サイファはどこか一箇所に拠点を定めるということをせず、大陸中を経巡り歩いた。覚醒以前のようにではなく、自分の目で物を見、自分の頭でたくさんのことを考え吸収しながら。
 あの美しい至高王の宮殿。三叉宮を見たのも旅の途次だった。花開く三叉宮を見たのは冬だった。うっすらと雪が積もった淡い花。サイファは近寄りがたく、そっと遠くから眺めただけだった。それでも溜息があふれる。まるで生きた花だった。
 宙にかかる橋は、それと知らなければ繊細な装飾とも見えただろう。小宮殿と三叉宮を繋ぐ橋に目を凝らせば、行きかう影が。風になびく金の糸、神人たちが歩いていた。サイファは目を閉じればいつでもそれを思い出すことができる。旅の道すがら、うっとりと夜の闇に思い出すのだ。
 そして数年に一度ほどは塔に帰った。リィに経験したことを話すために。はじめに帰ったときにはいさか驚いたものだった。サリムがいなかった。リィは何も言わず、サイファも問わなかった。
 そのことをいま思い出してもサイファの口許には笑みが浮かんでしまう。自分の顔を、何も聞かないのかとばかりに窺っていたリィ。
 サイファに事情はよくわからなかった。けれど以前、リィは言った。サリムを愛したわけではない、と。だからきっと、彼らの間に何かがあったのだろう、と想像している。どうでも良かった。ただサリムが彼の側にいないことに安堵した。
「私、嫌だな」
 ラクルーサの、河川地帯を歩いていた。小さな小川が無数にある。さやさやと鳴る水に足を浸して歩くのは心地良かった。
 サイファはぽつりと呟く。間違いなくサリムが嫌いだった。けれどサリムがリィの側にいないことを喜ぶほど、嫌いだったのだろうかとも思う。
「もう、済んだことなのにね」
 そっと片手を水に浸してサイファは苦笑した。あれから、人間の数え方をすればずいぶん時間が経っている。リィの時間では、遥か以前に済んでしまったことだろう。それを自分はいまだに気にやんでいる。
「帰ろうかな」
 空を見上げた。雨が降り出しそうだった。雨宿りをする場所もない。サイファは笑う。多少、濡れたとて気分がいいくらいの季節だというのに。それから口の中で呪文を唱え、サイファの姿はかき消えた。
 一瞬にして景色が変わる。小川はもうない。あるのは深い森の中の一軒家。粗末な小屋。サイファは辺りを懐かしそうに見回した。そして歩き出す。扉に手をかけ引き開けた。無論、例の封印の間だった。
 人気はあるのに、廊下には誰もいなかった。サイファは首かしげる。リィのほかにも誰かがいる。当然だった。サリムが去ってから、リィは絶え間なく弟子を取っている。
 サイファが帰るたびに違う弟子がいるのだから熱心なことだと思う。不思議なのは時間が短すぎることだった。新しい弟子は、すべてを吸収するのに足りるとはとても思えない間しか、いなかった。まるでそれこそがリィの望みだとでも言うよう、彼は魔術の真髄を教えてはいないらしい。おそらく付与魔術までをも修めたのは、数えるほどしかいないだろう。
 あるいはそれでよいのかもしれない。誰しもが習い覚えることができる魔法の体系を作りたいとリィは言った。学問としてなら、ある程度以上まで踏み込む必要はない、ということか。サイファにはわからない。ただ、大陸を歩くうちに耳にするリィ・ウォーロックの噂が彼の偉業を伝えている。サイファにはそれで充分誇らしいことだった。
 だから、リィの弟子は絶えないのだろう。神人の子であるサイファにとっては目まぐるしく感じられるほど、入れ替わり立ち代り新しい弟子がいる。それにしても今日は人気がありすぎた。不思議に思いつつ居間の扉を開けたサイファは目をみはった。
「何者だ!」
 数人の、若い人間がそこにいた。はっとして腰を浮かしかけた者、驚きに口を半開きにした者。一人など、立ち上がってサイファに掴みかかりかけた。咄嗟に払い落とし、リィを見つめる。テーブルの向こうで彼は苦笑していた。
「私の人相を言っておいてって、言ってるでしょ」
 開口一番、苦情を言ってしまった。リィは答えず悪い、と片手を上げる。
「忙しそう、リィ」
「まぁな」
「新しい弟子?」
「そうだ。彼はリィ・サイファ。お前たちの兄弟子に当たる。……いいから座れ」
 リィはそう言い、まだ立ち尽くしている若い人間に手を振った。リィは変わらなかった。帰るたび、密かにサイファは気にかけていた。ほんの少し、白髪が増えたような気もするけれど、それは目の錯覚かもしれない。リィを心配するあまり目がそう見せているだけなのだと思う。弟子たちに何事かを言っているリィを見つめ、サイファはほっと安堵した。
「すまんな、これはまだ来たばかりでな」
 言いつつ、弟子を制し手ずから茶を淹れてくれる。座って菓子を齧れば、懐かしい味がした。まだ自分で焼いているのかと思えばおかしかった。
「忙しそうだから、すぐ行く」
「気にすんなよ」
「ちょっと雨宿りに寄っただけだもの」
「雨宿り?」
 言ってリィは窓の外に目をやった。燦々と日が照っている。もっとも、彼の実力を考えればどこにいたと聞いても驚かないが。
「ラクルーサは雨だもの」
 ほう、と溜息が聞こえた。ちらりと目をやれば人間の弟子たちが感嘆の眼差しで見ている。単に兄弟子たる魔術師を尊敬する眼ではなかった。少し、煩わしい。
「サイファ」
 リィは促して立ち上がりかける。それをサイファは首を振って拒絶した。リィはそっと彼の顔を窺う。まだ菓子を食べている。
 それが嬉しかった。いつ彼が帰ってきてもいいように、自分で焼いているのだとは知りもしないだろう。彼が余計な気遣いをしないよう、リィは弟子たちにもそれを食べさせている。ただ、いつもある菓子だとばかりに。
 ゆっくり味わっているのだろうか。サイファは視線を落としたまま甘い菓子を食べ、茶を飲んでいた。サイファはいまここにある雰囲気を感じ取っていた。人間の中にいる神人の子。異彩を放つ。定命の人の子にはありえない美しさを持った彼に向け、敵意ある視線が背中に突き刺さっていた。
 サイファは内心で苦笑していた。サリム以来、リィは時折弟子と関係を持っているらしい。複数を同時に、と言うことはないようだったけれど、皆が皆、サイファを見た途端に敵意を示すものだからすぐにわかってしまう。
「おいしかった。ご馳走様」
「おい、サイファ」
「なに?」
「まさか、もう行くとは言わんだろうな」
「どうして?」
 少しばかりからかってみた。サイファだとて、リィと話したくて帰ってきたのだ。が、視線がうるさい。
「あぁ……」
 何事かを了承した、ばつの悪い顔をしてリィは視線をさまよわせる。サイファは意地悪く言う。
「封印の間にいるから」
 敵意ある視線が跳ね上がった。視線で射殺そうとでも言うつもりだろうか。サイファはそれを無視し居間を出た。
「節操なし」
 呟いた声は、自分で思ったよりずっと子供じみた拗ねた声だった。だから思わず笑ってしまう。リィのことは理解しているつもりだった。けれど彼のあの交接衝動だけは、理解できないといまも思う。
「どうしてだろ」
 なぜ、ああも見境なく寝室の出来事を起こすのか。帰ってくるたび、まるで敵のような視線を浴びる身にもなって欲しいと溜息も出るというもの。
 再び封印の間に入り込む。ほっと安堵の息をつき、自分が思ったよりずっと緊張していたことを知った。小屋の中、暖炉に火を入れてリィを待つ。今度はサイファが茶の支度をした。昔のように。

 はっとして途切れていた意識が戻る。途端に強烈な痛みが襲ってきた。足を動かす。やはり、動かなかった。足首の腱を叩き切られていた。静かに息を吸えば、それに気づいた人間たちがわっとばかりにずり下がる。
 最後に塔に帰ったのはいつだっただろうか。サイファはぼんやりと思っていた。リィに会いたくなかった。
 崩壊は、突然だった。
 至高王いまします限り、と繁栄を極めていた大陸から、神人の姿が消えたのは早数年前。シャルマークの王が、とてつもないことをしたのだと噂は言う。
 王は至高王に成り代わり、大陸を統べようとした。至高王は王を討ち果たした。が、神人たちは去ってしまった。至高王共々に。
 以来、神人の子たちはよりいっそう、人間を避けて暮らすようになった。サイファも例外ではなく、できる限り人間とは会わないよう旅を続けていた。そしていつの頃からか神人の子らの数も減り始めた。
 旅に出たのだ、とサイファは悟った。それはサイファ自身の中にもある衝動だった。どこかへ去って二度と再び還らない。まだ刻を知らないサイファはどこへどうやって旅立つのかさえ、わからなかったけれど。
 神人が去った後、人間たちは掌を反すよう神人の子らを見た。いままで神人と同じように崇拝していた子らを、人間は突然に迫害し始めた。理由はひとつ。
 シャルマークに魔物があふれ始めていた。王の所業だという。真実はわからない。そこに恐ろしい物が徘徊している、それだけが事実だった。
 人間たちは言う。神人さえいてくれればこのような恐ろしい目にはあわなかったものを、と。だから人間は言う。神人の子など、いなければいいと。何もしてくれないならば、なんの役に立つというのか。
 神人とは違った美しさをもつ存在。半ば人間の血を受けているがゆえに人の目にはいっそう美しくも見える存在。神人を忌むために、神人の子を忌んだ。
 彼ら神人が真実、神の一族に連なる者であったならば、人間との間に子を儲けたりするものか。人間は言う。あれは神などではなかった。人を捨てたものを蔑み人間は言う。妖精だと、エルフだと。神人が大陸を去って数年。神人の子、と呼ぶものはすでにいない。半エルフの蔑称が定着していた。残されたまだ若い神人の子らは、だから隠れ住むよりなかった。
 力ある魔術師とは言え、サイファも一人旅は危険だと思い始めていたころだった。それでミルテシアの、リィの塔からも遠くはない森の中に居を定めたのだった。
 彼の元には、帰らなかった。帰りたいとは、思った。だがサイファは帰れなかった。そのサイファを人間が襲撃したのは昨夜のこと。
 サイファは神人の子だった。人間ほど素早く変わることが出来なかった。いまだになぜ、それほど忌み嫌われるのか理解などできない。神人の子の血が、胸騒ぎを伝えた。リィの腕輪が危険を教えた。けれど何が起こっているのか、サイファにはわからなかった。
 元々父なる種族との関わりなど持っていないのだ。それなのに人間はサイファをサイファとしてではなく、神人の血を持つがために襲った。
 変われないサイファは、人間を排除することが出来なかった。あっという間に囲まれ、殴りかかられた。切りかかられた。
 手に手に鎌を、棍棒を持つ人間が恐ろしかった。なぜ襲われたのかなど考える余裕もない。熱い感覚が走った。足の腱を切られたのだと思ったときには意識が切れていた。
 遠く、人間たちの荒い息遣いが聞こえていた。リィを思う。会いたかった。呼ぶことなど、出来なかった。




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