子供は部屋の中で身をすくめた。扉の前に人がいる。それがここにいてもわかっていた。何を言いに来るのだろう。怒鳴られるのだろうか、怒られるのだろうか。何をしたわけでもない、自分ではそう思うけれど、しかし村では、家ではそうやって生きてきた。 そして軽い音がして扉が開く。一度扉を叩いたけれど応答がないからすまないけれど、そんなためらいにも似たものを感じさせる扉の開き方。 「はじめまして。僕はフェリクス。ちゃんと寝られた?」 フェリクスが見たのは、そんな子供だった。怯えた顔をして、じっとこちらを見つめてくる子供の眼差し。腰のない金髪は、たぶん栄養状態が著しく悪いせい。藍色の目は、けれど真っ直ぐとフェリクスを見ていた。驚きもあらわにして。 「驚いたよね。それはわかってるんだけど。顔を隠して会うってのも、変じゃない?」 悪戯っぽいフェリクスの声に子供は黙ったまま。タイラントでなくとも、いまの彼の姿には驚くだろうに。普段とは打って変わった、とまではいかないけれど穏やかで優しげだ。が、星花宮の子供たちは知っている。この師は、本当はこういう人なのだ、と。 「見てのとおり、僕は闇エルフの子だ。場所によっては悪魔の魔族の言われることもあるかな。僕自身は人間とは異種族ではあるけど、でも普通の生き物のつもりなんだけどね。別にあっちこっちで火をつけてまわったりしないし」 その代わり凍らせてまわるだろ。タイラントの悲鳴が聞こえた気がしてフェリクスは小さく微笑む。いまここに彼がいたならばきっとそう言うだろうと。だからこそ、タイラントを連れずに一人で子供に会いに来た。よけいな冗談は子供のためにならない。 「あなたもそう言われてたんだって? セリスに聞いたけど」 こくりと子供がうなずいた。反論するでも、泣くでもない。ただただ諦めてしまっているかのような。その子供にフェリクスはそっと手を差し出す。 「ここでは、そんなことは言われない。だってみんな一緒だからね。みんな、あなたと同じように魔法の才能がある」 「――て」 はじめての子供の声。頼りなく震えていた。差し出したフェリクスの手から目をそらし、力なく座ったまま。それでも子供は言葉を発した。決して話そうとしないとセリスが言っていたにもかかわらず。フェリクスは内心でふと微笑む、初対面のような気がしないのはなにも自分だけではないのかもしれないと。 「才能なんて? うん、別に才能とかじゃなくてもいいんだけどね。他にうまい言い方がないからそう言ってるだけで。生まれつきの何かでもいいし、なんだったら悪者っぽく悪魔の祝福って言ってもいいけど。そう言われるのって、嫌じゃない? 僕はあんまり気分のいい言われ方じゃないから、才能って呼ぶ。それだけだよ」 身に備わった素晴らしい何かだとは思えない子供にフェリクスは痛ましげな目はしない。タイラントならばたぶん、そうする。自分はできない、と思いつつそれもまたよし、と思っていた。 「おいで。ちょっと遊びに行こう」 そうしてフェリクスには珍しいことをした。かなり強引に子供の手を取る。瞬時に恐怖に汗ばんだ子供の手。離そうとはしなかった。 ――離してあげた方がいいのかもしれないけどね。 内心で呟いては首を振る。いまは確かに手を離したほうが子供は喜ぶだろう。けれど、ここで離せば、あとになってきっとこの子は見捨てられたと怯えることになる。いまの恐怖などとは比べ物にならない強さで。だからフェリクスは離さない。 「……ここにはね、さっきも言ったとおり、いっぱい人がいるよ。あなたと同じよう、魔力のある人たちがたくさんいる。見てたでしょ?」 はっとして子供が体を固くした。その間にフェリクスは子供を部屋から連れ出す。星花宮の中でもここは静かな区画だ。引き取られてきたばかりの子供を魔術師がうじゃうじゃいるところになどとても置けない。引きつけを起こしかねない。 「……して」 「どうして知ってるか? だって、さっき僕があなたの部屋を覗いたときも、ちゃんとあなた気がついてたじゃない?」 小さく、あ、と子供が声を上げた。見る見る青ざめて行く顔。詫びようとしている子供の手をフェリクスは強く握る。 「謝らなくっていいんだ、別に。誰でもすることでしょ、その程度は。ここの大人は見られて困ることは――子供にとって危ないから見ちゃだめってことだけど、そういうところはちゃんとあなたがたには見えないようにしてあるからね」 「誰でもって……」 「だって、子供ってすぐにどっかに行って、どこにでも顔を出して、だめって言っても覗いて話を聞いて、遊ぶものじゃない。あなたはそれを魔力でしただけ。それだけのことだからね」 手段に違いがあっただけだとフェリクスは言い放つ。本当に、ここではそれは当たり前のことだと子供に言い聞かせるように。あるいはもう少し年嵩の子供であったならばフェリクスは言うだろう、外とは常識が違うだけだと。 震えながら子供はフェリクスに手を繋がれたままだった。怒られていないのは、わかる。けれど何をすればいいのかはまだ、わからなかった。どうして自分がここに連れてこられたのかも。セリスと言う吟遊詩人に道々聞かされたことはまだ信じられない。 決してだからぼんやりしていたわけではない、むしろ鋭敏に過ぎるほど鋭くなっていたはず。だからこそ、かもしれない。子供は駆け出してきた人に気がつけなかった。 「――わ! ごめんなさい! あ、フェリクス師!」 子供より、少しばかり年長の少年だった。大きな本を抱えて焦って廊下を曲がったら、ちょうどフェリクスにぶつかりそうになったらしい。抱きとめたフェリクスは片手を腰に当ててむつりと唇を引き結ぶ。それを子供は見上げていた。 「なに、イメル。遅刻? 大した度胸だね、寝坊するなんて。ほんと、いい度胸だよ。いったいどういうわけかな?」 「違います! あの……その! 寝坊しちゃったのは本当なんですけど……。でも、その。昨日、練習してて、遅くまで。だから、その……!」 まるで自分が怒られたかのよう身をすくめた子供は、イメルと呼ばれた少年のしどろもどろの言い訳を聞いていた。そして驚いていた。言い訳をしていいのだという事実に。 「いいよ、わかってる。冗談だから。行きなさい、本当に遅くなるよ、リオンの授業でしょ。あいつ遅れるとうるさいよ」 はい、と明るい返事をして少年は走り出そうとする。その前に子供に向かって小さく笑いかけて手を振った。 「珍しい」 ぽつりとフェリクスは呟いてしまってから子供に目を向けた。驚くことがあり過ぎて、何に驚いていいのかもわからなくなっているのだろう。ちゃんと息をしているか不安になってくるほど固くなっていた。それでもとにかく歩いてはいた。星花宮の建物を出て、庭へと向かう。風が薬草園の芳しい香りを運んできた。 「イメルはすごく内気な子なんだよ。あんな風に初対面の子に手を振るなんてね。あの子もちょっとは成長したのかな」 呟きめいたフェリクスの声に子供が彼を見上げていた。ことんと音がしそうなほどぎこちない動きで首をかしげる。 「あぁ、あの子もあなたと似たようなもの、かな。生まれた家にいられなくなってここに連れてこられたんだ。ここはね、そういう子はいっぱいいるよ」 けれどお前だけではないのだから、とは決してフェリクスは言わなかった。思いもしなかった。それはきっと子供に伝わってしまうから。大勢いる不幸な人たち。けれど子供にとって自分は一人だ。他の誰かがつらいのではない、自分がつらい。つらいとすらわからないほど、苦しい。そんな子供にお前ひとりではないと言ってもどうにもならない。むしろ励ますより害悪になる。だからいまはただ、ここにいる。こうして側にいる。 「いまはみんな、授業中。そうだね、学校みたいなものと思えばいいよ、ここは」 「……魔法使いの、ですか」 「うん、そうだね。ただ、別に魔法使いにならなくってもいいんだけどね。セリスに聞かされた? あなたはここでとりあえず訓練はすることになるよ。どうしてか? だってあなただって、別に死にたくはないでしょ? 周囲一帯巻き込んでの爆発四散、なんてしたい?」 タイラントがいたならば子供相手になんと言うことを、と悲鳴を上げるだろう。が、フェリクスは相手が子供だからと言って言葉を濁す気はなかった。魔法とは、それだけ危険なものでもあるのだから。さっと青くなった子供に理性を見てとり、まずはほっとする。 「だったら、あなたは自分の力をちゃんと制御できるように訓練をしないとね。そのあとは好きにしたらいいよ。魔法使いになるのもいいし、勉強するのもいい。仕事についてもかまわない。ここから書記になった子もたくさんいるしね。あぁ、商売をはじめた子もいるね」 どんなことでもまだできる。フェリクスに言われても子供は戸惑うばかりだった。生きていることすら否定された数年が、子供にそれをさせた。 「……ならなきゃ、だめなんだと、思いました」 「なに、セリスがそんな風に言ったの?」 慌てて首を振る子供にフェリクスは笑いかける。冗談だよ、と。それにつられるようにしてほんのかすかに子供の唇がほころんだ。 「あなたはなんにでもなれるでしょ、好きなことができるよ。まだまだわからないと思うけどね。だってあなた、まだたったの七歳でしょ?」 フェリクスの言葉に、子供ははじめて未来というものを見た気がした。暗い地下貯蔵庫から、一息にここまで引き上げられたかのよう。それにフェリクスは目を細めていた。 「水の匂いがするね。ひと雨きそうだ、ちょっと避難しよう」 きゅっと握られた手もそのままにフェリクスの後を子供はついて行く。足早で、子供は半ば駆け足だ。その中でも子供は驚いていた。そう言うことを普通に言ってもいいのだ、と。そしてちょうど四阿についたとき、本当ににわか雨がやってきた。 「ぎりぎりだったね。水系魔術師が雨に降られたなんて、恥もいいところだよ、ほんと」 逃げ込めて幸いだったと笑うフェリクスに子供は目を当てたままだった。そんな子供をフェリクスは呼び寄せる。端の方にいると濡れてしまうよ、とでも言うように。 「こういうこと言って怖がられたことがあるんだ、あなた?」 顔を覗き込むわけでもなく言うフェリクスに、子供は泣きそうになる。ただこくりとうなずけば、黙って膝の上に抱いてくれた。四阿の屋根を打つ雨の音。ほとほとと優しかった。 「ここではみんな平気で言うよ。お天気がわかるって、便利だよね?」 それだけのことだから、怖がらなくていいと。こくりとうなずきながら子供は思う。ここならば、叱られないのかもしれないと。暗いところに閉じ込められたりしないのかもしれないと。 「大丈夫。小さな子供は、いじめるものじゃなくて守るものでしょ。僕だけじゃない、あなたはここにいるみんなが守る。もう、大丈夫だよ」 子供の頬に雨が降りかかった。まるでそんな顔をしながらフェリクスは濡れた頬を指先で拭ってやる。子供はじっとされるままだった。怖がりもせずに。 |