道は続く

 およそ十日というもの、フェリクスはエリナードにかかりきりだった。もっとも、エリナードは気づいていなかっただろう。何気なく一緒にいた、それだけだった。夢のように美しい花畑や素敵な湖。散歩に行こうの一言でフェリクスはエリナードを連れ出した。いずれも星花宮の敷地内だったのだけれど、エリナードにそんなことはわからない。ひたすらに目を丸くして楽しんだ。
「おやすみ、エリナード」
 夕食をちゃんと食べられる、それも温かい食べ物を、誰かと一緒に食べる。そんな経験はエリナードから奪われていたもの。それを再び獲得したのも、この時期だった。初対面の日から数えて三日ほど経った晩、はじめてフェリクス以外の人と夕食を共にした。タイラント、と紹介されたのはぽかんとするほど綺麗な人。それでもエリナードは一瞬はぎょっとした、彼の目は左右の色が違ったから。
「あ、やっぱり驚いた。でも、俺は悪いものじゃないからね?」
 にこにことする男にフェリクスが肩をすくめている。喋り方が馬鹿みたいだよね、などとエリナードに向かって言ってみせる。何を言っていいのかわからなくて、それ以上にまだまだ人と面と向かって会話することに慣れていなくて、エリナードはそっとフェリクスの服の裾を掴んだままだった。
 それでも少し、思った。左右色違いの目は、エリナードの生まれた村では悪魔の目、などと呼ばれていた。子供を躾けるときに親たちは言うのだ、そんなことをすると悪魔の目になってしまうから、と。実際にいるとはいくら幼いエリナードでも思っていなかったほどの珍しい目を持った人がここにはいた。そして当たり前に生きている。生きていていいのだ、自分も。ここで。明確な意識ではなかったけれど、少しずつエリナードにも染み込みはじめる。
 そうしてフェリクスと遊び、食事をし、夜には一人で眠る。毎日が光のようで、エリナードは息もつけなかった。だからかえって一人で寝台に潜り込むとほっとするほど。それでも夢を見た。
 フェリクスにもらった香草を枕の下に敷いても、何度となく悪夢は訪れた。母の怒鳴り声。父に打たれる頬。村人に追いかけまわされ殴られる夢。物音にようやく目を覚ます。
「まだ起きていたの、エリナード。だったらもうちょっと、お喋りをしようか」
 青白い明かりを手に持ったフェリクスが寝台を覗き込んで微笑んでいた。その魔法灯火にも驚けないほど、エリナードは驚いたものだった、最初は。
「……はい」
 きっと、フェリクスにはわかっていたはずだった。いままで悪夢にうなされていたと。それでもまだ起きていたの、と問うてくれる。それがこんなにも嬉しかった。そして彼は本当にエリナードが眠るまで、そこにいてくれる。ぽんぽん、と寝台の上掛けを叩くフェリクスの手。昔話であったり、この星花宮の伝説であったり。ほろほろと話してくれる彼の声。エリナードはそれを聞きながら眠りにつく。今度は悪夢は見なかった。
 今夜もまた、お休みエリナード、そう言ってフェリクスは部屋の戸を閉める。最初の日にエリナードは驚いた。扉に鍵がかかっていなかったことに。好きに出入りしていい、そう言われたのだと知って。それでも不用意に出ないのはたぶん、まだまだ怖いせい。それでもどんなに怖いことがあっても悪夢を見ても、フェリクスがいてくれる。気づけばエリナードの中に染みていた。
 そのエリナードが眠りにつくころ。久しぶりに星花宮の四魔導師が会合を持った。全員がそれぞれに多忙だ。中々一堂に会することが難しい。もっとも、顔を合わせる必要がないとも言える。そこは魔術師だけに必ずしも会話は顔を合わせてするだけのものでもなかった。
「どうですか、フェリクス」
 温顔を崩さない男にフェリクスはいかにも胡散臭い、と言いたげな眼差し。エリナードはまだ見たことがないフェリクスの目だった。
「どうってなにが。あなたの話はいつも漠然としすぎているかとんでもないところに飛んで行くか途中が抜けててさっぱりわからないか、どれかだよね。あぁ、そうでもないかな。僕にあなたの言葉を斟酌する気がないだけかも。ごめんね、リオン」
 にこりと笑って滔々とまくし立てるフェリクスにリオンの隣に座していた男が頭を抱えつつ苦笑する。肩をすくめてこちらはフェリクスの隣に座っていたタイラントに目を向けた。
「テメェも苦労するよな」
「えぇまったく……ってしてません! 苦労なんて全然!? ほんとにしてないからだからシェイティこの手をどけて!!」
「僕が、何? まぁ、とりあえずリオンの話に戻るけどね。あの子なら順調だよ。元の性格が明るい子なのかもしれない。明るいって自覚するより先に潰されてたみたいだけどね」
 タイラントの喉首をいまにも締め付けんとしていた手をあっさりとどけ、フェリクスは元の話に戻る。淡々と口にしたからこそ、カロルには通じた。酷く痛ましく思っていることが。
「可愛がってるみてェじゃねェか。遠くから眺めさせてもらったがよ、なんだあれは。背筋が寒くなったぜ」
「ちょっとカロル! 覗きはやめてよね! あの子、勘はいいし才能はあるし。僕が覗いたの気がついたって言ったじゃない。いまが大事なところなんだからよけいなことはしないでよ!」
「誰が魔法で覗いたって言ったよ? この目で見たんだ、生身の目でよ。いやはや、我が目を疑うたァあのことだな、マジで。ほんっとに、目ん玉落ちるかと思ったわ」
「そんなにすごい景色だったんです、カロル?」
 にこにことするリオンにタイラントがひやひやとしている。もっともカロルもフェリクスもまったく気にかけてなどいなかったが。
「だってよ、聞いて驚けボケ神官。このフェリクスがだぞ? ガキの肩抱いて頭撫でて優しく優しく微笑んでるとこなんざァな、テメェ、想像できるか?」
「想像力はあるほうなんですけどねぇ、私。ちょっと無理です、それはさすがに。限界というものがありますからねぇ、いくらなんでも」
「……リオン、面貸しな」
 むっとしてフェリクスが立ち上がりざまにリオンの喉元、剣をつきつける。が、すぐさまフェリクスの魔法の産物である剣は消されてしまった、カロルの手によって。相変わらずの腕の冴えだ、と感嘆する反面、面白くはなかった。
「えっと、その。シェイティ。座ったら? ほら、いまは久しぶりに全員で顔合わせてるんだし! リオン様とは後で話すってことで!」
「おやおやタイラント、酷いことを言いますねぇ。庇ってはくれないんですか?」
「俺に庇えるような方じゃないですから」
 それだけはきっぱりと言い、タイラントにしては強引にフェリクスを座らせた。それに不満そうにしていたものの、フェリクスは意外とおとなしく座る。振り上げた拳の落としどころを作ってくれたタイラントに感謝している、と気づいたのは当人ではなくカロルのほうだったが。
「それにしても珍しく溺愛と言いますか。本当にちょっと珍しいくらいですよね、フェリクス?」
「……別に溺愛してるつもりはないよ。どの子も最初はあんなもんだと思う」
「それが最初だけで済むのかって聞いてんだがよ? 別に済まさなくってもいいんだぜ。一応、テメェの所感を聞いとこうかってだけのことだ」
「あのね、カロル。それこそなに言ってるの。まだ七つの子供だよ? 済むの済まないのなんて言う段階じゃないじゃない。あの子が魔道を進むと限ったものでもない」
「そうか? それこそな、見りゃわかる。あのガキは魔法を志す。間違いなく一流と呼ばれるだけの腕を持つ魔術師になるだろうよ」
 己の師でもある魔術師にじっと見つめられてフェリクスは一瞬言葉を失う。間違っていなかった、と確認するように。フェリクスの目もまた、エリナードをそう見ていた。そして師がそれを請け合ってくれた。どこかがきゅんとする。
「ははぁ、なるほど。もしかしたらあなたの魔道を受け継ぐかもしれないから、あの子供を溺愛している、と?」
 瞬きをする間もなかった。再び出現したフェリクスの剣が今度こそリオンの髪を薙ぐ。咄嗟に喉からかわして髪で済ませたリオンの腕こそ褒むべきだった。
「あぁ、いまのは馬鹿弟子を責められねぇな。テメェが悪い、ボケ神官。だからフェリクス、とりあえず剣を引けっての。あとでこいつは俺が締めとくからよ」
「……本当だね、カロル。絶対だね?」
「師匠を疑うんじゃねぇよ。足腰立たなくしとくから今は引け」
「――違う意味で足腰立たなくする気がするんだけど」
「言うようになったもんだぜ」
 からからとカロルに笑われて、フェリクスが頬を赤くしては八つ当たりのようタイラントの腕を打つ。よう、ではなくそのものだった、とは打ってから気づいた。
「痛いだろ!? なんで俺をひっぱたくんだよ!」
「そこにいるからじゃない!」
「だからってな!」
「うっせェぞ、ガキども。で、ちっこいガキのことだろうが、いまは。だいたいな、フェリクス。海のもんとも山のもんともつかねぇガキにエリナードって名付けといてテメェも白々しいんだよ。さっさと覚悟を決めろってんだ」
「だから……まだ、本人が……その」
「俺ははじめて会って、こいつは俺の跡継ぎだってすぐ思ったけどな?」
 にやりとするカロルにフェリクスは言葉もない。またも赤くなって黙るだけ。今度はタイラントも殴られずに済む。
「それにしても、最近の星花宮は豊作ですねぇ。あなたのところのミスティも中々熱心でしょう、カロル?」
 おうよ、と弟子になったばかりの少年を誇るカロルの声。実際、まだ初期訓練の段階にあって誰かの弟子、と言うわけではないのだけれど、いずれタイラントの弟子となるのが確定しているイメルも魔法に熱中している。
「まだイメルより下ですけどね、オーランドって言う子がいるんですよ。あの子はいつか私の跡を承けてくれるかもしれませんねぇ」
 楽しげにリオンが言う。ここにいるのはすべて定命の魔術師たち。いずれいつかは死に逝く地上の生き物。ならばそのとき自分が歩んできた道に続き広げ進んでくれる誰かがいてほしいものだった。
「そうだ、思い出したよ。そろそろあの子を子供部屋に移すつもり。だからね、タイラント。イメルを貸してくれない?」
「え、いいけど。でも、あいつ、ものすっごく内気じゃない? 案内役に、向くかなぁ」
「だからいいんだよ。エリナードも内気だから」
「内気同士で?」
 それでは進む話も進まないのではないだろうか。タイラントは首をかしげたけれど、後になってフェリクスが正しいことが実証された。




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