ケイトの目には一瞬、娘の体が光ったように見えた。二親には、何も見えなかった。ただ、我が子の呼吸が楽になったことだけは感じたのだろう、母親が娘の元へと駆け寄る。
「あんた!」
 振り返って夫を呼んだ。その声にあるのは紛れもない歓喜。信じがたいものを見る目で男は娘の側に行き、そっと体に手を置いた。身じろいで、目を開くのを二親が泣きながら見守るのにサイファはほっと息をつく。
「お母さん?」
 たどたどしい声だった。子供は腕を上げ、母親にすがろうとする。その腕から痣のような腕輪は消え去っていた。
「呪われてたな」
 サイファははっとリィに目を移す。彼の手に腕輪はあった。すでにぼろぼろと崩れ始めている。
「魔物の、物かな」
「だろうな」
 小声でかわす会話が聞こえたのだろう、女がきっとサイファを睨んだ。
「あんたたちのせいだ。神人の子なんて言ってたくせに、人間を守ることもできやしない。父親からも捨てられた……化け物じゃないか」
「よせ、お前」
「やめないわよ! こいつらが、神人に願ってくれればよかったんじゃない。そうしたらあたしたちは平和に暮らせたのよ。馬鹿みたい、あんなのに頼ってたなんて、いざって時に役に立たないなんて。あいつらなんか神の一族じゃないわ、エルフよエルフ。妖精なんて、怪物と一緒よ!」
 サイファは言葉もなかった。ただ、何を言っていいかわからなかった。人間が自分たちを嫌うのは身を持って知った。だが、その理由まではよくわからなかった。これが、人間の本音と言うものか。
 馬鹿馬鹿しかった。好きで神人の子として生まれてきたわけではない。父と呼ぶべき神人が誰なのかも知らない。その自分が、誰に何を願えと言うのか。あまりの身勝手が、いっそ馬鹿馬鹿しい。この人間は、自分が人間として生を受けたかったなど知りもしない。リィと共に生き、死にたいなど知りもしない。
 答えないサイファを彼女はどう見たのだろうか。傲慢だ、と見た。掴みかかろうと踏み出した足は、けれどその場で動かなくなった。
「ひっ……」
 魔力をもって自らの体の自由を奪われるなど、普通に暮らしていて経験することではない。女は恐怖に強張った顔のまま逃れようと身悶えた。
「サイファ、もういい。疲れただろう?」
「大丈夫。でも行くね」
「その方がいいな」
 苦笑して言うリィにサイファもまた苦笑で応える。サイファには、リィがこの人間の女以上に怒り狂っているのがよくわかる。滅多なことで他者に危害を加えないリィが、束縛しただけとは言え、魔法を行使した。
 彼の腕にそっと腕をかける。瑠璃色の目を覗き込み、気にしていないと伝えれば、リィはうっすら笑って目を閉じた。溜息ひとつでサイファは階段を上がっていく。リィを止められはしなかった。また積極的に止めたいとも思っていなかった。
「……ありがとうございました」
 終始、女に押されていた男がやっと口を開いた。それはサイファがいなくなったせいだろう、とリィは見る。彼の目には冷たい光があった。決してサイファには見せない色合いのそれは、背後に控える、見えないはずのケイトまでをも凍りつかせる。
「あんたの旦那は、彼を殺そうとした」
 静かな口調に、わずかの間女はリィが何を言っているのか理解できなかったのだろう。そして呆然と夫を見た。
「彼は、お前の顔を見て気づいたはずだ」
 同じ口調を保ったまま、リィは男に言う。黙って頭を垂れる夫の腕を女は掴んだ。
「彼は知っていて、娘を助けることを選んだ」
 短い悲鳴が漏れたのは、どちらの唇からだろう。リィは何もしていなかった。女にかけた魔法もすでに解いている。それなのに二人は動けない。
「娘には、何の罪もないことを知っていた。親ゆえに、見殺しにすることを彼はしなかった」
 いつの間にへたり込んだのだろう。夫婦は床の上、ぺたりと座り込み、そのままでリィが踏み出す一歩を這いずり下がってよけている。
「どちらがまともな生き物だろうか。血塗れのあれを見たとき、人間など滅べばいいと、思った」
 今度こそ甲高い悲鳴が上がった。女がまだ朦朧とする娘を咄嗟に抱きかかえ、扉へと駈けていく。男は振り返り、それからリィを見た。
「あんたさんのお弟子と知っていたら……あんなことは……」
「弟子でなかったら? 見かけた神人の子らを全滅させれば気が済むのか? 軽蔑に値する。さっさと出て行け」
「もう二度と……」
「やってみるがいい。彼に危害を加える、すなわちこのリィ・ウォーロックに敵対することだと、知るがいい」
 無造作に、手を振った。魔法を行使したわけではなかった。それなのに男は弾かれたよう扉を向き駆けていく。リィはそんな人間を嘲笑う。
 そしてサイファの恐怖を思った。あのとき自分を頼れなかったわけがようやくわかった。これほどの嫌悪を人間は神人の子らに抱くようになってしまっていたのか。
 魔術師の日々は塔の中で過ぎていく。同じ人間であっても、同族より寿命も長い魔術師は考え方も変わってきてしまうものなのだろう。広く知識を求める彼らは当たり前の生活を送る同族の偏狭さをあまり持たないものだった。そして同族の、変化の激しさを知ることもまた、少ないものだった。
 だから、リィは知らなかった。これほどまでに憎悪が激しくなっているとは。サイファはこれほどのものにさらされてきた。確かにこれでは、人間と言う種族を信じられるはずがない。
「馬鹿が」
 漏らした言葉にケイトが眉を顰めた。リィの真意など知る由もない。サイファに向かって呟いた言葉などとは。だからケイトはそれを人間全体に向けたものだと思った。やはり彼は裏切り者だ、そう思った。
 黙って踵を返そうとしたリィは、まだそこにケイトがいることに気づいては訝しげな顔をする。何の用で立っているのかわからなかった。そして思い出す。去っていいとは、言っていなかった。
 けれどリィは何も言わない。いまの女の言葉がこだましていた。半エルフ。そのような侮蔑でしかない言葉でサイファを呼ぶとは。
 そして魔術師を志しながら、その言葉を使った者がいる。言葉の重要性を深く知る身でありながら、それを使った者がいる。ケイトに声をかける気になど、なれなかった。
 無言で階段を上がるリィの後姿を、ケイトは唇を噛みしめて目で追い続ける。曲がって見えなくなるまで。あのまま、また半エルフと封印の間に篭るのかとは、思いたくなかった。
「死んじゃえばいいのに」
 漏らした言葉に驚いた。どちらの死を、願ったのだろうか。そして嗤う。二人共の死をケイトは願っていた。暗い思いを抱えたまま、階段を上りつめ居間に戻ったケイトの耳に声が聞こえた。意外にも、二人はそこにいるらしい。中に入ることはせず、そっと扉の前で耳を澄ませた。
「だから、危害は加えてねぇって」
「嘘」
「ほんとほんと。怪我もさせてないし、殺してもいない」
「ねぇ、リィ」
「なんだよ」
「なんであのとき私が止めたか、わかってる?」
「あのとき?」
「襲撃されたとき」
「あぁ……」
「わかってないね? 私ね、あなたに同族殺しをさせたくないの。別に人間なんかどうでもいい。滅びたってかまわない。大嫌いだもの。でも、あなたに手を汚して欲しくない」
「俺も人間だがな」
「リィはリィ。……それに、あなたが私を受け入れてくれる限り、私は自分の手で人間を滅ぼす気にはならないと思うの」
「危ない奴だな」
「あなただって一緒じゃない」
「かなり本気で人間滅亡計画を立てようかと思ってた」
「リィ!」
「正直に言えばな、可愛いサイファ。お前が無事だったらどうでもいいんだよ、他はな」
「もう、真面目に話してるのに。聞いてる?」
「聞いてるよ。俺だって真面目に話してんだろ」
「本当?」
「お師匠様を信じろって」
「うん……」
 ケイトは足音を殺して扉の前を離れた。聞くに堪えなかった。あのようなリィの声音など、聞いた例がない。異形の化け物と同じ半エルフの、うっとりとした声など、聞きたくもない。

 だから、それが起こったのは必然だったのかもしれない。それが時代の流れというものだったのかもしれない。
 塔が、人間の群れに囲まれた。あり得ることではなかった。リィは唇を引き締めて窓から下を眺めていた。
「リィ」
 振り返りはしなかった。背後からの声が誰のものであるかなど、わからないはずがない。
「なんとかしないといけないね」
「まったくだ」
「でも、困ったな」
 サイファは溜息をつく。殺して蹴散らすのは簡単だった。だが、リィにそれをさせるわけには行かない。自分がすることも彼は嫌がるだろう。そもそもリィは無益な殺生を嫌う。いまが無益と言い切れるか自信はなかったが。
「なんとか、とはどういうことですか」
「どう、とは?」
「人間を、同族を殺すおつもりですか。……もっとも、あなたには関係のないことでしょうけれど」
 ケイトはそうサイファを見据えた。返事をする気にもなれずサイファはリィの横に立ったまま、彼の視線を追っていた。
「まずいな」
 リィが呟く。激高しかけたケイトにはそれが聞こえなかった。
「答えろよ、半エルフ!」
 瞬間ケイトの体が吹き飛んだ。サイファはそっとリィを見上げる。間違いなく、彼の魔法だった。本来だったならば、いかに気に食わない人間であろうとも、ケイトの心配をしなければならないだろう。仮にも同じ男を師と仰ぐ身なのだから。
 けれどサイファはただリィを見ていた。なんて速い詠唱だろう、と感嘆していた。視線を感じたのだろうか、リィは幾分柔らかい視線をサイファに向け、それからようやく振り返る。塔の下から爆音が聞こえた。
「愚か者。お前のせいで避けられたはずの怪我人が出た」
 襟首を掴んでケイトを引きずり上げ、窓の下を覗かせる。塔の扉を破壊しようとした人間たちが、扉にかけられた防御魔法によって傷つけられていた。ケイトは唇を震わせ青ざめる。塔の襲撃に加わった人間には、友がいた。親類も、兄弟さえも。




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