あの木の下に、サイファはいなかった。リィは少しだけためらったあと、小屋の扉を開く。暖炉の前、サイファが振り返った。 笑みを浮かべかけ、そのまま固まってしまったような顔。どんな顔をしたらいいのか戸惑うサイファにリィは何を言うことも出来なかった。 「朝食、まだなんでしょ」 サイファは暖炉に向き直り、それだけを言う。いやに懐かしい気がした。昔、この小屋に住んでいた頃はそうして食事の用意をしたものだった。リィも、サイファも。 「ずるしたけどね」 向こうを向いたままかすかにサイファが笑い声を立てる。わずかに離れた背後に立ち、リィは手元を覗く。場違いに微笑んだ。 「たいしたもんだ」 昔だったならば。ここには色々な食べ物があった。木々には果実がなり、蜂蜜もミルクも切らしたことはない。だが今は。誰も住まない感傷の地。 サイファはリィがいない間に彼が食べる物を取り出していた。無論、魔法で。リィに習ったとおりに。今頃、塔の厨房からはそれなりの物が消えていることだろう。 「そう?」 「あぁ」 言葉少なな会話とも呼べない言葉。けれどリィはサイファの心が緩んだのを知る。それはつらいものだった。決心してしまったのだ、彼は。出て行くと、たとえ止めようにも止められないほど、固く。 「サイファ」 そっと肩に手を置いた。そのようなことをしたいのではなかった。以前のよう戯れでもいい、抱きしめたかった。けれどリィの手はそれ以上、動かない。 「ごめんな」 突然の言葉にサイファは手を止め、そして留まる。じっと動かずリィの言葉を待っていた。だがリィは何も言わず佇むばかり。 「なにが?」 「お前に嫌な思いをさせちまった」 「うん」 「サイファ……」 「嫌だったもの、とても」 言ってサイファは目を閉じる。ふたり暖炉の前、微動だにせず。サイファの脳裏にまざまざと蘇るのは昨夜の景色。 「ねぇ、リィ」 いつもならば、呼べば答える。ちゃんと聞いているよ、とばかりに聞こえてくる声。いまは何も聞こえない。 「サリムが、好き?」 「だから!」 「待って、聞いて。あなた、私のこと前みたいな呼び方、しなくなったね」 激高しかけたリィの背筋に浴びせかけられた冷たい物。リィは言葉もなくサイファの髪を見つめていた。 「サリムとは、いつから?」 「それは」 「答えて」 「……かなり、前になる」 「気づかなかった」 「気をつけては、いたからな」 「……そう」 気のない返事をし、サイファは大きく息を吸う。そして顔だけわずかに振り向けた。 「だから呼ばないの、私のこと?」 問い詰められているのだろうとリィは思う。口調は間違いなく詰問のそれ。だがサイファは笑っていた。いたずらをするよう、リィが咎めるのを待つよう。 リィは閉じてしまいたくなる目を必死でこらえた。これほど嬉しいことがあってよいものだろうか。サイファは知りもしないだろ、それが幼い嫉妬であるなどとは。 だから、サリムを抱いたのかもしれない。突然、自分の行動をリィは理解した。同じ神人の子。どこかサイファと似た面差しを持っているサリムを抱いた、そう思っていた。そのはずだったのに、彼に知られてしまってはじめてわかる。嫌がって欲しかった。ただ、それだけだった。 「……可愛いサイファ」 絞り出すような声に今度こそサイファが声を上げて笑う。 「別に、無理しなくてもいいけど」 「違う。お前が……嫌がるから」 「サリムに、じゃなくても他の誰かに聞かれるのは嫌。でも今は?」 「可愛いサイファ。ごめんな」 「嫌。今は許せない」 ふっと顔を元通り暖炉に向けてしまう。リィは彼の言葉が信じられない。彼は理解して言っているのだろうか。すぐに自答した、違うと。まるで恋人を責める甘い言葉。が、サイファは意図して言っているはずもない。 はっとした。サイファの手が肩に置いたリィの手に重なった。緊張に震えたくない。リィはそっと目を閉じ深い呼吸を繰り返す。 だから、何が起こったのかわからなかった。あたたかい物がここにある、腕の中に。震えを止めることもできず目を開けた。 「サイファ……?」 ぎゅっとローブの胸元を掴んでいた。胸に顔を埋め、何かに耐えるよう、強張っていた。 「どうした、可愛いサイファ」 自然に、そう呼べた。嘘のようだった。サリムと関係を持って以来、努めて避けてきた呼び名。彼と二人きりのときであっても呼ばなかった。よもや気づいているとは思いもしなかったものを。 サイファとはまるで違う神人の子、サリム。しかし彼の体に流れるのもまた、同じ血。サイファとは違う。わかっているのにリィはサリムにサイファの面影を求めた。そう思い込んでいた。 サリムが、サイファより遥かに年上であった、それが間違いの元であったのかもしれない。サリムはリィに惹かれた。リィ自身、どこが良かったのか少しもわからない。 醜いと思う。サリムの思いを利用した。ただ一人、求める者を手に入れる代わりに、よく似た別の者を手に入れた。 「リィが、人間だって、忘れちゃうの」 自嘲と言うにはあまりに重い物思いに沈んだリィの心にサイファの声が届いた。 「どういうことだ?」 「あなた、人間だもの。誰か好きになるんでしょう? 人間って、いつも誰かと群れてるものね。私にはよくわからない。私たちも誰かを好きになることはあるって聞くけど、わからない。まだ……子供だからかもしれないけど」 わずかに言い淀んだのは、子供と認めたくないせいか。それがリィを煽り立てる。拳を握り締めて、堪えた。そんなリィに気づきもせず、サイファは言葉を続ける。 「わからないけど、あなたが誰かを好きになったら、祝福できると思うの。でも、いまはだめ。いまは嫌。だから、私は出て行くの」 「待て、サイファ」 「ほんとはね、それだけじゃない。サリムのことはきっかけって言ったでしょう。あなたの手助けがしたい。早く大人になりたい。時間は変わらないから、少しでも世界を知りたい。すぐに大人になれないから、だから」 「そのままでいい」 「私が嫌なの」 「なにがだ」 「……わからない」 サイファはそう言って言葉を切った。嫌がるか、とも思った。けれどリィは精神を接触させる。サイファは望んでそれを受け入れた。そしてリィは知る。嘘偽りなく、サイファは真実を語っていた。恐れと共に見つけたのは、たった一つの温かいもの。 「私はリィが大好き。知ってるでしょ」 「あぁ、知ってるよ」 「そうか、だからかな。サリムと仲良くしてるの見たくないもの」 「お前が……」 「待って。いいの、サリムがあなたといてもいいの」 「どうして」 「聞いてる? きっかけって言ってるじゃない。私は塔を出てみたい。世界を見たい。あなたはここで私の帰りを待っててくれるでしょう? だから、安心してどこにでも行かれる」 そしてサイファはほっと体の力を抜いた。それはまるでここ、と言った場所が塔ではなく、リィその人であるかのように。 「可愛いサイファ、お前が望むなら……」 「望むの。だから、一人で行かせて」 「先走るなよ」 「大好きなリィ。ちゃんと帰ってくるから」 サイファの指が緩んだ。と、それは背中に回された。促されているのだろうか。リィはためらいながらサイファを抱きしめる。今までぼんやりと立っていたのが信じられないほど、自然だった。 はじめて、後悔した。何もかも捨てればよかった。野心など、持たなければよかった。サリムなど、迎えなければよかった。サイファと二人、静かに生きて、塵と消えればよかった。 「……わかったよ」 ひるがえすことのできないサイファの願いにリィはうなずくより他にない。このような形で彼と離れるとわかっていたならば、決して無駄な時間を過ごしはしなかっただろうに。 「いつごろ、発つんだ?」 せめてそれまで、側にいたい。忘れるはずもないサイファの姿を目に焼きつけておきたい。腕の中、神人の子が笑い声を上げた。 「あなたが、朝食を食べたらね」 「おい、待て。そんなに早く」 「だって、ぐずぐすしてたら、あなた、寂しくなっちゃうでしょ?」 笑って見上げてくる良く晴れた夏空色の目。何のわだかまりもなかった。サリムのことを責めてもいない。それがわずかに哀しい。 「可愛いサイファ。もう寂しいよ」 切なさを隠すことはしなかった。別れゆえのそれだと、思ってくれるはずだから。リィはサイファの目を覗き込む。ほんの一晩で、大人びた目をするようになった。 「だから、行くの」 無理に、笑っているよう気がした。リィはそっとサイファの髪を撫でる。嫌がりはしなかった。 「可愛い俺のサイファ」 「なに?」 「お前も……」 言い差して、やめてしまった。不意に言葉を止めたリィを見上げれば、遠くを見ていた。だからサイファはしがみつく。 「寂しいに、決まってるじゃない」 絞り出すような声は、どこかでリィに習ったとしか思えないようなそれ。 「そうだな」 ならば行くな、とはもう言えなかった。リィはサイファの前では男の顔をしないと決めたその日から、この別れがくることは決まっていたのではないかと思った。大きく息を吸う。師として、愛弟子を送り出すための心を決める。それだけのために。 「さぁ、可愛い俺のサイファ。朝食にしよう」 |