑いあう。
「おうそうだ。――イメルさん、エリナードさん、星花宮への正式参入、おめでとう存じます。あなた様がたの未来が豊かならんことを僭越ながら祈り奉ります」
 軽く膝を折ったパトリックの、それこそ正式な祝辞に子供たちはきょとんとし、顔を見合わせる。口を開いたのはエリナードだった。
「ありがとう、励みます」
「――ほんとさ、ここぞってときの度胸はお前の方がいいよな、エリナード」
「お前がへたるんじゃん。俺は普通だろ」
「そんな普通があるかよ!」
 笑いながら言い合いをはじめてしまった子供たちではあった。けれどパトリックの思いは通じた、そう彼は思っている。目を細め、パトリックは隠しから小袋を取りだした。
「まぁ、なんだ。言いにくいんだがな、二人とも」
「え、なに?」
「……ミナがな、お兄ちゃんにって作ったんだ。香草茶だ、受け取ってやってくれるか」
 きゅっと口を引き結んだエリナードに、当然だろうとパトリックは思う。エリナードは決してミナを妹とは思っていないだろう。それはミナのほうも、なのだが、彼に言ってわかるのかどうか。迷うパトリックの前、イメルが華やかに笑う。
「ミナちゃん、楽しかったのかなぁ。あの日のお兄ちゃんたちにって、作ってくれたんでしょ、パトリックさん?」
 感嘆していた、パトリックは。楽しいことなど何もなかったあの日。イメルは小さな女の子と会って遊んだだけだ、と捏造してのけた。何気なく。そんなイメルをエリナードは見上げる。ほんのりと浮かんだ笑みに影はない。けれど憂いはあると見てとったイメルは奮起していた。なにしろ自分のほうが年上なのだから、と。
「ミナちゃん、可愛い子だったよな、エリナード? ちっちゃい女の子なんて一緒に遊んだことなかったけどさ。お兄ちゃんたち大好きとか言われたら俺、めちゃくちゃ可愛がっちゃうかもなぁ!」
「……イメル、そこまで言うと危ない人だから」
「ちょっと、エリナード、どう言う意味だよ!」
「そのまんま。幼女に手を出す危険人物って言われたくなかったら慎めよ?」
 絶対に意味はわかっていない、はずだ、とイメルは思う。思いたい。そんな混乱が如実に表れた顔。彼とてまだ性衝動を強烈に覚えると言うほどではない。ましてエリナードは十一歳。おろおろとするイメルをエリナードが笑っていた。
「あー、エリナードよ。それをいまのお前の面で言うとな、お前のほうがずっと危なく見えるからな?」
 ぼそりと言いながら頭を抱えているパトリック。不思議そうに彼を見やったエリナードは自分の容貌というものにてんで関心がないらしい。少年としては当然なのかもしれなかったが。
「……ありがたく、もらうね。パトリックさん」
 ふっと笑ったエリナードが手を伸ばしてきた。まだ持っていた茶の袋が彼の手に。ミナは喜ぶだろう、そう思うが。
「ミナちゃん、俺を兄貴だなんて思ってないでしょ。俺だって、会ったことなかったんだし。あの子は兄貴がいるって知らなかっただろうし。だからこれは、ミナちゃんがパトリックさんと一緒に暮らしはじめてすごく楽しいって、そう言うことなんだと思う」
 こんな子供が、と言えばフェリクスは笑うだろうか。けれど完全にエリナードは理解していた。ぞっとするより感嘆したくなる。あるいは膝すら折りたくなる。そんなパトリックなど知らぬげにイメルがあの子は元気かな、と笑っていた。
「……ここだけの話だがな。無論、フェリクス様はご存じだが。――ミナの体は、痣だらけだったよ。母親に、酷い目にあわされていたんだな。……知らなかったとはいえ、知らなかったことをこれほど悔いたことはない」
 エリナードの表情がさっと変わる。それはミナの兄としてではなく、マギーの息子としてでもなく。一人の人間としての憤りだった。
「いま、ミナちゃんは。パトリックさんのとこで幸せ? だったら、きっとそれでいいんだよ。……俺が、師匠のとこで幸せなのと、違うけど、一緒だと思う」
 それだけでエリナードは生みの親を切り捨てた。こんな小さな子供が、と思えばパトリックには無惨以外の何物でもない。イメルも同感だったらしい、けれど彼は黙って首を振る。決めたのはエリナードだとばかりに。




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