リィが何も言わない以上、サイファも口出しは控える。ただ、煩わしかった。他のことはともかくも、食事だけはケイトも共に取らざるを得ない。リィはサイファと食事することを望んだし、ケイトはリィの傍らに座すことをやめなかった。 おかげでサイファは面倒でならなかった。すでに足はほぼ治った、と言える。リィに抱き上げて運ばれるのを免れるだけでも幸いであった。決して嫌っていたわけではない。むしろ誰もいない、二人だけの生活であったならば喜んで受け入れただろう。サイファは内心に笑みを浮かべる。だが、ここには他人がいた。 「リィ」 「うん?」 相変わらずの呼びかけ。そのたびにケイトが嫌な顔をするのもいい加減に見飽きてきた。サイファはこっそりと目をそらして溜息をつく。それを目にとめたリィが苦笑を浮かべた。 「部屋に戻るから」 それだけを言ってサイファは立ち上がった。黙ってケイトも立ち上がる。まるで客だと言わんばかりに案内に立つ。それにわざわざ反論する気も失せていた。 背後で忍び笑いを漏らすリィを一睨みし、サイファはケイトのあとを追う。足早に歩いていく背中が、早く目の届かないところへ行って欲しいと語っている。 さすがにリィの塔で勉強しているだけはある。ケイトも塔の中で迷うことはないようだった。話すこともない二人はただ静かに歩いていた。けれど聞こえる足音は一つきり。ふっとケイトが振り返る。 「なにか?」 そしてすぐ後ろにサイファがいるのを確認しては顔を強張らせた。神人の子の、軽い足取りは人間のように大きな音を立てない。それにさえ嫌悪を催したのだろう、そう思えばリィの無頓着とも言える差別のなさがサイファにはかけがえのないものに感じられた。 そこまで考えサイファは知らず口許を緩める。硬い足音を響かせながら前を行くケイトを見つつサイファは思うのだ。確実に、差別はされている、と。良い意味ではあったけれど。 「ケイト」 考えに囚われたサイファはうっかりと扉の前を行き過ぎるところだった。いささか慌ててケイトを呼び止める。 「なんでしょうか」 リィに言われたからだろう、丁寧な言葉遣いをするもののケイトの口調はやはり硬い。苦笑を浮かべてしまえばさらに嫌な顔をするとはすでに経験済みだったサイファは無表情を通して言った。 「ここでいいから」 そんなサイファの言葉にケイトが訝しげな顔をする。そこにある扉は開くことのない扉だった。サイファ自身の居室はまだ遠く隔たっている。 「その扉は開きませんが」 馬鹿なことを言う半エルフだとケイトは表情にも隠さなかった。リィの愛弟子であるはずなのに、その程度のことも知らないのか、と。 「知ってる」 そう言いつつ、サイファは薄く笑みを浮かべた。そして扉に手を触れた。ケイトはほくそ笑む。扉に触れるだけで失神しそうな痛みが襲うのを彼は知っていた。 「な……」 だが扉はケイトの目の前でゆっくりと開き始めた。サイファは何も言わず半ば体を滑り込ませていた。 「リィ師に、なんと申し上げればよいか!」 「彼にはわかってるから」 「封印を破ったと――」 「言いたかったら、言って」 扉の陰でサイファは密やかに笑う。そして続けた。 「この封印をしたのは、リィと私なんだけどね」 言葉の余韻を残し、扉は閉まった。ケイト一人が呆然と立ち尽くしていた。どれほどそこに立っていただろう。足音に振り返ればリィがいた。 「リィ師、封印が」 「知っている。サイファが入ったのだろう」 「なぜ……」 「わからないわけがない。私とサイファの封印だ」 リィは知らなかった。サイファが最前、同じ言葉を使ったとは。それがケイトにどのような衝撃を与えるかも、知らなかった。 「しばらく出てこないかもしれないが、気にするな。私が出てくるまで自習」 ケイトに物も言わせずリィもまた扉の向こうに姿を消した。ケイトはただ唇を噛みしめて立っている。 「裏切りだ……」 ぽつり、唇から漏れ出た言葉にケイト自身が驚愕した。慌てて口許を覆う。そして聞くものなど誰もいないことを嗤った。 許せなかった。あの半エルフに師がたぶらかされているのだとはじめは思った。だが今にして思う。これはリィ・ウォーロックの、人間世界への裏切りではないか、と。 ケイトの噛んだ唇の間から、低い呪詛が流れ出す。二人はいつまで経っても封印の間から出てはこなかった。何をしているのだろうか、思うだけで体中が煮え立つような思いに駆られる。 リィと共に過ごした日々でさえいまは呪わしい。彼のベッドにいたのは自分だった。いまはあの半エルフがいる。リィの心に住んでいるのが誰なのか、ケイトは知った。 「許せない」 裏切り者と半エルフが、二人して自分を嘲笑っている気がした。出てくる気がないならば、かまわない。ケイトは暗く嗤いしばしの後、彼の姿は塔から消えた。そして何事もなかったような顔をして戻ったのは数日を経てのことだった。二人はまだ、封印の間に入ったままだった。 しばらくぶりに封印の間を出たリィはまずケイトの勉強の進み具合を見た。わずかに首をかしげる。 「あまり、進んでいないな」 「申し訳ありません」 「興味がないならばやめてもかまわないが」 無論、それは何度も言われた言葉だった。好きで勉強していることだった。以前は、そうだった。だからそう言われるたび、いつかは師を唸らせて見せる、と努力したものだった。 「少し、体調が優れなくて」 だがケイトは嘘をつくことを選んだ。リィは疑問を挟まず、そうか、と言うのみ。伏せた顔に隠れてケイトは嗤う。 「ん……?」 リィが不審げな声を上げた。サイファも遠くを見るような目つきをしている。二人して何かがわかっているようなのがケイトには気に入らない。 「誰か来たようだ、見てこい」 リィの指図にケイトは駆け出す。何が起こったのか知りたかった。そして見つけたのは開かれた塔の扉に足を踏み入れ、おずおずと辺りを見回す人間たちだった。 「なにかご用ですか」 ケイトは精一杯に失望を隠しながら尋ねれば、やっとそこに人が立っていることに気づいたのだろう、人間が叫び声を上げた。 「助けてくれ!」 見れば青ざめた顔をした男だった。ケイトが更なる疑問を浴びせる前にもう一人が声を上げる。 「娘を助けて、どうか」 はっと気づいた。女が子供を抱いていた。夫婦だろう、男女の青ざめ方など比べ物にもならないほど、子供は衰弱していた。 「待っていてください」 身をひるがえし、師を呼びに走ろうとしたとき、そこにリィが立っていた。一見して危ないとわかったのだろう、リィが何事かを詠唱し、子供の容態を固定させた。 「神殿には」 「神官様たちにゃ無理だと言われて」 「見せてくれ」 リィが女の腕に触れる。ようやく娘を下ろすよう求められているのだと悟った女は強張った腕から、それでも子供を離せなかった。その腕から、男が子供を取り上げる。そしてリィの指示に従ってテーブルの上に横たえられた。 リィの険しい顔をケイトは見ていた。何があったのか、理解できない。子供は病気に見える。ならば、魔術師よりも神殿を頼るべきだった。そして神殿からは見放された、と言う。ケイトには見守るより他に何も出来なかった。 リィが子供の袖を捲り上げ、見たものはどす黒い痣だった。否、腕輪だった。一見してリィにはそれが何を意味するかがわかる。顔を振り上げ、声を上げた。 「サイファ、手伝え!」 すぐそこにいたのだろう、半エルフが階段を下りてくるのをケイトは見やり、視界の端に恐怖に強張った顔をした夫婦を映しては内心で暗い喜びに浸った。 「リィ師、病気ならば薬草が」 「差し出口を叩くな、未熟者」 「は……申し訳ありません」 けれどリィはケイトの言葉など聞いていなかった。黙って立ったサイファを見据える。 「お前が、決めろ」 サイファは男の顔をじっと見つめていた。何を思うのだろうか、男は顔を伏せ、震えている。膝の上に置いた手が白くなるほど握り締められている。 「馬鹿なことを。リィ、はじめよう」 サイファの言葉に男が顔を上げ、唇をわななかせた。言葉にならない感謝を呟いている。サイファは聞かず、リィの隣に立った。 「半エルフが人間の役に立つなんて、当たり前じゃないのよ! あたしの娘を殺したりしたら、ただじゃおかないわ」 「よせ」 「なに言ってんのよ、あんた。娘が可愛くないの? 半エルフが――」 女の言葉が、止まった。リィが彼女を黙って見ていた。 「黙っていろ。娘を死なせたくなかったならば」 冷たい口調に女は身をすくませた。あるいは間違った場所に来てしまったのかもしれない、そう思い始めた気持ちをとめられはしなかった。 リィの隣に立ったサイファが軽く彼の腕に手をかけた。たしなめるようでもあり、準備が整ったことを知らせるためでもあった。 二人の唇から、低い詠唱が流れ始めた。ケイトには何を言っているのか、まるでわからない。どんな効果を持つ呪文なのかすらわからなかった。 リィが子供の腕に手を置いた。一瞬、小さな体が跳ね上がる。痛ましげに父親は目をそらし、母親はサイファに掴みかかろうと飛び出した。それをとどめたのはケイトだった。 決して、サイファを庇ったわけではない。いま呪文が中断して危ないのはリィだと、そう思ったからに過ぎなかった。そして自らの行為を、忌々しく感じたのだろう、女の手を離しへたり込むままに任せた。リィを救ったのだ、そう思ってもサイファをも救ってしまったことに、変わりはなかった。 |