経験した事のない痛みが、サイファの意識を朦朧とさせていた。白いローブは血に汚れ、体にじっとりとまといついている。 「お、おこせ」 人間の誰かが言っていた。倒れ伏した体が引き上げられる。胸元を掴まれ呼吸が苦しかった。 「誰か、押さえろよ」 言った声が震えていた。サイファはあれも恐怖なのかと思う。なぜそれほど恐れるのだろうか。同じ生き物に過ぎないというのに。 背後に立った人間が、サイファを羽交い絞めにした。粗末な、それでも充分に傷を与えることが可能な武器を持った人間がサイファを囲んだ輪を狭めた。 腱を切られた足からは、血が流れ続けている。いかに神人の子とは言え、短時間で腱が繋がるわけもない。それでも人間は恐れて何度もサイファの足を叩き潰した。 人間の、荒い呼吸が迫ってきた。掲げた鎌がぎらりと光る。場違いにうららかな陽射しだった。強張った顔をした男たちが一歩進む。一人、抜き出た。鎌が光ってサイファはこれが死ぬということなのかとぼんやり思った。顔に、血飛沫が飛んだ。 「なにを……している!」 声にサイファは目を開く。閉じていたのだと知った。それからまだ生きているのだとも。 人間たちの、喉に詰まった声がする。悲鳴だろうか。何が起こっているのかわからない。鎌を振り下ろされたはずの体は痛くも熱くもなかった。 「リィ……」 この目で見たことが信じられなかった。目の前でリィが血を流している。ざっくりと切り裂かれた肩から滴る血に、リィのローブが染まっていた。 サイファを庇うよう、肩と背中に傷を受けたリィが振り返る。サイファがその目を見ることはなかった。見せたいと、リィは望まなかった。 「なにをしている」 けれど冷たい声は聞こえた。背後から押さえつけていた人間は、リィの声に気圧されるようサイファを放す。頬に冷たい草の感触を味わった。体に力が入らない。起き上がることも出来ずリィを見ていた。 と、低い詠唱の声。答えることのない人間に愛想を尽かしたとばかりリィが魔法を行使しようとしている。はっとしてサイファは手を伸ばす。掴んだのはリィの足首だった。 ほんの少しだけリィがサイファに目を向けた。苦悩が瑠璃色の目を翳らせている。ごくわずか、リィの力が緩んだ。だが、呪文は完成してしまった。 轟音。リィは最後の瞬間に手を頭上に掲げ、爆炎を空へと放つ。人間たちの顔色が変わったのが、大地に伏したサイファにも見えた。 「ひっ」 一様に短い悲鳴が上がり、そして人間たちは動けない。まるで魔法で繋ぎとめられたかのよう、立ち尽くしていた。人間たちは見てしまった。あの炎が自分たちに浴びせられるはずであったと。一瞬にして骨も残らず焼き尽くされたことだろうと。凍りついた人間たちにぱらぱらと白い灰が降りかかった。 リィは彼らにかまうことなく、サイファの側にかがみこむ。血に汚れた頬をそっと拭った。 「リィ……」 懐かしさに、傷ではない痛みが襲い掛かる。そのサイファの頬に血が滴って、リィは顔を顰めた。サイファが手を伸ばそうとするのをとどめ、リィは彼の体を起こす。 「塔に跳べるか」 起こされて、頭がふらついた。それでもサイファは懸命にうなずく。リィが肩に手をかける。大丈夫、とうなずいて見せた。 「邪魔をされたくねぇな」 冷たい声でリィが呟くのに目を上げたサイファは再びリィの詠唱を聞くことになった。今度は、止めなかった。魔法を放った途端、人間たちの体が硬直した。悲鳴も上がらない。魔法に縛り付けられ、人間たちは動けなかった。 「行け」 リィの声に正気づき、サイファはゆっくりと詠唱を始める。正しく発音できる自信がなかった。これほどもどかしい思いをしたことなどなかった。ようやく呪文が完成し、サイファの姿がかき消える。リィはほっと息をつき、人間たちに向き直った。 「殺される恐怖を、味わうといい……」 殊更めいた足取りでリィは人間に近づく。動けないはずなのに、人間たちは恐怖に強張った顔をした。 「殺されるということを自分の体で知るといい」 口の中、静かに呪文を唱える。完成間際、束縛の魔法を解除する。動けることを知った男たちはいまだかつて為し得るとは思っても見なかったほどの速さであるいは駆け去り、這いずり逃げた。その背後をリィの魔法が襲った。 「殺しゃ、しねぇがな」 鼻で笑った声を聞く者がいなかったのは幸いと言うべきだろう。リィは中断していた呪文を完成させ、自身もその場から消え去った。 サイファは半ば気を失ったまま倒れていた。封印の間だと言うことはわかっている。ここ以外になど、転移できなかっただろう。それほど体力を失っていた。 「リィ」 かすかな声で呼んでみる。彼はいなかった。倒れたまま、手を伸ばす。リィの木がそこにあった。懐かしい感触に安堵して溜息をつく。 助かったのだと、ようやく理解した。あのままだったならば、間違いなく殺されていたことだろう。そしてリィの負った傷を思い出す。 「早く」 帰ってきて欲しかった。彼の傷の手当をしたかった。自分の傷など、放っておけばいずれは治ってしまう。人間より、遥かに治りが早いのだから。 ふっと空間が揺らいだのをサイファは感じ、体を起こそうとしたけれど果たせず目だけを向ける。リィがいた。 「サイファ……」 その声に、サイファは目を見開いた。こんなリィの声を聞いたことはない。これほど頼りない彼の声を聞いたことはない。だからサイファは手を伸ばす。触れ合って、無事を知らせたかった。 「傷、手当させてくれ」 「あなたが、先」 「だめだ」 有無を言わせぬ声に、サイファはうなずくよりなかった。驚く間もなく抱き上げられる。 「リィ」 「なんだ」 「痛いでしょ、私は……」 「大丈夫なわけねぇだろ。歩けると思ってんのか、その足で」 言われてはじめて顔を顰めた。まだ確かに痛む。それ以前に腱を断たれた足では神人の子でも歩けはしない。 「リィ」 「喋るな」 「うん」 そっと彼の首に腕を絡めた。緩やかに、彼の体温が染みとおってくる。リィが体の強張りを解いた気がした。 封印の間を抜け、リィが歩いていく。サイファは努めて呼吸を繰り返していた。誰から教えられたわけでもない。ただそうすると回復が早いことを知っていた。 「ほんとはあのまま小屋に置いときたいんだがな」 ぽつりとリィが言うのにサイファはかすかに首を動かすことで答えに代える。 「魔法空間は、時間が止まってるも同然だからな。お前の苦痛を長引かせちまう」 まるで彼のほうが痛みをより強く感じているような声だった。サイファはリィの首筋に顔を寄せた。うまく思考がまとまらない。それで自分が思っているよりずっと重い怪我なのだと理解する。またぼんやりとしてきた。 「ケイト、ケイト!」 リィが声を上げているのをどこか遠くで聞いている気分だった。走り寄ってきた影がはっと足を止めるのを感じる。 「湯を沸かせ、すぐ! 治療室だ」 「はい、リィ師」 駆け去っていく人影のあとをリィは追う。意識が途切れかけているサイファにはどこを走っているのかわからない。塔には治療室などなかったはずだ。 混濁する意識の中でサイファは笑う。時間が経っているのだ、あの頃からは。神人は去ってしまった。シャルマークは荒れ果てた。残る二王国とて時間の問題。 それほどの時間、リィが一人でいたはずはない。サイファ自身、知る限りでもずいぶんたくさんの弟子を取っていたではないか。おそらくその、人間の弟子のためのものだろう。人間は、神人の子よりずっと脆いのだから。 「まだか」 「いま、もうすぐです」 「遅い」 リィはサイファを寝台の上に横たえる。彼の血の気を失った顔は、このまま死んでしまうのではないかと思うほど白い。身のうちが震えるような感覚に囚われリィは唇を噛みしめる。口の中、血の味が広がった。 「貸せ」 ようやく用意できた湯の入った盥をもぎ取るよう弟子の手から奪い取り、リィはサイファの元へと戻った。 血塗れのローブを剥ぐ。サイファは身じろぎひとつしなかった。そのことに胃の腑が冷える。思わず口許に手をやり、呼吸を確かめ安堵する。熱い湯に浸した布でサイファの汚れを拭った。 「包帯」 短い言葉で指示を出し、リィは血を拭い続ける。足の傷が最も酷かった。知らず手が震えた。 「酷い真似を……」 あの場で殺さなかったことを後悔する。あのような獣にも劣る輩、殺されたとて文句など言わせない。大地に倒れ伏してなおサイファが見せた慈悲を求める視線にリィは従った。それを激しく後悔していた。 「リィ師……」 手の中に包帯を渡される感触に心づき、リィは手当てに戻ろうとする。その背後で悲鳴が聞こえた。 「半エルフ……!」 ケイトと呼ばれた弟子が喉許を押さえ、ずり下がっていた。顔が恐怖に強張っている。あの、人間たちのように。 「貴様もか……!」 まるでケイトがあの人間たちの仲間でもあるかのよう、見えてしまった。振り向いたリィに心底、怯えた顔をしたケイトが映る。 ゆらり、冷たい床を踏みしめてリィはケイトを見据えた。出血を続けている肩から、手指に血が滴った。その血が飛んだ。 「リィ師!」 壁に叩きつけられたケイトの頬にリィの血がついていた。呆然と、頬を押さえてうずくまっている。 「私の前で、その汚らわしい呼称を使うな」 静かな声だった。いま弟子を殴り飛ばした男と同じとは思えないほどに。それだけにケイトは恐れた。自分の意思とは別の所でがくがくと首をうなずかせているのをただ、感じていただけだった。 |