何度目覚めてもリィがここにいる。これほど嬉しいことはなかった。サイファは淡いまどろみの中、ただリィに包まれているのを感じていた。 「リィ」 「うん?」 「どこに行くの」 身じろぎを感じてサイファはリィの背中に回した腕に力を入れる。と、笑いを含んだ声が降ってきた。 「腹減った」 「もう少し」 「我慢の限界なんだがなぁ」 「いいじゃない」 「お前はよくても腹へって俺は目が回りそうなんだが」 少し、悔しかった。自分とリィがこんな所でも違うのだと実感してしまう。しがみついて離さなければ、まだここにいてくれるだろうか。そんなことを思った自分をサイファは笑った。 「ねぇ、リィ」 ふと間近からリィを見上げる。瑠璃色の目も無精ひげも変わらなかった。だが、サイファの腕は違うものを感じ取っていた。 「なんだ?」 「少し……年取ったね」 「そりゃ、まぁな」 困ったような顔をして彼が言うのに、サイファは黙って胸の中に潜り込む。無精ひげに白い物が増えた。体はわずかではあっても緩んでいる。これが年齢を重ねるということなのだろう。リィに抱きしめられている自分の体は変わらない。大人の体でもなく、子供の体でもない。長い時間をかけて大人になっていく。そしてそのまま衰えることはない。哀しかった。 「可愛いサイファ」 「なに」 「お前が無事でどんなに嬉しいか、わかるか?」 「私……人間に生まれたかった」 「馬鹿だな」 「うん」 素直にうなずくサイファに自分の心のうちがわかるものかとリィは思う。漏れ出そうになる苦笑を抑え、リィはそっと彼の体を抱きしめるだけ。 自分こそ、神人の血を引きたかった。そうリィは思う。そうすればいつまでも彼の側にいられる。そして彼が大人になったとき、心を打ち明けることもできるだろう。 いずれ死ぬ身だった。彼を残して死ななければならないのならば、サイファに思いを知らせることなどできるはずもない。リィには確信を持って言える。いま思いを打ち明けたとしても彼は自分を受け入れてくれるだろう。愛情の意味などわからず、だが大好きなリィとして自分のすることは何であれ、受け入れるだろう。だからこそ、言えない。一人きりにしてしまうのならは、師に先立たれた弟子にしてやりたい。仮初の、真実ではなかろうとも恋人を失った神人の子には、したくない。 それであってもリィは喜ぶ。サイファが言ったことは、自分の思いの裏返しのようにも聞こえたから。違うのだと理解はしている。ただ、仄かな希望にも似たものを持つことはできる。 「ねぇ、リィ」 「うん?」 「私があそこにいたって、どうしてわかったの」 もっともな疑問だった。リィ自身、あの場にちょうど駆けつけられたなど、信じがたい。単なる偶然であった。 「なんとなく不穏なのは感じてたからな。様子を見に行こうかと思ってたら途端に嫌な予感がした。慌てて跳んでったらお前がいた」 「本当?」 「まったく、信じらんねぇがな」 「リィが言うなら、信じる」 「それでこそ俺の可愛いサイファだよ」 偶然でもいい。サイファを取り戻せた。生きて彼がここにいる。それで充分だった。 「さぁ、サイファ。もう限界だ。食事にしよう」 これ以上腕にしたまま話していては、あらぬことを口走りかねない。リィは勢いよく起き上がり、サイファを引き上げた。まだ不満そうな顔をしながら、それでもサイファは笑って起きる。 「おいで」 抱き上げようとするリィにサイファは形ばかり抗って見せる。もっともリィはその程度のことは織り込み済みとばかりに気にかけもしないのだが。 「恥ずかしいでしょ」 塔の中、弟子がいるのだと思えば落ち着かない。部屋を出てからようやくケイトの存在を思い出す。覚えていたならば、もっと抗ったはずだった。 「気にすんな」 「でも」 「なんだよ」 「私は恥ずかしいだけだけど、あなた、都合が悪いんじゃないの」 「なんでだ?」 心底、不思議そうにリィは言う。思わず抱き上げられたまま彼の目を覗き込んでしまった。 「危ねぇだろ」 「ごめんなさい」 笑って言うのにサイファは答えて彼の首筋に顔を埋めた。彼の目の中に見たもの。サイファにとっては不可思議でしかなったけれど、それでいて当たり前の物。リィの心にケイトはいない。 「ほら、待ってな」 「リィ?」 「食事。支度してくるからな」 「私がする」 「なに言ってやがる。怪我人が」 気づいたときには居間の寝椅子に下ろされていた。サイファは苦笑して息をつく。と、視線が刺さった。ケイトがいた。サイファの目に触れない場所で、それでもこちらを気にしながらリィに何かを言っている。 「リィ師、自分が」 「かまうな」 「ですが、そのようことを師がなさるのは……」 「好きにさせろ」 言ってリィはケイトの腕を払う。サイファがこのような関係をどう思っているのかはわからない。サリムのときこそ、驚いたようだったけれど、今となっては諦めている、そんな顔をする。 それでよかった。サイファ以外、欲しいとは思わない。手に入れられないのなら、他の誰でも同じだった。そしてそんな自分を彼にだけは知られたくない。 昔、二人きりで暮らしていたときのよう、リィは手ずから食事の支度をする。まだサイファが上手に魔法を操ることができなかった頃。菓子のひとつも満足に焼けなかったあの頃のことを懐かしく思い出す。 リィにとっては長い時間が経っていた。ほぼ半生と言っていい時間をサイファと共に過ごした。残された時間は長くないだろう。死は遥か先ではなくなっていた。 「出来るだけ……」 長生きはする。誰の耳にも届かない低い言葉はリィだけが知る誓い。サイファが一人になる時間が一瞬でも、短いようにと。 そんな思いを振り払い、リィは料理を手にテーブルへと戻った。サイファが頬杖をついて待っている。部屋の反対には、ケイトが壁に張り付くよう、立っていた。逃げ出さないだけ感心、とリィは内心に呟いては身振りで座れと促した。 「自分も、いいのですか」 リィはそんなケイトをじろりと睨む。余計なことを言った、と思ったのだろうケイトは少しばかりうつむいた。 「あなたの作ったもの食べるの、久しぶり」 緊張を解こうと言うのか。サイファがゆったりとした声を上げた。はっとしてリィは彼を見、頬が緩んだ。それでまだ厳しい顔をしていた、と知っては苦笑する。 「この前帰ってきたとき、食わなかったか」 「だって弟子の勉強見てたじゃない」 「違うだろ、あれはその前だろ」 「そうだった?」 首をかしげ、サイファは料理に取り掛かる。実際、どうでもいい話だった。テーブルを前にして刺々しいやり取りなど耳にしたくなかっただけなのだから。 「ねぇ、リィ」 呼びかけに顔を上げかけたリィの口が止まった。 「それは、無礼ではありませんか」 ケイトの声だった。驚いてサイファがケイトを見る。何を言われているのか、わかっているだろうかと懸念したリィが口を挟む前にサイファが微笑んだ。 「それは、本人に聞いて」 ちらり、リィを見て笑う。どこか苦笑の気配があった。 「無礼はどちらだ」 「リィ師、ですが」 「あなたが悪いんだ、リィ」 「なにがだよ」 「あなたが私をそうやって特別扱いするから、こういうことになるんでしょ」 「仕方ないだろ」 「なにが」 「俺はお前が可愛いの。ほっとけ」 「リィ……」 あからさまにサイファは肩を落として見せる。くすぐったいような嬉しいさはあるけれど、何もそれをケイトの前で言わなくてもよいと思う。 「サイファは私の弟子だが、すでに独り立ちした魔術師でもある。お前が一人前になったとき、私を呼び捨てられるものならやってみるがいい」 ふっとサイファの体に緊張が走った。リィのそのような物言いは聞いたことがない。サリムのときだとてもう少しは優しい口調だったように思う。 「リィ」 たしなめるよう、サイファは彼の名を呼んだ。彼にはわかっているはずだ。二人だけの昔話ではある。昔から、サイファはリィを名で呼んでいた。無論、それをケイトに知らせるつもりはなかった。 「サイファ、ずっとここにいろよ」 一瞬にしてケイトの顔色が変わるのを見てしまった。サイファは心の中で溜息をつく。このような関係に踏み込むのも関わるのも嫌だった。ただ、リィの側にいたいとなれば嫌でも関わらざるをえない。 「いいけど。あなたがもう少し態度を改めたらね」 「なんだよ、そりゃ」 「私を贔屓しないで。煩わしいの」 きつい言葉だっだ、真意のわからないリィではない。苦笑と共にそ知らぬ顔をして見せた。 「リィ、聞いてる?」 「聞いてる」 「だったら」 「諦めな」 「どうして」 「言ってんだろ、俺はお前が可愛いってな」 「リィ……!」 「なに言っても無駄だからな」 嘯くリィの顔を見ていたらおかしくなってしまった。何を言っても確かに無駄なのだろう。リィに殊の外大切にされるのは、サイファも決して嫌がってはいないのだから。 「これが年を取るってことなんだ?」 けれどわずかにからかってみたくなる。むっとして顔を上げたリィが見たのは微笑むサイファだった。 「なんだと?」 「人の話を聞かないし、我が儘だし」 「そんなお師匠様が大好きだろ? だから、諦めろ」 「……因業爺」 「サイファ! なんてことを言うんだ。どこでそんな言葉覚えたんだよ」 「私、人間の間で旅してたんだもの。あなたみたいなのを因業爺って言うんでしょ?」 「まったく……酷い言葉を覚えてきたもんだ。可愛いサイファ」 「リィ、嫌って言ってるでしょ」 「だったら撤回しろ」 「嫌」 「じゃ、俺もやめない」 どう言い負かしてやろうか、そんな二人の会話を止めたのは、足音高く駆けていくケイトの後姿だった。期せずして、二人の溜息が一致する。そしてまた笑みをかわしあった。 |