一瞬の事だった。リィに掴み上げられたケイトの体が硬直する。サイファは驚き、声を上げかけたがとどまった。 リィはケイトの精神の奥深くにまで入り込んでいた。群集を見て顔色を変えたケイト。そこに何があるのか探り出そうとした。だが、接触した途端、配慮はすべて失われた。 ケイトが、扇動者だったとは。サイファを害そうとする者だったとは。怒りは自身にも向けられ、それがケイトに跳ね返る。 わかっていた。ケイトはサリムではない。サリムは、黙って自分の元を去った。時代が違う。種族が違う。ケイトは自らの欲望を抑えられなかった。 それもこれもすべて、自分のせいだと思えば忸怩たる物がある。けれど許せなかった。弟子としては、目をかけていたのだ。そのケイトが偏狭な種族主義に囚われサイファを排除しようとした。いや、違うのだろう。種族主義にすり替えてまで、サイファを排し自分の元にいたがったのかとも思う。 憐れんだ。そのような思いに応えたいとは決して思わない。それは愛情などではない、そうリィは思う。身勝手で我が儘な自己愛だ。 精神の指先で乱暴にケイトの心を探りまわす。悲鳴が上がり続けている。無論、耳に聞こえる声ではない。それだけにいっそう生々しい心の悲鳴だった。 リィは事の全貌を把握し、そしてようやくケイトを解放した。ケイトが床に倒れこむのを無表情にリィは見ていた。 「リィ」 言いつつサイファは、けれどケイトを確かめた。そしてほっと息をつく。 「死んじゃいねぇよ」 ぼそりと背後で聞こえる声はとてもリィのものとも思えない重いもの。やはり声を上げなくて良かった、サイファは内心で安堵する。 あのとき声を上げてしまっていたならば、どうなっていただろうか。間違いないことはただひとつ。ケイトの精神は破壊されていただろう。あるいは生命の危機さえあっただろう。 「起きろ」 サイファの顔色が変わった。リィが、ケイトを蹴り起こしていた。床の上、咳き込んでケイトが呻きを上げる。顔を上げたその目に宿る憎悪。 「リィ師」 「師と呼ばれる筋合いはなくなったものと思え」 「自分より……同族よりその半エルフを選ばれるのですか!」 再び呻き声。リィは無言でケイトの腹を蹴りつけた。サイファがリィの腕を取るよりそれは速かった。止めても、遅い。 「立て」 言っても従えないことをリィは知っているかのよう、短い言葉を詠唱し、無理やりケイトを立たせる。 「リィ」 不安になる。いったいリィは何をしようと言うのか。サイファはリィの腕を掴んだ手に力を入れる。 「可愛いサイファ」 少しだけ、リィが微笑った。ケイトの精神を破壊しかけた彼と同じ人物だとは、思えない。それほど柔らかい接触だった。すばやい精神の交感でサイファはリィの計画を知る。 「一緒に行くから」 「サイファ?」 「あなたと、一緒に行く」 「危ねぇだろ」 「嫌」 「サイファ……あのな……」 「絶対、嫌。一緒に行く」 リィを一人で旅立たせるなど、嫌だった。確かにこの塔に篭っていれば、安全だろう。リィが旅立てば群衆も散るだろう。彼らは「人間の裏切り者」を排除するためにこそ、集まっているのだから。 ケイトはその彼に従うつもりだったのだろう。憐憫を覚え、視線を送れば返ってくるのは激しい憎悪。サイファはリィを信じていた。どのような関係を結ぼうとも、彼と自分の間には何者も入り込むことはできないと。 「サイファ」 「嫌なの。あなたと一緒に行く」 いままで怒りに冷たい炎を燃やしていた男だろうか、これが。ケイトはまだ朦朧とする心の奥からリィを見ていた。困り顔で、顎の無精ひげをさすっている。こんな顔は、見たことがなかった。 「危ないのはわかってる。それでも嫌。あなたといたいからって、前にも言わなかった?」 「また古い話を」 「茶化さないで」 「真面目だよ、俺は」 「だったら」 「わかった、わかったから怒鳴るな」 「怒鳴ってないもの」 「可愛い俺のサイファ」 ついにリィは笑い声を上げた。サイファと離れ難いのはリィのほうだった。ただ、彼の安全を考えてそうするしかないと決めていた。だが、サイファも魔術師だった。自分以上の能力と天賦を持った。 「なに」 不機嫌な声音でサイファは応じ、リィを見上げる。笑っている場合ではないはずだ。階下では、まだ途切れ途切れではあるけれど爆音が聞こえている。 「負けた」 「なにが」 「一緒に行こうな」 サイファが微笑う。仄かで、歓びを露にしたものではない。リィにはそれで充分だった。今後、自分の名は恐怖の代名詞となることだろう。自らの種族を裏切った者と呼ばれるだろう。それでもよかった。塔も名声も捨て、リィはサイファを選んだ。 「行こうか」 返事もせず、サイファはリィの後ろに従った。ケイトが魔法に支配されたまま二人の後を半ば引きずられるよう、ついていく。 「まったく、無茶するよ」 同族である人間のやり口にリィは口を歪める。扉は傷ひとつついていない。魔術師の塔など、そういうものだ。 入るためには塔の持ち主の許可がいる。ない場合に取る手段は一つ。扉にかけられた魔法を破ること。現時点において、この魔法を破ることができるのはサイファ以外にいないだろう、とリィは皮肉に思う。彼だけは、無条件にリィの塔に入ることができるのだから。 二人そろって扉を抜けた。群集は扉が開くと同時に塔を遠巻きに取り囲む。怪我人だけが扉の側に取り残され、二人の魔術師を恐怖の目で見やった。 「警告は、した」 リィの低い声。けれど最も後ろに位置した人間にも聞こえただろう。リィの目は遠くの男を見据えている。あの、娘の呪いを解いて欲しいと願った男だった。 「止めようと……止めようとした!」 「ほう」 「でもみんな、あんたさんは裏切りもんだって……人間を殺すって、半エルフを……」 「どうでもいいな、もう」 途端、男が大地に倒れた。群衆が沸きあがり、そして静寂。リィはなにもしていなかった。男はただ自らの恐怖に倒れただけ。薄く笑った。 「リィ」 小さな声がリィを呼ぶ。それが彼を正気づかせた。サイファに、殺戮を見せたくない。この手を同族の血に染めさせない、と言った彼の目の前で血に酔うわけには行かない。 ひとつうなずきリィは振り返ることなく詠唱を始めた。サイファも同調し、魔法を放つ。塔は完全に封印された。 「扇動者に乗せられた愚か者ども……何を思って何を計画していたかは本人に聞くがいい」 リィはケイトを繋いだ魔法の綱を強く引き、そして突然魔法を解いた。反動でケイトはよろめき、塔の前に倒れ込む。群集は、近寄りもしない。幾らかはばつの悪そうな顔をしている者もいた。彼らは知っているのかもしれない。ケイトが私利私欲のために計画したことを。 「サイファ、先に跳べ」 「あなたは」 「追いかける」 「ふうん?」 はっきりと言葉にせず疑問を呈したのは、人間の前だからだろうか。人間たちの間における評判を落とすまいと。リィはかすかに笑って言った。 「お前の跡なら、追えるさ」 そして袖口を捲り上げた。ちらりと見えたものにサイファは悲鳴を上げそうになるのをぐっとこらえ、何事もなかった顔をし詠唱に入った。 「外すって、言ったじゃない!」 姿がかき消える寸前、サイファは精神を繋げてリィに苦情を申し立てた。彼の腕にあったのはあの髪紐だった。 「捨てるとは言ってないがな」 すでに見えないサイファにリィはわずかにうつむき笑った。群集が何かを言いかけるのを待たず、リィも転移呪文の詠唱に入る。戸惑う人間たちの輪から、リィの姿はなくなった。 サイファの跡を追うなど、簡単だった。とは言え、髪紐がなかったならばいささか危なかったかもしれない。 それほど距離が出ていた。リィは感嘆を隠さなかった。立派な魔術師になったものだと思う。一人で充分やって行かれると思う。 「安心だな」 呟き、そして違うことを彼自身は知っていた。死は、すぐそこまで来ている。サイファは一人で生きて行かれるだろう。いつか誰かと生を共にするかもしれない。けれど、リィを失った事実からは生涯逃れられないだろう。 そして神人の子であるサイファにとって、生涯とは永遠と同義であった。 「可愛い俺のサイファ……」 それが嬉しくないと言えば嘘になる。自分の死から、立ち直って欲しいと思うのと同じほどに強い思い。サイファの心に刻み付けられた自分はあまりにも強すぎた。そうしてしまったのは、リィだった。 「手放すべきだったかな」 考える事さえ拒否したことをもてあそんでリィは笑う。そうできるくらいだったなら、これほど苦しみはしなかったものを。そしてこれがリィの選んだ道だった。 「遅いよ、リィ」 独り言を聞かれたか、リィは青ざめ振り返る。サイファは変わらず微笑んで立っていた。 「どうしたの?」 「急に声かけられて驚いたんだ」 「ふうん、変なリィ」 「年寄りだぞ、俺は」 「そう? あまり変わらないけど」 サイファはリィに近づきそっと髪に手を触れる。少しだけ嘘をついた。初めて逢った頃から比べればずいぶん髪は白くなった。銀髪で、目立たないだけ。 「なに笑ってんだよ」 「別に?」 「嘘つけ」 「知らないもの! ほら、また無精ひげ」 懐かしいサイファの仕種。嫌だ嫌だと言いながら、手では触りたがるから、リィはつい無精をしてしまう。無精と言いつつ、サイファが触れてくるのを楽しみにしてしまう。 「早く剃って」 「ここじゃ無理だって」 二人、顔を見合わせて笑った。遥か昔にかわしたのと同じ会話。懐かしさに駆られ、どちらからともなく笑い声が上がり始めた。 |