頬を拭う細い指。体を抱く温かな腕。いずれもが当たり前で無造作で。それがどれほど貴重なものなのか、すでに子供は知ってしまっていた。ことりとフェリクスの胸に頭を預け、慌てて離れる。見上げたフェリクスは小さく笑っていた。 「なに、急に。照れちゃった? 別に気にしなくていいのに」 それだけだろう、理由は。怒られると思ったわけではないだろう、そう問うようなフェリクスの眼差し。子供は言葉の意味を知る。そう思う必要は、本当にない、そう言ってくれているフェリクスを。一度うつむいて、精一杯の努力でフェリクスを見上げた。 「……魔法って。どんなことができるんですか」 細い細い声だった。子供のそれと言う以上に。フェリクスは何気なく見えるよう心掛けつつ首をかしげる。あまりにも痛ましくて。 「魔法が、怖い?」 「……怖いかどうか、わからないから」 「なるほどね。知らなきゃ判断のしようがない。あなたの言うとおりだ。だったらちょっと見せてあげようか」 にこりと笑ってフェリクスは膝に抱いたままの子供を覗き込む。まだまだ緊張している子供を、少しでもくつろがせるにはどうしたらいいのだろう。ふと昔見た綺麗なものを思い出す。 そして子供が息を飲む。まだまだ降り続くしっとりとした雨。子供の目には煌めきを放ったかのよう、それも数多の色合いを伴って。 「水の花火ってところかな。ちょっと綺麗でしょ?」 「……すごい。あ」 「色がついてるわけじゃないんだよ。下を見てごらん」 フェリクスの膝から下りたことにも子供は気づいていなかっただろう。四阿から身を乗り出して水滴を掌に受け、目を丸くする。そしてフェリクスの言葉どおり下を見て、また目を丸くした。 落ち続ける雨滴一粒ずつの角度を変え、フェリクスは花畑の色を反射させていた。結果としてそこに現れたのが花火のように華麗な色彩。即興でこれだけの呪文を組み立てるのが星花宮の魔導師だった。 「こんなこともできるよ」 フェリクスはあちらを見て、と子供に言う。子供の目が向いた途端だった。こんもりと茂る細かい葉を持つ茂みの一角がぽとりと落ちたのは。そしてそのまま真っ直ぐと子供の手元に飛んできた。 「いい匂いがするでしょ? 枕の下に入れておくと悪夢を見ないって言うよ」 「あの……」 「気に入ったなら、好きなだけ摘んでいいよ。ここにあるのはあんまり危なくはないからね。ただし、口に入れないこと。お腹壊すようなのも植えてあるから」 ぴしりと言ってフェリクスは子供の鼻先に指を立てて見せる。タイラントのような口調だな、と内心で彼が笑っていたとしても子供にはわからない。ことりとうなずいた。それがぎゅっと小枝を抱きしめる。 「そんなにしたら濡れちゃうよ」 降り続く雨に打たれていた小枝だった。もう充分に水を含んでいる。咄嗟に叱られる、そう思った子供だったけれどフェリクスは笑って濡れた手を拭ってやっただけだった。 「この枝がね、人間だったら危ないと思わない? でもね、魔法でそう言うこともできる。やるかやらないかは、魔法を使う人それぞれ」 「……怖いのは、魔法じゃない?」 「知らない人からしたらどっちも一緒なんだと思うよ、僕も。それでも魔法は楽しいこと、素敵なこともできるよ」 そっと微笑むフェリクスを子供はじっと見つめていた。それからこくりとうなずく。何に対してうなずいたのかなど、子供にはわからない。それでも、何かが大丈夫だ、そんな気はした。 「とりあえず、訓練だけははじめる? もうちょっと落ち着いてからでいいけどね」 「――はい」 「だったら、あなたをなんて呼ぼうか? 呼ばれたい名前はある?」 セリスから、ここに来たら名前は変える必要がある、と子供は聞かされていた。意味はまだよくわからない。けれどそう言うものだと、何となく納得してはいた。 その子供の内心をフェリクスは窺っていた。読むのではない、想像にすぎない。ただ、己の経験に照らし合わせて思っただけだ。親に呼ばれていた名前がもうわからないのだろうと。覚えていたとしても愛着がないのだろうと。だから子供が黙って首を振ったときにフェリクスはうなずいただけだった。 「だったら僕がつけてもいい?」 きょとんとした子供の顔。勝手につけられる、そう思っていたらしい。無理もないことだとフェリクスも思う。 「……はい」 うなずくしかないのだろうとも思う。いずれ、この名が気に入らないと言ってくる日が来るかもしれない。あるいは、気に入っていると言ってくれるかもしれない。遠いいつか、意思表示をするくらいに成長してくれることをいまは祈る。 「じゃあ、エリナードって呼ぼうかな。どう?」 「……エリナード」 「うん」 子供は目を瞬いていた。何度もそうして、小声で新しい名を呟く。まるで彼と言う水の中に染み込むのを待っているかのように。そしてこくんとうなずいた。 それにフェリクスは何も言えなかった。気に入ってくれたら嬉しい。はじめはそう言いかけた。けれどいまの子供には、気に入らなかったならばお前を捨てる、そう聞こえかねない、そんな気がしてしまった。だから黙って腰のない金髪を撫でていた。うつむく子供は、エリナードと名付けられた子供はかすかに含羞むよう。その顔がぱっと上がる。 「さすがにいい勘してるね」 にやりと笑ってフェリクスは子供を隣に座らせた。そうしているうちに駆け込んでくる足音。ばたばたと大騒ぎだった。 「やあ、フェリクス師。こんなところにいたんだな」 エリナードは驚く。駆けこんできたのは立派な男の人だった。お芝居の中でも見たことがない豪華な服を着た人が、それもフェリクスよりずっと年上に見える人が彼を敬って呼んでいる。 「使いを寄越せば行ったのに。どうしたの、イェルク。急用?」 「急用と言えば急用、ですかな。なに、いつもの愚痴ですよ」 「いまだったらタイラントが吟遊詩人の訓練をしてるよ。あいつの歌のほうが慰めになるんじゃないの」 「なに、あなたと話しているだけで充分だ。――やあ、初めまして、かな? 可愛らしい子だ」 にこりと笑う男に子供は竦んでいた。気づけばきゅっとフェリクスの服の裾を握っている。咎められるかと思ったときには、何気ない腕が肩を抱いてくれていた。 「うちの子だよ。エリナード、ご挨拶は?」 まるでもっとずっと小さな子供に言うような口調だった。くすりと笑って、フェリクスは彼の目を覗き込む。心配しないでいいよ、と目が笑う。 「……初めまして、エリ、ナード、です」 とぎれとぎれの言葉に男性は悠然とうなずいていた。温和な眼差しに、子供の緊張がほぐれて行く。それでもきっといまフェリクスの腕が離れて行ったらどれほど心細い思いをするか、エリナードは気づいていた。それが少し、恥ずかしい。が、フェリクスはそれでもいい、そう言ってくれている気もした。 自分はここにいていいのだろうか。エリナードは気にしたけれど、大人二人のほうは少しも気にしていなかった。あとから来た人は愚痴、と言っていたけれどそんな風にも見えなかった。楽しいお喋り、にエリナードには見えていた。 ――違う、あそことは。違う。 地下に閉じ込められていても、子供には村の中のことがわかっていた。酒場で大人の男たちが騒ぐのを聞いたこともあった。自分のことを酒の肴にして、罵って騒いでいるのを聞いたことが何度もあった。 知らずフェリクスに縋りつく。フェリクスは会話を続けながらそれとなくエリナードの肩を抱きなおしてくれた。 温かい体に頭を預けながら、エリナードは思う。生家が遠くなっていくと。大人ならばそれを過去との決別と言う。まだたった七歳のエリナードはそんな言葉をまだ知らない。知らないのに、すでにそうするだけの過去がある。 「あぁ、すっきりとした。あなたと話すといつも気分が晴れる。感謝するよ、フェリクス師」 「友達の手伝いができるのはいいもんだね」 「そう思うのならば――」 「仕事の手伝いはこれ以上は勘弁して。僕の体がいくつあっても足らないじゃない」 断られるとわかっていたのだろう、イェルクは笑って立ち上がる。そしてエリナードの頭に軽く手を置いた。 「フェリクス師は優しく厳しい方だと聞く。よき方に会えたな」 それだけ言ってくるりと背を返した。小降りになった雨の中、駆けて行く。目を丸くしてエリナードはフェリクスを見上げた。 「言い方が偉そうだよね。まぁ、実際偉いんだけど。いまの、王様だよ」 エリナードは息が止まるかと思った。まじまじとフェリクスを見上げ、青くなる。その理由がわからない、とフェリクスは首をかしげていた。 「友達なんだよ、僕の。一応は、臣下でもあるんだけどね。ここの魔法使いはみんな王様の家来だからね」 「お、う、さま……?」 「そう、王様。驚いた?」 それは驚くだろう、当然。まさかここでイェルクに出くわすとは思ってもいなかった。さすがにそればかりは予定外だ。けれどちょうどよかったのかもしれないとフェリクスは思う。 イェルクは国王だ。このラクルーサの主だ。その王が、自分という闇エルフの子を友人として扱った。話を聞いていたエリナードにもそれはわかっただろう。それを見て彼はどう思うだろう。闇エルフの子ですら人として扱われる。ならば自分は大丈夫。せめてそう思ってほしかった。 「どうしたの?」 きゅっと裾を握ってきたエリナード。子供の澄んだ眼差しがフェリクスを見つめる。言いたいことの半分も言いきれなくて戸惑うエリナードの目。 「……魔法、好きです」 フェリクスは、撃ち抜かれる思いでいた。異種族の自分ですら。そう卑下した思いを子供に見抜かれていた。黙って抱き寄せる。 「そうだね。僕も魔法が大好きだよ。一緒に色んな事を覚えて行こうか」 「……はい」 「まずは、初期訓練だけどね?」 それは自分の担当ではない。言ったときにエリナードががっかりするのが伝わってきた。くすりと笑い、フェリクスは雨の上がった空を見上げる。虹が出ていた。 |