夢現の境にサイファはいた。それでも安全なのだとはわかる。目を開ければ懐かしい部屋。以前、塔に住み暮らしていたときの自分の部屋だった。そして目を閉じればリィの気配。心配は要らないとばかりに彼は精神を接触させていた。
 目覚め、そして眠る。何日それを繰り返しただろうか。気づくたび、包帯は清潔なものに替えられていた。サイファは微苦笑を漏らす。部屋に運ばれて以来、リィをまだ見ていなかった。
 さらに数日後、空腹を覚えて目が覚めた。サイファはゆっくり体を起こす。なんとか起き上がることができた。恐る恐る足を動かしてみた。こちらも、問題はなさそうだった。
「便利」
 ぽつり呟いた声には苦さがあった。あまりにも人間とは違う体。人間だったならば、断たれた足の腱など、半年経っても繋がらないだろう。
 それを思えばどこかあの人間たちの恐怖もわかるような気がする。異質すぎた。こちらは同じ生き物と思っていても、あちらはそうは思っていない。寂しいような苦しいような感覚だった。
「リィ……」
 彼はどこにいるのだろう。目覚めたのを知っているのだろうか。サイファは寝台を降りる。少し、体が揺らいだ。
「大丈夫」
 自分に言い聞かせ、サイファは静かに歩き出す。向かったのは居間だった。きっとリィはそこにいるはずだと思って。
 塔の内部は変わらなかった。それに微笑ましい思いを抱く。外は変わってしまった。至高王が去ってからと言うもの、大陸は荒れる一方だった。いままでは崇拝するがゆえにむやみに近づいてこなかった人間たちも、今となっては憎しみゆえに神人の子らを襲撃する。
 その世界を見てきたサイファにとって、塔の中の静謐は心安らぐものだった。ほとんど足音がしないサイファの周りに、これも変わらぬ魔法の明りが灯っては消え、消えては灯る。塔の内部に満ちるリィの魔力にサイファはほっと息をつく。帰ってきた、と思っていいのだ、ようやくそう思った。
「リィ?」
 扉を開けて中を窺う。彼はやはりそこにいた。弟子の勉強中かとも思ったが、どうやら茶の時間らしい。自分はつくづく帰ってくるたび茶の時間に来合わせるとサイファはおかしくなってくる。
「馬鹿、歩くな!」
 そんなサイファに届いたのはリィの罵声。慌てて飛んできてサイファを抱き上げた。
「リィ!」
「歩くな」
「もう……平気だもの」
「それでも、だ」
 反論などできない口調で言われてしまっては、サイファも黙らざるをえない。子供のような拗ね方をしてリィに運ばれるままになった。と、視界の端に強張った人間の姿が目に入る。弟子がそこにいた。サイファもまた体を硬くする。他者にこんな姿を見られるのは嫌だった。たとえ傷を負っていたとしても。
「離して」
 自分で意図したよりきつい言葉にサイファは驚く。すでに知りたくないことを知っていた。リィは自分を安心させようとして精神を繋いだままにしておいたとはわかっている。
 だが、おかげでこのところのリィの生活を知ってしまった。彼も隠すつもりがないからこそ、サイファに見せたのだろう。今の弟子・ケイトはリィのいまの恋人だった。
 もっとも、リィにそれを言えば否定するのは決まっている。サイファも恋人、と言う単語しか知らないからそう表現するよりないのであって、単に寝室を共にする仲、と言ったほうが正しいのだろう。心を伴わない体だけの関係など、いまだサイファには理解の他だった。
「はいはい」
 軽くリィが言う。緊張するには及ばない、と言うつもりなのだろう。だがそういう問題ではないのだと言い返したい。そうこうする内に寝椅子に下ろされた。
「見せろ」
 短い言葉にリィの苛立ちを知った。サイファは黙って足を見られるままにした。本当ならば拒みたい。他者がいる前で裾をめくられるなど、たとえそれが足首までであっても嫌だった。
「だいぶいいな」
「治ってるもの」
「完治には程遠い。まだじっとしてろ」
「……はい」
 納得の行かない言葉にサイファはうなずくしかなかった。リィがそう言うならば、正しいのだ。リィの言葉に嘘はないはずなのだ。
「まぁ、それほど心配は要らんな」
 ようやくリィが頬を緩めて頭に手を置く。それをサイファはかすかに目を上げて見た。柔らかい表情がそこにある。サイファもやっと緊張を解いた。
「もう知ってるな? 弟子のケイト。いまは主に薬草の勉強をしている」
 わずかに首を振り向け、わざとらしく紹介するのについ微笑が漏れそうになる。サイファはもっともらしくうなずいて首をかしげた。
「お前の兄弟子に当たる。リィ・サイファだ。敬意をもって接するように」
 そうケイトに言ったリィの声に違和感がある。どこか厳しすぎた。何かあったのだろうか。普段、弟子に対して出す声とは違うような気がする。リィを見上げて問うたけれど、彼は黙して答えなかった。
「さて、サイファ」
 真正面からリィに見られ、サイファは落ち着かなくなった。これも、あまり聞きたい声ではなかった。
「お前に聞きたいことがある」
「あとに、しない?」
「叩き起こして問い質さなかっただけマシだと思え」
「……はい」
 やはり、リィは怒っているのだ。肩から力が抜けていく。思わず額に手を当て椅子の背にもたれてしまった。
「大丈夫か」
 途端に飛んでくる心配そうな声にサイファは目を上げる。リィがなにを怒っているのかわからない。予想したものとは違うのだろうか。
「大丈夫」
 答える声が懸念に揺れた。リィは一度、唇を噛みそして心を決めたのだろう、サイファの正面に立ったまま彼を見据えた。
「どうしてもっと早く帰ってこなかった」
 一瞬、何を言っているのか理解出来なかった。帰ってきて、良かったのだろうか。待っていてくれたのだろうか。
「心配させるにもほどがある、あのまま殺されていたらどうする」
「だって」
「無論、ちゃんとした言い分があるんだろうな?」
 リィの言葉が突き刺さるようだった。サイファは言葉に詰まる。何度か呼吸を繰り返し、落ち着こうとしたけれど果たせない。
「……あなたも、人間だから」
 それだけを、吐き出すよう口にした。はっとして身を引いたときには遅かった。頬に熱い衝撃があった。部屋の向こう、ケイトが息を呑む。二人とも、かまってなどいられなかった。
「リィ……」
 殴られたのだと、押さえてみてはじめて理解する。呆然と彼を見上げた。リィのほうが、痛みに耐えているようだった。
「見損なうな」
 頬を押さえたサイファの手を引き剥がし、リィは掴んだまま離さない。
「お前は俺をあの愚か者どもと一緒にするのか」
 掴まれた手首が痛かった。リィは苦痛を堪えるかのよう顔を歪め、サイファをじっと見ていた。突然、一切の束縛が放たれた。感情が沸騰するかに込み上げてくる。唇のわななきも声の震えも止められはしなかった。
「怖かったの……。あなたに拒まれたら、私はどうしたらいいの。あなたに拒まれて、それを知ってから殺されるよりあのまま殺されたほうがずっといい。だから」
「馬鹿」
「リィにまで拒まれたら、私は生きていかれない」
「お前な……」
 ふっと口調が変わった。いつの間にか伏せていた視線を上げれば、そこにいるのは呆れ顔をした、昔のリィだった。
「お前を失ったら、俺はどうしたらいい?」
 はっとして目をみはる。答える前にリィが畳み掛ける。
「死なないお前を殺されたら、俺はどうしたらいい?」
 サイファは目を丸くして彼を見るだけ。リィは微笑んでいた。けれど目の中に苦悩を見てしまった。これほどの苦痛を自分がリィに与えてしまったのだと、漸うにしてサイファは知る。胸が詰まった。
 その彼に向かってリィはにやりと笑って見せる。サイファを苦しめたくなどなかった。帰ってきたのだから、それでいいと言いたかった。けれど口から出てきたのは違う言葉。
「うっかり人間どもを全滅させかねねぇぞ」
「リィ!」
「ちったぁ、俺の気持ちも考えろ。可愛いサイファ」
 不意に張り詰めていたすべてが解け崩れる。サイファは目許を覆おうとして体に力が入らないのを知った。何度も目を瞬き、リィを見つめられなかった。
「可愛い俺のサイファ」
 他者がいるときには決して許さなかった呼び方も、気になどならない。いま介入できる他者が、どこにいると言うのか。
 リィはやっと手首を掴んでいたことを思い出したよう、それを離した。少し赤くなっていたのに目を止め、悪かった、とばかりに触れる。それからサイファの両頬を大きな手で包み込んだ。
「たとえ世界中を敵にまわしたとしても、俺はお前の味方だ」
 サイファは答えられなどしなかった。ただ、何度もうなずくことしかできない。リィのローブの胸元を握り締め、額を彼の胸に寄せてそうしていた。緩く抱かれているのが心地良かった。ここはサイファの場所だった。サイファだけの、安住の場所だった。
 有無を言わさず抱き上げられ、部屋に戻された。どこかでケイトの視線を感じていたように、今になって思う。
 リィもそれを感じたのだろう。二人、顔を見合わせて苦笑した。けれどそれ以上は何も言わず。サイファはリィの首に腕を絡め、懐かしい無精ひげを感じていた。痛いと文句を言いはしなかった。生きているのだと、いまになって思った。
 そっと寝台に下ろされた。リィが無言で頭を撫でて部屋を横切る。それをサイファは視線で追いかけていた。
「リィ」
「うん?」
「ここに、いて」
 扉の前からリィが戻ってくる。その顔に浮かんでいる笑みにサイファは安堵する。
「そのつもりで封じてきた」
 ちらり扉に視線を向ければ封印があった。サイファは言葉を返さなかった。確かにケイトとやらに見られれば多少、具合の悪いことになる。まったく何事もないのだと言っても、あの人間は信じないだろう。横に滑り込んできたリィの体に腕を回し、サイファは心地良い眠りに落ちて行った。




モドル   ススム   トップへ