リィはそこにいた。寝椅子に半身を起こして微笑んでいる。が、それは横たわる力もない、と言ったほうが正しかった。サイファの前ではあれほど堅固に維持していた幻覚も今はかけていない。深い皺の刻まれた年老いた人間がそこにいた。銀髪も、すでに完全に白く変わった。まばらに生えたひげもまた。
「どうして!」
 疲れたよう、寝椅子の背に頭を預けるリィの足元から何かが飛び出しサイファを驚かせる。小さな、人型の生き物がぴょこりと一礼していた。
「屋敷妖精……」
 そのような者がいることが信じられなかった。以前から、確かに存在はしていた。だが、二人の目に留まることはなかったのだ。
 元々屋敷妖精は人目につくのを好まない。ひっそりと仕事をするのが彼らの常だ。それが今ここにいる。召喚者たるリィの命に従って。それは明らかにリィの衰えを示していた。
「もうちょっと遊んでくりゃあなぁ」
「どうして呼んでくれなかったの、リィ……どうしたの」
 リィの身の回りのことくらい、自分にできる。むしろそう命じて欲しかった。屋敷妖精などではなく、この自分に。それなのにリィは呼び寄せることさえしなかった。それにサイファは憤りを感じる。
 リィは唇を引き結んだサイファに苦笑し、それから苦しげに息を吸った。サイファは嫌なものを目にしたよう、強張る。リィは彼を側に呼び、そっと重い黒髪を撫でた。
「もう、時間なんだよ、可愛い俺のサイファ。お前がいないうちに逝きたかったんだけどな」
 できるだけ、軽く言ってしまいたかった。叶わなかった。
「行く、どこへ……?」
 理解を拒否するよう、サイファは首を振る。リィはそのままにするわけにはいかなかった。だから彼を追い詰める。
「可愛いサイファ。俺はお前を残して死ななきゃならないよ」
 決して聞きたくはない言葉に、サイファの体が強張った。返事をすることも首を振ることもできず、サイファはじっとリィを見つめるだけ。
「わかるな? 可愛い俺のサイファ」
「嫌!」
 すがりついた体は細かった。そのことにサイファは何よりもリィの時間が尽きていることを知った。
 いったい、いつの間にこんなに衰えてしまったのだろう。人間としては相当に長命なのだとリィは言う。それでもリィは衰えた。定められた時が来ようとしている。サイファは震えた。
 リィに触れていく。白くなってしまった銀髪。緩くなってしまった頬。いつも痛いと笑った無精ひげも今はもう力を失って柔らかい。
「お前に、見せたくなかったんだがな」
「どうして……」
「死に目に会わなきゃ、どっかにいると思えるだろ?」
 だからリィは自分を遠ざけたのかとはじめてわかった。信じられなかった。自分に隠れて死んでしまう気でいたなど。
 リィが死ぬなど、とても受け入れられることではなかった。だが、その時が来ていると肌で感じた。定命の人の子の命が、いま消えようとしている。
 目の前にいるのに、消えてしまう。リィがリィでなくなってしまう。命を繋ぐ術が見つからなかった。死が、不可逆的な現象なのだと理解した。そんなものは知りたくなかったというのに。
 リィの指先を握る。握り返してきた手に力がない。それはすでに冷たくなっていた。あの大きな手から、ぬくもりが失せている。サイファは叫ばずにはいられない。理不尽だと思った。どのようなものも自分からリィを奪ってよいはずがない。
「運命だよ、サイファ」
「そんなもの私は信じない!」
「それでも、俺は死ぬよ」
 ぞっとする。単調なリィの声に言葉が何も見つからない。
「嫌……行かないで、ここにいて。ずっと一緒にいて!」
 ゆっくりとリィは腕を上げる。これが最後とばかり、彼の体を抱きしめる。温かいサイファの体温が、体に染みとおるようだった。鼓動が、聞こえるだろうか、まだ生きているこの体の。
「ごめんな、可愛いサイファ」
「許さない! 一緒に行く。私も連れて行って」
「無理だって、わかってるだろう?」
 死に逝くリィにとって、それは至福だった。意味など、わかっていないのかもしれない。それでもサイファは共に死ぬと言った。それで充分だった。だからこそ、不安になる。
「生きろよ、サイファ」
「嫌」
「俺が死んだ後も、ちゃんと生きろよ」
「嫌だって言ってるでしょ」
「可愛い俺のサイファ。約束しろ」
 できない、そうサイファは首を振る。そのサイファをリィは思いがけない力で仰のかせ、真正面からサイファを見つめた。
「生きてくれ。頼む」
「リィ……」
「頼むよ、サイファ。うんって言ってくれ」
「リィが、いないのに?」
「そう。俺がいなくても」
「どうして」
「そうして欲しいから。お前に生きて欲しいから」
 返事など、出来なかった。それがリィの心からの望みであるとわかるだけに拒否も出来なかった。だからサイファはかすかにうなずく。
「約束するな?」
「したくない……」
「でも、するな?」
「……する」
 ほっとしたよう、リィが目を閉じた。疲れたのだろうか。このまま、逝ってしまうのだろうか。自分を置いて、一人で。
 サイファに出来るのは、ただ彼にしがみつくことだけだった。そうすれば死が彼を奪っていかないとでも言うように。あの力強かったリィの鼓動がいまは。
「可愛い俺のサイファ。お前の行く末が心配だよ、俺は」
 細い声だった。サイファは声を荒らげるしかなかった。そんなリィの声は聞きたくない、と。
「だったら一緒にいてよ! 私を一人にしないで」
「無茶言うなよ。わかってただろ、俺が人間だってのは」
「知らない、そんなこと知らない! リィは、リィだもの」
「可愛いサイファ……」
 軽く咳き込んだだけなのに、リィの体は折れそうだった。サイファには、どうすることもできない。ただ、すがりつく。自分から彼を奪おうとする何者かが姿さえ現してくれたならば。そんな取り留めもない考えが満ちてくる。次第に乱れていく鼓動を聞いていることしか出来なかった。
 恐ろしかった。リィがいてくれさえすれば、何も怖いものなどなかった。そのリィが去っていこうとしている。そのリィを最後まで、心配させている。何もかもが怖かった。
「ひとつ、教えておくことがある」
「聞きたくない!」
「いいから、聞けって。俺の真の名はルーファス――」
 最後まで聞かず、遮った。顔を上げ、リィの瑠璃色の目を見つめる。死に逝くいまでも、その色だけは変わらなかった。
「聞きたくないって言ってるでしょ! あなたはリィだもの、私のリィだもの! 他には要らない、リィでいいの、リィに側にいて欲しいの……!」
「困った子だよ、可愛い俺の……」
 見上げたサイファの目に、リィは仄かに微笑っていた。
「リィ?」
 彼は答えなかった。サイファにも、わかった。それでも呼ばずにいられない。何度も、何度でも。喉が嗄れるまで。
 足元で、何者かが崩れる。屋敷妖精が形を失い、どこかへ去った。あるいはそれは召喚者と共に滅びた音かもしれない。
 塔の、すべての明りが消えた。常に渦巻いていた魔力がすべて、絶たれた。塔の支配者は消え、魔術師の塔はその役目を終えた。新しい支配者を迎えるその日まで、あるいは毀たれ、崩れ果てるその日まで。塔は休息を貪るだろう。
 サイファは目を向けもしなかった。ただリィを抱きしめていた。そうすれば、失われたものを取り返せるとでも言うよう。力なく垂れ下がった手を取った。大きな掌を自分の頬に当てた。何度も彼がしたように。冷たく乾いていた。
 ふと、彼の手首に目が留まる。サイファは声を上げることも出来なかった。あの、自分の髪を編んだ紐がそこにあった。震える指で触れてみる。変わらなかった。これほどの時間が経っているのというのに自分の髪は変わらない。彼がいなくなっしまったというのに。
 彼の冷たい手を掌に挟んだ。あの日から肌身離さずつけてくれた指輪。そこに封じた魔法が、どれほど彼の役に立ったのだろうか。指輪に嵌めた青い石にサイファの涙が滴り落ちる。同じ色をした目から流れる涙のようだった。
「リィ……!」
 答えない彼の体を強く抱く。胸を叩いた。痛いとも言わなかった。彼はもう、何も語らない。
「行かないでよ……」
 もう、行ってしまった。わかっているのに、願わずにはいられなかった。共に行きたかった。どこに行ってしまったのだろう。
 サイファは泣き濡れた目でリィを見つめる。まだ彼は微笑んだままだった。連れて行って欲しかった。リィの居ない場所にいるのは嫌だった。
「だから、約束させたの?」
 答えなどかえってこないとわかりつつ、問わずにいられない。死んでしまいたい。定めを持たない身では、死がどういうものなのかは理解などできない。それでもリィがいる場所ならば、追って行きたかった。
「行っちゃ、だめなの……?」
 心に答える声もない。けれどリィの声がこだまする。彼ならば、言ったはずの言葉。それにサイファは拘束され、逆らえない。リィの望みには、逆らえない。
 それでも。それでさえ。
「嫌……リィ、嫌なの……」
 天は静まり地は黙し。応えるものは何もない。まだ温かい胸に顔を埋め、聞こえない鼓動を心で聞いた。
 静かな塔の中、サイファのかすかな、細く途切れることのないむせび泣きだけが遠く響く。声を放って泣くなど、彼の終わることのない生涯の中、後に先にもただ一度きり。
 そしてまた、リィを失った痛みも決して消えなかった。彼の心に癒すことのできない深い傷をつけた者も、リィ一人だった。
 サイファのまとう淡い色のローブ、リィと同じ色のローブが次第に色濃く染まっていく。喪の色に。まるでそれは心が流した血のようでも涙のようでもあり。
 以来、彼は二度と再び白に装うことはなかった。




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