眠るのは、いつも二人一緒だった。リィはおかしくなる。人間ほど睡眠を必要としない神人の子なのに、サイファはリィの隣で毎晩眠った。腕の中、穏やかな寝息を立てる彼を見れば、満ち足りた思いと同時に身を焦がす思いにも駆られる。
「寝れねぇな」
 サイファが深い眠りの中にいることを確かめて、リィは苦笑と共に呟いた。いつになっても収まることのない炎のようなものだった。
 若い頃には思ったものだ。いずれ、彼のことを思い切ることができる日が来るかもしれない、と。懐かしい思いと共に振り返る日が来るかもしれないと。
 そのような日は訪れなかった。幸いだとも思う。反面、つらくもある。ただ、今となってはもう残り少ない時間をどう過ごすかだけを考えていた。
 いったいサイファの悲しみをどうしたら減らしてやることができるのだろうか。彼が悲しまないなどとは思ってもいない。世界の終わりのよう、彼は嘆くだろう。
「嬉しいって言ったら、お前どうすんだろうな」
 いたずらめいた問いかけ。眠るサイファが身じろいだ。慌ててリィは髪を撫で、再び眠りに戻してやる。
 サイファは泣くだろう。自分を失って、泣くだろう。それは身の内が震えるほどの歓喜だった。リィの欲しいものではない。だが、確かにそれは愛情のひとつの形ではあるのだ。
 もしも自分が永遠を生きる身であったならば。サイファが大人になったとき、隣にいるのは自分だろう。リィには確信をもってそう言える。
 眠ることのできない目を閉じて、リィは夢想に耽った。共にすごすことができたならば。子供はいつか大人になり、目を開くだろう。そこにあるものを見るだろう。そのとき彼は愛情の意味を知る。与え合い奪い合う喜びを知る。
 サイファの体など、欲しくはなかった。肌身に触れたいと思わないわけではなかったけれど、彼の心が欲しかった。子供のようにすがりつくのではなく、別の形を持って、抱き合いたかった。
「時間が」
 なかった。サイファが大人になるまで、あとどれほどかかるのだろう。いずれにせよ、人の身には叶わない時間であることは確実だった。
「可愛い俺のサイファ」
 彼が大人になったとき、彼の心を手に入れるのはどんな者なのだろうか。人間だろうか、それとも彼の同族か。
 人間であればいい。どこかでそう思う。肉体は滅びてしまう代わりに人間の魂は不滅だという。もしもそれが正しいならば、あるいは生まれ変わることも可能なのではないだろうか。
 リィはサイファには知らせず、そのような研究もしたのだ。ただ、確証は得られなかった。だからそれはリィの信仰なのだ。生まれ変われればいい。大人になったサイファにそして出会うのだ、もう一度。
「リィ?」
 淡い吐息をついてサイファが目を開けた。
「どうした」
「ううん、なんだか、変な感じがしただけ」
「変?」
「リィが、泣いてる気がしたの。変でしょ」
 リィは喉の奥で笑った。ずいぶんと鋭いことを言う、と心の中で呟きながら。
「変だな、本当に」
「でしょ」
「あぁ……。まだ早い。もう少し寝な」
 溜息まじりの声がして、サイファが返事をしたのだと知れる。まだ眠ったままだったのだろう。まどろみの中でさえ、彼は自分の心を知る。真実など、明かす気はない心の内を。
「おやすみ、サイファ」
 出逢った頃より伸びた髪を手で梳きながら、リィもまた目を閉じる。後どれほど、この感触を確かめることができるのだろうと考えながら。

 サイファが泉で遊んでいた。手を浸し、また何かを作っているのだろうとリィは視界の端で眺めていた。側に行くと怒るのだ、彼は。完成したものを見せて驚かせたい、そう言って。
 昔の自分のようだとリィは苦笑するしかない。いつもサイファを喜ばせたかった。いまも変わらない。ただ、いまはサイファが自分を驚かせることのほうが多くなった、それだけだった。
 リィはざらつく木肌に寄りかかり、本を開く。膝の上で開いた本はちょうどよく見えた。若い頃だったら、それでは反って見えなかっただろうと思う。サイファは気づいているのだろうか。リィの視力はずいぶん落ちた。年齢を重ねるにつれ、目も遠くなった。もしも生まれ持った目だけで見ていたならば、ほとんど物は見えなくなっていただろう。半ば以上、魔法で補っていた。
「気づいてないわけねぇな」
 ぽつり、苦く笑って言ってみた。サイファは聞こえているはずなのに振り返りもしない。だからやはりサイファは知っているのだ。普通の人間よりは遥かにゆっくり年を取ってきた。ずっと側で見ていたサイファはどう感じているのだろう。リィにはわからなかった。
「見て、リィ」
 魔法に夢中だったふりをして、サイファがなにも知らない顔をして振り向いていた。
「なんだ?」
「ほら」
「お……」
 知らず声を上げていた。泉の中、映し出されているのはいまの大陸。サイファが作り上げた幻想ではなかった。
「面白いことが出来ると思うの」
「どんな?」
「……ん、リィ」
 促しに従って、リィは精神を開く。穏やかな接触を引き込んでサイファの心を感じた。改めて驚愕を覚える。神人の子の精神は、人間のそれより強靭だ。それは知っている。だが、サイファのそれは以前よりもさらに強くなっていた。魔術師として、どこまで伸びるのだろうか。楽しみで仕方なかった。そして思うのは先行く彼の姿を見届けられないこと。一瞬、精神に築いた障壁が壊れそうになった。はっと心を引き締めてリィは正しい接触に戻る。
「お前……」
 そして更なる驚愕にさらされる羽目になった。サイファはいまだかつてリィが考えもしなかったことを提案していた。試してみる価値はある。そう思ったことをリィは喜んだ。まだ魔術師の好奇心を失ってはいないと。
「精神で旅をする、か……」
 思いついたこともなかった。あるいはそれはこの隔絶された魔法空間にいるからこそ、考えついたことなのかもしれない。ただ、それでも考えたのはサイファであってリィではない。やはり、悔しい。そう思うのは、彼を一人の魔術師として認めるからこそであった。
「うん、そう。そうだね、そう言ったらいいんだと思うの」
「珍しいな」
「なにが?」
「お前が言葉を見つけられないなんてな」
「なんて言ったらいいんだろう……私とあなたではね、精神と言う言葉の指す物が少し違うんだと思う」
「そうか?」
「うん、たぶんね」
「まぁなぁ……神人の子らの精神は強靭だもんなぁ」
 リィはあえて違う場所を指摘した。サイファがそれで納得すればいい、と。だが、彼ももうそのような手段で誤魔化されるほど幼くはなかった。わずかばかり苦笑してリィを見上げる目にあるのは、悲しみだろうか。
「私は定められた命を持たないから――」
 続けようとしたサイファをリィは抱きしめる。何も言わせたくなかった。まだ、知らなくていい。彼がその目で死を見ることはない。
「苦しいよ、リィ」
 体のではない苦しげな声に息が詰まるのはリィのほうだった。そっと腕を緩めて目を見つめた。サイファの青い目の中、苦笑する影。互いに同じものが映っているのだろう。
「おかしいね」
「そうだな」
「ねぇ、リィ」
 ゆっくりとサイファは目を閉じる。余計なものなど見たくない、と言わんばかりに。温かいリィの腕に抱かれ、ゆったりとした鼓動を聞く。それで不安など何もなくなってしまう。
「なんだ?」
「どこにでも、行かれるよ。どこに行きたい?」
「お前は見たくないんだろう?」
「美しいものは、みんななくなっちゃったもの」
「だったら……」
「いいの。リィと旅をしてみたい。怖いから、ここでね」
 言ってサイファは軽く笑った。リィもまた、つられて笑う。悪くない提案だった。
「そういうの、旅って言うか?」
「いいじゃない」
「どこがだよ」
「私とあなたと二人共が旅だと思ってれば、それでいいじゃない。だめなの?」
「いいけどな。別に」
「なに、その言い方!」
 わざとらしくサイファは怒って見せ、いたずらにリィの背中を叩いてみせる。それにリィも応じるのだ、大袈裟に痛がったふりをして。
 そして二人笑い合う。どちらが手を出したのが先だろう。気づいたときには二人して泉の中だった。ローブも何も水浸しで互いを追い掛け回していた。
「ちょっと、待て。サイファ!」
 さすがに以前のようには行かない。すぐに息が切れてしまう。魔法で多少は取り繕っているものの、根本的な体力は落ちている。
「リィ、疲れちゃった?」
 口許を緩めてサイファが問いかける。それから小首を傾げて心配そうな顔をして寄ってくるのもいつものとおりだった。
「リィ!」
 そして抗議の声が上がるのも。リィは整えた息でもって水に潜り、サイファの腰を捉えては引きずり込む。何度となくかかっている罠なのに、サイファは一向に慣れると言うことを知らず今度もまた、慌てて水面へと水をかいた。
「お前ってほんと……」
「なにが言いたいの!」
「……素直だな、と思ってな」
「嘘」
「ほんとほんと」
「ねぇ、リィ。それ、褒めてないよね?」
「気のせいだな」
 唇を歪めて言うリィにサイファは今度こそと飛び掛り、結局は腕の中に抱きしめられて笑い声を上げるのだった。




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