不意にリィは眩暈を覚えた。指折り数えてみれば至高王が大陸より去って早百年。刻が来たのだと知る。苦く嗤って片手で目許を覆った。
「リィ?」
 腕の中で身じろいだサイファの髪をなんでもない、と撫でればまた眠りの中に彼は戻っていく。目覚めたとき、真実を告げる勇気を持つことは、到底できない相談だった。
 だからリィは何も言わずサイファを誘い出すことに決めた。いままでどおり嘘ではなく、そして真実でもなく。
「どうして?」
 案の定、サイファは目を丸くして驚く。無理もない。大陸の崩壊よりこの方、ずっと二人でこの閉ざされた魔法空間に暮らしていたのだから。
 それを突然、外に出てみよう旅をしようなどと言われて驚かないはずがない。ましてサイファは人間を恐れているのだ。嫌がるものを無理強いするとは思ってもいないだろう。わずかばかり嫌悪に顔が歪む。それを狙っていたのだとばかりリィはにんまり笑った。
「もうずいぶん落ち着いたみたいだしな。それほど危なくもねぇだろ」
「でも」
「うん?」
「どこに……行くの」
「別に決めてねぇな。あちこちふらふらしてみりゃいいさ」
 サイファは首をかしげる。納得したわけではなかった。だが、リィが共にいるのならばどこでもかまわなかった。彼が自分を危険な目に合わせるはずがない。サイファにとって人間とは愚かしい生き物でしかなくなっている。リィもその人間であった。けれど彼だけは違う。リィだけは、何があろうとも自分を守ってくれる存在だった。種族の差など、リィにだけは当てはまらない。だからまたきっと何か面白いことを考えているのだろう、そう考えてサイファはうなずく。
「じゃ、決まりだな」
 その一言で二人はこの場所を後にすることに決めた。サイファにとっては、何度経験しても慣れることのない引越しだった。二人で暮らした場所を移るのは、好きではない。
 あるいはそれは変化を好まない神人の子の性質であるのかもしれない。そんなことを思ってサイファはうつむく。種族の差など、そう思った途端に湧き上がってくるリィと自分との違い。
 彼と共に暮らした地を去る寂しさと自分たちの相違が渾然となって切なくてたまらなかった。何度思ったことだろう。人間として生まれたかった。いつまでもリィと過ごしたかった。リィと同じものを見、同じ感覚を味わいたかった。
 リィは知らない、世界の歌を。変わってしまった世界であっても朝日は昇る。闇から蘇った太陽が歌う喜びの歌。生きとし生けるものすべてを寿ぐ歓喜の歌。リィには聞こえない。
 聞きたくなかった。彼に聞くことができないなら、そんなものが聞こえて何になるのかと思う。一番聞かせたい彼に、聞こえない。一緒に喜び合いたい彼にだけ、聞こえない。
「サイファ?」
 岩の裂け目を前にしてリィが振り返る。サイファはまだその場に佇んでいた。百年と言えば神人の子にしても短い時間ではない。その間ずっと離れず暮らした地。幸福、とはこのようなことを言うのだと知った地。
「可愛い俺のサイファ」
「なに」
「名残惜しいか?」
「……うん」
「おいで」
 リィの伸ばした片手をサイファは取った。それから彼を見上げ、少し照れたような顔をして微笑む。
「リィ」
「なんだ?」
「別に?」
 変な子だと笑うリィの胸に顔を埋めた。サイファの幸福の地はこの場所ではなく、リィだった。聞こえなくても。見えなくても。
「行くぞ」
 裂け目を通り抜ければ荒廃したかつての森。サイファは生き物の気配の少なさに悲しみを覚える。じっと立ち尽くすサイファの背後でリィが低い詠唱を始め、サイファが振り向いたとき両手が打ち鳴らされ、そして。
「あ……」
 岩はただの裂け目に戻った。咄嗟に触れる。もうそこには何もない。空間は消え去り、冷たい岩があるのみだった。
「どうした」
「やっぱり、寂しいもの……」
「俺がここにいるだろう?」
 茶化すよう肩をすくめ、それからリィはサイファを抱きしめる。この場を残しておくわけにはいかなかった。サイファが二度と戻ることのないよう、閉じてしまわなければならなかった。自分の死後、サイファがここに篭ってしまわないように。知れば怒るだろうと知りつつもリィにはそうとしか出来なかった。
「どうしたの」
「なにがだよ」
「変だもの」
「どこが?」
「なんとなく」
「そうか?」
「うん。変なリィ」
 やっと笑ったサイファにリィは相変わらずだと笑って見せ、さり気なくその場を去った。すでにサイファは森に目を奪われている。否、かつての森、と言うべきだろう。
 予想はしていたことだった。だが思ったよりずっと崩壊は速かったらしい。当時でさえ立ち枯れはじめていた木々は完全に姿を消し足元に草が生い茂るばかり。
 サイファはかがんで草をちぎった。そして口許に寄せ、そのまま風に流す。鼻を突く匂い、噛まなくともわかる苦さ。草は病んでいた。それは大地そのものの病だったろう。
「哀しいね」
 ぽつりと言ったサイファをリィは慰めようもなかった。思い出しているのだろう、いつか人間に言われた言葉を。神人がいればこのようなことにはならなかった、と。神人の子らがなぜ父なる種族を引き止められなかったのか、と。
「運命ってやつだな」
 サイファのせいではない、ただそう言いたいだけだった。それなのにサイファはきっとリィを睨み上げる。
「こんな酷いことが、運命?」
「そういうもんだ」
「そんなのってないじゃない、こんな……!」
 掴まれた腕が痛んだ。顔を顰めたのを目にして気づいたか、はっとサイファが力を緩める。
「運命ってのはな、可愛いサイファ」
 大丈夫、と微笑んでリィは言う。変わらない黒髪を指で梳けば手に重い。馴染んだ手触りだった。
「人間にとっちゃ過酷なもんなんだよ」
「じゃあ、どうして信じるの」
 言葉はすぐに返ってきた。リィは苦笑する。それをからかわれた、と解したのかサイファは不機嫌な顔をしてあらぬ方を向く。
「そうだなぁ」
 歩きながら抱き寄せるのは難しかった。リィは立ち止まってサイファを腕に抱く。嫌がりはしなかった。
「どうしようもねぇことが起こったとき、罵るもんがあったほうが気が楽だから、だろうな」
「なにそれ」
「ま、気休めってやつさ」
 リィの笑い声につられたか、サイファも理解しないままに笑い出す。その考えに慣らしておきたかった。抗えない運命と言うものが、この世にはあるのだと。腕の中で笑う神人の子をそっと離した。首をかしげて不思議そうな顔をする直前、背を叩いて足を促す。ようやく止まっていたことを思い出したよう、サイファは歩き始めた。

 あちらこちらをどれほどかけて周ったことだろう。サイファは人間の前ではフードを深く被ることを覚えてしまった。その程度には長い。けれどリィの突然の言葉に驚く程度には、短い旅だった。
「一人で戻る? どうして!」
「お師匠様はお前が心配なの」
「だったらどうしてリィ一人で塔に戻るの」
「あのな、可愛いサイファ。ちょとだけ一人で旅してごらんって言ってるだけだろ」
「だって」
「んー、なんだ? お前、もしかして怖いのか?」
 あからさまなからかい言葉だったけれど、聞き捨てには出来なかった。サイファは強い反発を覚え、結局うなずいてしまったのだ。
「もう、リィなんか知らないもの」
 一人、ラクルーサを歩いていた。リィは自分ひとりで百年もの間放ったままの塔に戻ってしまった。あのころの人間たちはリィが戻ったのを知るだろうか。危なくはないのだろうか。
 ちらりと不安がよぎりはするが、リィのすることに間違いはない。心配は要らないはずだった。きっと、また何かを計画しているに決まっている。一年は戻るな、と言い置いたのだから。
「リィ」
 サイファの口許に淡い笑みが浮かんだ。何を考えているのだろうと、推測してもいつも当たったことがない。リィの計画はいつもサイファを驚かせる。それは楽しいことだった。
「難しいこと、言うんだから」
 リィが言い付けたのは二つ。ひとつは期限、もうひとつはシャルマーク国内には決して入らないということ。すでにシャルマークから魔物があふれているのはわかっている。リィが行を共にしているならばともかく、サイファも無茶をするつもりはなかった。
「危ないものね」
 わずかばかり拗ねたような声音になってしまう。リィがいないことにではなかった。魔術師である、と言うことに対してかもしれない。彼ら二人ほどの力を持つ者ならば、魔術師であったとしても傷を受けることなどありはしない。だが、サイファ一人であったならば。あるいはリィ一人であったならば。やはり魔術師には時間が必要だった。敵を怯ませその足を止める時間が。
 だからサイファは無理をしない。もっともそれは魔物のことだけではなかった。リィがいればサイファはその背に隠れるようにしてでも村を訪れた。一人きりではそれこそ無謀。いまは半エルフと呼ばれるようになった神人の子らに、直接人間が危害を加えることは少なくなってはいる。だが、少なく、であって皆無ではない。サイファは人里を避け、恵み少ない大地からの賜り物で日々を過ごした。
 大陸は、恐ろしい場所に変貌を遂げていた。サイファが遊び巡った大陸と、同じ場所とはとても思えない。そのせいかもしれない。どこか一箇所でも見つけたかった。以前のアルハイド大陸の美しさを持った場所を。
「あ……」
 ふと気づけば、約束した期限をだいぶ過ぎている。きっとリィが心配していると思えばサイファは慌てた。だが、不思議だった。リィが自分を探した気配がなかった。なにか胸騒ぎ覚え、サイファは塔に跳ぶ。封印の間に出現し、胸騒ぎが強くなる。
「リィ?」
 塔は静かだった。足を進めても、それにつれて灯るはずの明かりが灯らない。絶える事のない魔力の供給が、ほとんど絶えている。誰がいるようでもない。それが指し示すものの恐ろしさに背筋が凍る。リィはどこに。サイファは居間の扉を勢いよく開け、そしてその場に止まってしまった。
「リィ……」
「おかえり。もうちょっとだったのにな」




モドル   ススム   トップへ