それはどこでもあり、どこでもない地だった。魔法によって作られた空間。それが二人の暮らす場所だった。 いまは消え去ってしまったミルテシアの甘い森を思わせる木々、ふつふつと湧き出す泉。終の棲家にしては上等、そんなことをリィは思う。そうであれかしと願いつつ。 「リィ」 昔、森に住んだよう、小屋を建てることはしなかった。二人の魔術師が暮らすのだ。しかも魔法空間である。天候も気温も思いのままだった。身を守るための住居は必要としない。 「いま行く」 懐かしい思いに駆られてリィはサイファの手元を見やった。もうどれほど昔になるのだろうか、あれほど下手だったパンを上手に焼くようになった。そう言えばきっと怒るのだろうと思えばそれもまたおかしい。だいぶ以前から上手になっているのだから。 「果物、搾ったけどいる?」 「あぁ。もらう」 「チーズは」 「いる」 「ほんとよく食べるね」 「人間だからな」 言えばサイファが笑った。それも昔から繰り返してきた会話。今となっては人間、と聞くだけでも嫌悪感を持っても仕方ない、そうリィは思うのだけれど、サイファはそうはならなかった。 あるいは、自分が死んだ後。サイファは人間を嫌うようになるかもしれない。どこかでそんな気がする。いまのまま人間の世が進んでいけば、神人の子はさらに住み難くなるだろう。 そのとき彼はどうしているのだろうか。側にいることのできない自分を何度呪っただろう。彼と共に迫害される身でありたかった。願えども、願えども。 「リィ?」 「なんだ?」 「なんだ、はあなたでしょ」 「なにが」 「変だもの」 「どこがだよ」 「ねぇ、リィ。気づいてる?」 「だから、なにが」 「あなた、いま蜂蜜飲んでたけど」 「……う」 「ほら、気がついてないじゃない」 「水くれ、水」 「好きで飲んでたんじゃないの?」 「いいから水!」 明るく笑うサイファを視界の端にリィは口許を押さえる。非常に気色が悪かった。口中がねとりとしている。物思いに耽るにも時と場を考えたほうがいいようだ。 だが、とリィは暗澹たる思いに囚われた。以前だったならば。若い頃であったならば。こんなことはなかったはすだ。思考の中にいたとしても、自分が何をしているかくらいはわきまえていた。集中力が欠けてきている。魔術師として、認めたくはない事実だった。 「はい」 「ん」 「ねぇ、リィ」 「待てよ」 「嫌」 「待てってば」 子供のようにサイファが腕にすがりつく。おかげでうまく水が飲めなかった。彼の動きを半ば封じるよう、胸の中に抱え込めば上がる笑い声。ゆっくりと水で口の中をすすいだ。 「なんだ?」 「別に」 「あのなぁ」 「なに?」 「……別に」 「リィってば!」 「なんだよ」 「変なリィ」 「どっちがだよ!」 サイファの笑い声につられてリィも笑い出す。どうやらサイファはただ腕の中にいたいだけらしい。なにか不安になるといつもこうして側に来た。だからリィはゆるりとまわしていた腕に力を入れる。 「リィ?」 「うん?」 「なんでもないの」 「そうか」 「うん」 他愛ない、会話とも言えない会話。お互いがそれにどれほど慰められているだろう。誰もいない、どこでもない場所。二人きりで隠れ住むのは心安らぐ。そして同じくらい、不安だった。 いずれ、出て行かねばならないことくらいサイファにもわかっている。リィをこうして拘束するのは正しいことではない、と。彼には彼の夢があり、自分ひとりにかまけさせてはいけないと思うのだ。 思いながらもサイファはいまだけ、と目を閉じる。あの日、塔を離れたのは正しいことだったのだろうか。リィが送り出してくれたからと言って、出て行ってしまってよかったのだろうか。 こんな日が来るとは思ってもいなかった。リィはずっと塔にいて、自分の帰りを待っていてくれると思っていたのだ。確かに塔にはいてくれた。そして自分のせいで塔を失った。 「サイファ?」 呼び声に黙ってサイファは首を振る。居心地のいい魔法空間。リィは感じているだろうか。リィと自分と。二人の魔法の色がある。人間である彼とは 違う見え方をしているのかもしれない。彼には世界の歌が聞こえないように。サイファには、きらめく見えている。この上もなく美しい至福の光景だった。 「可愛い俺のサイファ」 ゆっくりと髪を撫でるリィの大きな手。大きさこそ変わらないけれど、やはり少し肉が落ちた。哀しいような安らぎだった。 サイファはリィの誤魔化しを見抜いていた。ほんの少しだけ、リィは自身に魔法をかけている。見苦しくないように、と言うのだろう。体の衰えを隠すよう、魔法をかけている。 サイファの目を持ってすれば、暴くことなど容易かった。だがサイファはそうしていない。リィが自分に見せたいと思うものだけを受け入れている。彼の願いならば、何であれ叶えたかった。 「なぁ、旅に出ようか」 「え?」 「旅。どこか行こうか」 「だって」 「危ないだろうけどな。俺とお前と揃ってりゃ、それほど覚悟しなくても大丈夫だろうよ」 「……リィ」 「怖いか」 「うん」 「場所が? 人間が?」 「人間が怖い」 「俺がいるよ」 「……あのね、リィ。私ね、本当に人間が嫌いになりそうで怖いの。あなたがいれば危険はないってわかってる。でも、人間の愚かな振る舞いをこれ以上見たら、きっと嫌いになる」 「嫌いにならないようなもんを見に行こう」 それは軽蔑する、のほうが正しいのだろうとリィは思う。いまだ幼いサイファは嫌いだと言う他に表現の方法を持たないだけだ。 「あるかな」 「そうだといいな」 「あなたにもわからない?」 「もちろん」 「嫌なものばかりだったら……どうしよう」 「そうだな。そうしたら、綺麗な景色でも見に行くか」 「リィってば……!」 「なんだよ」 「別に」 不意にサイファは笑い出す。リィがいてくれれば怖いものなど何もなかった。彼がいてくれれば、大陸に住むすべての人間が愚かであっても、人間を嫌うことはないだろうと確信を持って言える。 「なにが見たい、可愛いサイファ」 「あなたは?」 「お前が行きたい所に行きたいな」 「変なリィ!」 「いいから言えよ」 目を閉じ、リィの腕の中サイファは大陸を思い浮かべる。何度も経巡った世界だった。 「どこがいい?」 早急な促しにサイファは笑い、リィの背を叩く。彼が笑い声を上げたのにわざとそうしていたのだと知った。 「どこがいいかな……」 サイファの瞼には様々な景色が浮かんでいた。ラクルーサの小川や、ミルテシアの木々。シャルマークの青い草原も素晴らしかった。 「……もう、ないよ」 ぽつり、漏らしたサイファの言葉にリィは彼を抱きしめる。 「サイファ」 「もう、ないもの」 「なにを見たかった?」 あまりに切ない声だった。変わらない神人の子。変わってしまった世界。サイファは何を望み、そして何を果たせないのだろう。 「たくさん」 「どんな?」 「あなた、ラクルーサの小川がどれほど冷たかったか、知ってる?」 「いいや」 「シャルマークの草原の広さは?」 「いいや」 知っていた。サイファと出会う以前、大陸中を巡り歩いたのだから。ある日、ミルテシアの森の中で出会ったものが最も美しかった。変わってしまった世界の中、それだけは変わらず今もここにある。 「あなたに見せかった。綺麗だったの、でももうないんだもの」 「話してくれよ、可愛いサイファ」 「でも」 「お前が話してくれればそれでいい」 「そんなんじゃ……」 「なぁ、可愛いサイファ。練習しようか」 懐かしい物言いに、沈んでいたサイファが顔を上げれば仄かに笑みを浮かべたリィがそこにいる。つられるよう、サイファも口許を緩めて彼を見つめた。 「どんな?」 「お楽しみ。おいで」 離された体が頼りなくて嫌だったけれど、それよりもまだ何かを教えてもらえる期待のほうが大きかった。サイファは嬉々としてリィのあとを追う。泉のほとりで彼は待っていた。 サイファがきたのを確認し、リィは詠唱を始める。抑揚を伴った声をサイファは全身で聞き取っていた。そして泉の上に浮かび上がった物。 「あ……」 それは遥か昔のあの森の小屋だった。塔の中に転移させ、森の情景を再現された景色ではない。確かに二人で住み暮らした森だった。 「覚えたか?」 「……たぶん」 「やってごらん」 まずは慣れた物から。そして徐々にリィの知らない土地へと。サイファは夢中になって習得に励んだ。再現した景色を動かすことができるようになるまで、さほど時間はかからなかった。 |