サイファが見守る中、リィは食事を取った。出逢ったころのことを思い出す。パンも菓子も満足に作れなかったサイファ。長い留守番の後、あふれんばかりの食事を用意して待っていたサイファ。目を上げれば仄かに笑みを含んでリィを見ていた。
「お前は」
 問えば困ったような顔をして黙って首を振った。
「ごめんなさい」
 だいぶ経ってから、サイファは答える。リィは手を伸ばしサイファの頭を撫でていた。ここにいれば錯覚できる、二人とも。昔に帰ったような気がする。誰の邪魔もなかった、あの頃に。
 サイファはリィの手に慰められながら、目を閉じる。今だけはリィに言われたことが守れない。一緒に食事を取れと、礼儀だと言っていつも笑っていたのに、今は守れなかった。
 それくらいならば出て行かなければいいとも思う。何かをこらえているようなリィの顔を見ているうちに、やめてしまいたくなる。
 サイファはそっと息を吸った。一人前の魔術師に早くなりたい。リィの研究に手を貸したい。一緒に、たくさんの事をしてみたい。だから、出て行く。サイファは胸に呟いた。
 後片付けは、二人でした。ことさらゆっくりと、互いに名残を惜しんでいるのがありありとわかってしまって、ついには笑った。急に抱きしめられて、サイファはいたずらに抗った。手を伸ばす。
「ねぇ、リィ」
「なんだ?」
「無精ひげ。私がいないからって、放っておかないでよ」
「別にいいだろ」
「帰ってきたとき、剃ってなかったら嫌いになるから」
「嘘つけ」
 軽い言葉のやり取り。サイファは答えずリィの腕の中で笑った。それからもう一度リィの頬に触れる。感触を忘れないように、と。
「どうした?」
 なぜか含み笑いを漏らしたサイファにリィはわざとらしく頬を摺り寄せ悲鳴を上げさせる。
「別に」
 心持ち顎を上げ、口許だけで笑ってサイファは離れた。忘れるわけなどないのに、忘れないようにと心がけているのがおかしかった。首をかしげてリィを見る。彼もまたサイファをじっと見ていた。それにサイファも知った。リィもまた、忘れることのないサイファを記憶に刻みつけようとしていることを。
「さぁ、行こうよ」
 まるであの日のようだった。塔に引越した日もこうやって思いを振り切るようにして出てきた。サイファは振り返って小屋を見る。きちんと片付いていた。満足そうにうなずいて、後はもう振り返らない。
「準備は、できてるのか」
「またそうやって」
 引き伸ばそうと言うのだろうか。サイファはリィの顔を窺った。そこいるのは心配そうな顔をしたリィ。この部屋を出るまでは、とサイファはリィの腕に自分のそれを絡めて歩く。すぐに扉についてしまう。離した腕が少しだけ、寒くなった。
「可愛いサイファ」
 扉の前でリィが呼ぶ。何も言わずにサイファは扉にあてたリィの手に、自分の手を重ねる。二人で封印をかけ直した。顔を見合わせて笑う。
「これ、破れたらその場で師に仰いでもいいな」
 リィが冗談めかしてそんなことを言うのに、サイファはことさら真面目な顔を作ってうなずいてみせる。強力、などと言うものではない封印だった。入ろうとしただけで、命さえ奪いかねない。リィが自分たちの思い出に、それほどのことをするのかと思えばどこかくすぐったくもサイファは嬉しかった。
 すっかり足が覚えてしまった塔の中。はじめてきた日には、あまりにも複雑で方向すらわからなくなってリィにすがったのを思い出す。今はもう目を閉じていても思う場所につくことができる。
「下まで送ろう」
 言うリィにサイファは首を振る。哀しげな顔をしたリィにそっと触れた。
「居間に行きたいの、あそこで送って」
「下まで。いいだろうが、それくらい」
「恥ずかしいでしょ、二度と会えないみたいじゃない」
 そう言われると、まるで下まで送ったらサイファが二度と帰ってこないような気がしてしまってリィはそれ以上強く言えなくなってしまう。苦笑しながらサイファの背を叩くのが精一杯だった。
 居間はサイファの気に入りの場所だった。リィが設えたのだから、当然といえば当然。彼の好んだ寝椅子は、もうずいぶんくたびれている。それでもリィが選んだのだから、と言ってサイファは替えようとしないで今日まできた。懐かしむよう、サイファは椅子の背に手を置く。
「帰ってくるときまで、大事にしてるからな」
「当たり前じゃない。変えたりしたら……」
「嫌いになるか?」
 言葉を先どられたサイファが怒って見せる。先程のお返しと言うわけだろうか、ぱしりとリィの背を叩いた。
「さぁ……」
 行こうと言うつもりだったのだろう。けれどサイファは言葉を止めた。何事かとリィは彼の視線の先を追う。
「サリム」
 薄い笑みを浮かべた神人の子が立っていた。
「ちょうどよかった」
 柔らかい声でサイファはサリムに話しかける。リィが気づかないはずがなかった。それはサイファの作られた声であると言うことに。内心で苦笑を漏らし、幼い嫉妬を喜ぶ自分を嫌悪する。
「なに……なんですか」
 意図的にだろう、言い直したサリムにサイファは笑みを向けるだけ。不穏なものなど感じ取ったはずもないのに、サリムは一歩引いた。無意識のそれが悔しかったのだろう、軽く唇を噛んでいる。サイファに気取られないよう心してそっと深く息を吸う。リィにはそれが見えていた。
 じっと何を言うでもなく彼らが視線をかわしていたのはどれほどなのだろうか。リィには酷く長く感じられた。サリムが場を破るよう、首を振って髪を跳ね除ける。
「私、旅に出るから」
 それが合図でもなかろうに、サイファが言葉を発した。答えるサリムは黙ったまま。かすかに笑みを浮かべた。それがリィには勝利の笑みに見え不快だった。
「そう」
 ゆっくりとうなずくサリムを見ているうちに、先程二人きりで過ごした幸福感までが消えていくような気がする。やはり、サリムを迎えるのではなかったと後悔してももう遅かった。
「僕は君に言いたい事がある。いいだろうか」
 あえて、サリムは神人の子として、年長者としての口調を取った。サイファは受け入れる、と言うことなのだろうか、わずかに首を傾けて聞いている。
「僕は君が嫌いだ」
 彼らに漂う緊張感に戸惑っていたリィがはっとした。サリムを咎めようと思ったちょうどそのときサイファが口を開く。
「ようやく意見が一致したみたい」
「なに」
「私もあなたが嫌い。よかったね、最後で気の合うところが見つかって」
「サイファ、よせって」
「だって、嫌いだもの。私がいない間あなたをよろしくって言う気になんか、なれない」
「俺は自分で自分の面倒くらいみられるぞ」
「本当?」
 いたずらめいた口調。サイファのわざとらしいそれにリィは笑う。サリムに聞かせるためにしているのだと思えば微笑ましい。
「本当だ。俺を疑うのか、可愛いサイファ」
「リィ!」
 気恥ずかしい呼称を、リィがわかっていて使っているのを、サイファだとて感じないわけもない。だから戯れに打ちかかる。小気味よい音を立ててリィの肩を叩いたサイファは彼に向けて、彼だけに笑って見せた。
「それじゃ、行くから」
「たまにでいい。連絡くらいはしろ」
「もう、リィ。心配しすぎ。それほど気になるなら精神を引っ掛けておけば? できるでしょ、遠くても」
「お前を拘束するような真似はしたくねぇな」
「だったら待ってて。帰ってくるから」
「そのうちに、か?」
「そう、そのうちにね」
 ふっと笑ってリィの手にサイファは触れた。リィはその手に視線を落とす。彼が触れていたのはの指輪。だからリィもかすかに微笑みサイファの手にある彼の指輪に触れる。
「どうやって帰ってくるんだ? まぁ、お前はいつでも入れるがな」
 馬鹿なことを言っていると思う。少しでもサイファが行ってしまう時間を引き伸ばしたいのかと思えば未練加減に情けなくなりもする。
「面倒だもの、跳んでくる」
「待て、危ないことは……」
「しない。封印の間に通路を作ってあるもの。あとで確かめれば?」
 気づきもしなかったリィは愕然とする。確かに座標を取って転移するより、定められ魔法で加工した場所を目指して転移したほうが遥かに危険は少ない。それほどのことができるようになっていたのだとリィは知る。誇らしかった。
「それじゃ、行ってきます」
 そんな思いに囚われていたリィに、サイファは小首をかしげ近寄った。彼が不審を覚えるより先に。そう思ったのはやはり気恥ずかしかったから。
「サイファ!」
 リィの頬に軽いくちづけの感触。笑ってサイファは身をひるがえす。振り返りもしなかった。まるで二人きりであるかのよう振舞い続け、ついにサリムには視線も向けず行ってしまった。
 リィはじっと立ち尽くしていた。知らず、サイファが触れて行った頬に手を添えて。見えもしないのに、彼の姿を追っていた。
「リィ師が愛しているのは、サイファなんだね」
 聞こえた声も言葉も理解出来なかった。サリムの存在そのものを、忘れ果てていた。リィは黙って答えない。
「サイファは、知っているの」
 それから小声が聞こえた、知っているはずはないね、と。咄嗟にリィは振り返る。恐ろしい事に気づいた。神人の子に定められた時はない。自分が死んだあと、サリムが何を言うか。思っただけで背筋が冷えた。
「あれに一言でも言ってみろ」
「どうするの? 僕を?」
 それは確実に自分の命の長さを知っている声だった。サリムの顔に浮かんだ冷笑にも似た何かにリィは逆上する。振り向き様、自らの指を噛み破る。
「なにを……!」
 あふれる血を擦り付けるようサリムの指を掴んでいた。低く流れる詠唱の声。サリムが身じろぎひとつ出来ずにリィを見ていた。その顔にあるのは、恐怖だろうか、否。薄い笑みだった。が、呪文が完成した瞬間、サリムは呻き声を上げた。ありえないことと、表情が語っている。よろめいて、壁に手をつく。血の気を失った白い指が震えていた。
「そんなこと、できるはずがない」
 その右手の人差し指の爪が、どす黒く染まった。わななく唇からは、声にならない悲鳴が上がる。握り締め、目を閉じる。開く、黒い爪はそこにあった。激しく首を振り、サリムはリィを見つめた。
「人間が、僕たちに魔法をかけられるはずがない!」
「そう思っていればいい。何が起こったか、知りたいだろう? 聞かせてやる。よく、覚えておくといい。お前があれに告げるべきではないことを告げようと考えた瞬間、お前は石化する。死ぬ」
「ギアス……」
「制約の呪文。効果を自分の体で試すなよ」
「……解呪の方法があるはずだ!」
「聞きたいか?」
 リィはうっすらと笑みを浮かべる。たとえ仮初であったとしても体を重ねた相手に見せる顔では、なかった。
「ある物を爪にたらせばいい」
 感情の篭らない声で、けれど薄い笑みは張り付いたままリィは言う。サリムは壁側まで下がった自分の体に気づきもしなかった。
「おまえ自身の心臓の血だ」
 喉に詰まった悲鳴。サリムが自らの手を胸に当てる。その間にも爪は刻々と色を変え、そしてついには淡い桜色へと戻る。けれどサリムにはわかっていた。制約の呪いが消えていないことが。
「神人の子とはいえ、自分の心臓を抉り出して生きていられるかな?」
 そこに立つ、定命の人の子に浮かんだ冷たい笑みを、サリムは呆然と眺めるだけだった。




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