失くした時間を惜しむよう、サイファはリィの腕にすがりつく。ケイトの計画でリィは塔を去らざるを得なくなった。それは自分のせいだともわずかには思う。 「可愛いサイファ?」 けれどリィは何事もなかったとばかりに、微笑みかけてくる。一瞬、体が震えた。 「リィのせいだもの」 だから口から出てくるのは、そんな憎まれ口。子供のように拗ねて我が儘を言う。 「なにがだよ、急に」 「あなたが節操なしだからいけないの」 「おい、サイファ」 呆れ声にサイファは笑う。優しく頬に手が添えられた。リィの、大きくて乾いた手。温かくて心地良かった。見上げれば、そっと頬を撫でられた。それで知った。自分の顔がずいぶん強張っていたことを。 「お前のせいじゃねぇよ」 胸の中、抱きしめられた。サイファは何も言うことができず、ただ首を振るだけ。 「だって」 かろうじて出たのは、そんな取り留めもない反論でしかない。 「お前の言うとおりだな」 「なにが」 「節操なしだからな」 「リィ」 「あそこまで嫉妬深いとはなぁ。困ったもんだ」 「リィ」 「だから、俺自身のせいであって、お前のせいじゃない」 「……そんなこと、ないもの」 「どこが?」 「だって、私が塔に行かなければケイトに会うことだってなかったもの」 「馬鹿言うなよ」 「どこが」 「お前は襲われた。塔に来なきゃどうなってた?」 「死んでたんじゃない?」 「簡単に言うなよな。――あのな、サイファ。お前が死んだりしたら俺は本気で人間どもを殺してまわるって言っただろ。大陸から滅ぼし終わったら……」 「なに」 「最後の人間を殺す」 「リィ!」 半ば悲鳴めいた声を上げ、サイファは彼を見上げた。薄く、微笑っている。サイファの好きな顔ではなかった。リィにこんな顔をさせたくなかった。サイファは腕の中でもがき、それから両腕をリィの首に絡めた。 「リィ」 「うん?」 「私、生きてるよ」 「そうだな」 「だから、元気出して」 リィが笑ったのがわかる。次第にそれは抑えがたくなったのか、声が上がり始め、ついには大きく晴れやか笑い声になった。 「もう、リィ!」 何度も背を叩かれた。謝罪のようでもあり、ただの笑い衝動のようでもある。それでもサイファはよかった。リィが明るく笑ってくれたのだから。 「すまん」 ようやくにリィはそう言い、改めてサイファを抱きしめる。子供のような慰めの言葉。それしか方法を知らないのだ、サイファは。リィは密やかに笑みを漏らし、幼いやり方であっても自分を案じてくれる神人の子のぬくもりを味わった。 「さて、と」 「なに」 「そう警戒すんなって」 不服そうなサイファの体を放し、リィは辺りを見回す。森が衰えていた。馥郁たる香りを放っていたミルテシアの森は、至高王の去りしいま徐々に姿を消し始めている。いずれ、そう世代を経ずして木々は枯れるのだろう。そのあと、この国はどうなるのだろうか。リィはそっと首を振る。それまで生きているとは、思えなかった。 「どうしたの?」 「いや、少し移動したほうが良さそうだなと思っただけだ」 「ふうん?」 何かを言いたそうなサイファに言葉を促すことはせず、リィは歩き始める。サイファはすぐに走り寄り、彼の腕を取った。 リィは笑って彼のしたいようにさせていた。それはまた、自身の望むことでもあったから。枯れ衰えていく森の中、二人の魔術師が足を進めていく。危険であった。だが、何の心配もなかった。サイファはリィがいることに安心しきっていた。リィはサイファの能力を信じていた。どちらもが、真実だった。 「あそこがいいな」 リィが自由な片手を上げて指差したのは巨岩の裂け目だった。どこから来たものか、森の中にひとつだけぽつりと岩が聳えている。 「どうするの?」 「まぁ、見てろって」 にんまり笑い、リィは答えないまま岩に向かい合う。彼の後姿を眺めながらサイファは笑みを浮かべた。もう、元のリィに戻っていた。 彼が自分のせいだと言うならば、それも正しいのだろうとサイファは思う。けれどやはり自分自身の責任だと、少なくとも一端だとは思う。だからおそらくそれは二人の責任なのだ。こうなる定めだったのだと思えばどこか嬉しい。定まった命の時間を持たない身が、定められた何かに出会えるのは、心躍ることだった。 自身の心の中に入り込んでいたサイファははっとして顔を上げた。リィが呪文の詠唱を始めている。長い、複雑な呪文。聞き覚えがあった。そしてあの時は。だからサイファは静かにリィに同調した。彼は喜ばないかもしれない。けれど力になりたかった。 備えていたにもかかわらず圧倒的な力の本流に、サイファでさえ目が眩みそうになる。リィはかろうじて立っていた。近づいて腕を取る。情けなさそうな顔をして笑った。 「まったく、お前ってやつは」 「邪魔だった?」 「お師匠様の好きにさせろよな」 「こんな所で倒れたら、困るでしょ」 「倒れる? 誰が!」 「あなたが。他にいる?」 「お前ねぇ」 「前にも倒れたでしょ。あの時のあなたはもっと若かったもの」 「効率のいい方法ぐらいは、身につけてるんだがな」 「その分、年取ったじゃない」 「俺はまだそれほど年寄りじゃねぇよ!」 わざとらしい抗議にサイファは耳も貸さない。そんな態度がだんだんリィに似てきたと思えばおかしくなる。ずいぶん長い時間を共に過ごした。口調も口癖も、態度も何もかも、サイファはリィに似てきたと思う。嬉しいことだった。 「なんだよ?」 「なにが?」 「笑ってるぞ、口が」 「あなたの気のせいじゃない?」 「可愛い俺のサイファ。いつからそんな憎まれ口を叩くようになった?」 「私ね、思うの」 「なにを」 「だんだんあなたに似てきたなぁって。だから憎まれ口って言うなら、あなたがそうなんだと思うの」 「お前なぁ……」 リィは絶句し、楽しげに笑うサイファを軽く拳で打つ真似事をした。逃れもせず打たれるサイファにリィも笑う。 後どれほどの時間、サイファと共に過ごすことができるのだろうか。強いてそれを考えまいとしても脳裏にちらつくのを抑えることができなかった。 サイファは気づいているのだろうか。リィはそれを否定する。確かに自分の衰えは感じ取っている。けれどそれが死とは結びついていない。 塔に移り住んだ日、リィは彼のためにあの小屋を転移させた。小屋の周囲に住み暮らした景色を擬似再生させ、そして魔法空間でそれを維持した。当時のリィにとってもそれは負担だった。しばらくは体を支えられないほどの疲労を覚えたものだ。だから、サイファは黙ってそっと同調してきた。 彼にとっては、リィの衰えとはその程度のものなのだ。少し力を貸せば済む程度のこと。老化は体力の衰え程にしか、思っていないのかもしれない。まさかリィが自分を残してどこかにいなくなる、死ぬとは思ってもみない。だから似てきたと無邪気に笑う。 「さ、入ってみるか」 リィはもう何も考えなかった。今があればそれでいい。自分に残された時間がどれほどあるのかなど、考えても仕方のない身だった。取り残されたサイファの悲しみを思えば胸がきりきりと痛む。それは甘い痛みだった。 触れてきた温かい腕を取り、リィは岩の裂け目に手を入れる。きちんと魔法は働いていた。満足げにうなずきリィはするりと体を滑り込ませた。 単なる岩の裂け目だった。とても人ひとりが体を隠せるとは思えない。あるいはごく幼い子供であったならば、体の半分ほどは隠せただろうか。だがリィは大人の、それも戦士と見紛うほどの男だった。 驚くべきことに、サイファもすぐ彼に続く。もしも目にしたものがいたならば、魔族の類として恐怖したことだろう。二人は岩の裂け目に消え去った。 「あ、綺麗」 不意にサイファが声を上げた。リィが満足げに見下ろせば、サイファもまた良く似た表情をして彼を見上げる。顔を見合わせては笑った。 「気に入ったか?」 「すごく」 「そりゃ、よかった」 淡々と言うのにサイファが笑い声を上げた。リィがわずかながら緊張しているのを知っていたから。自分がどう思うか、どんな反応をするか、リィは気になって仕方なかったのだろう。 「私、ここが好き」 魔法によって作られた空間だった。至高王が大陸全土をしろしめしていた頃のミルテシアの森のようだった。 長い草の葉が光り、あるいは翳る。それは頭上の木々がもたらす木漏れ日だった。木立の向こうには小さな泉。すくって飲めば甘かった。 「可愛いサイファ」 泉に手を浸して喜んでいるサイファを背後からリィは抱きしめる。 「お師匠様は?」 長い黒髪に頬を寄せた。出逢った頃と変わらない、重くて柔らかい髪が快い。 「大好き」 「いい子だね、サイファ」 「なに、それは?」 「別に? ほら、もう一仕事残ってんぞ」 「なに?」 「入り口。お前が封印してくれ」 「ふうん。いいけど。リィはお疲れ?」 「馬鹿。お前にやらせてやろうって俺の親心がわからんか」 笑いながら駆けていく神人の子の背中を見ていた。なぜだろうか、胸の痛みが激しくなったのは。訝しんでリィは泉に手を入れる、サイファがしていたように。冷たかった。 |