夜中、まんじりともしなかった。元々人間ほど睡眠を必要としない神人の子であった。眠る必要などないと言えばない。
 だが、普段は眠るのだ。人間と同じように。リィのベッドに潜り込んだ晩はいつも。サイファは朝日が射し込んでくる窓をじっと見つめていた。
「器用」
 ふと微笑う。魔法空間に擬似再生されたあの森の景色。魔術師リィ・ウォーロックが手がけたこの場所は当たり前の空間のよう、日が昇り月光が射す。
 いつか、これほどの使い手になりたいと思う。そのときにはリィの手助けが充分に出来ると思いたい。
「やっぱり、行こう」
 決心して、体を起こした。一晩、考えていた。いま出て行くと言えば、リィが気にするかもしれないとも思った。けれど今を逃せば決心が揺らいでしまうような気もする。
「出て行きたいわけじゃ、ないものね」
 少し微笑ったサイファを見たならば、リィは愕然としたことだろう。それほど大人びた顔をするようになっていた。たった一晩。神人の子にとって一晩とはどれほどの時間だろうか。子供が大人になるには、それで足りるのかもしれない。
 ゆっくりと小屋を出た。リィになんと言って切り出そうかと考えながら部屋の扉に手をかける。まだ、ためらっている。それをサイファは笑い扉を引き開けた。
「リィ……」
 そこに彼がいた。憔悴した顔をしていた。こんな顔はいまだかつて見たことがない。
「話がしたい。いいか?」
「……入ってくればよかったのに」
 それほど強力な封印をしたわけでもない。彼が入りたいと思えば入れたはずだった。
「お前の意思に逆らいたくなかった」
「そう……」
「サイファ」
 話そうと思っていたことがまるで口から出てこなかった。ただうつむくばかりで、何も言えない。
「私も、話したいことがあるの」
 ようやく、それだけを言った。リィが息を吸う音が聞こえる。視線を向ければ、すぐに彼は目をそらす。
「リィ」
 何かを言いかけたサイファの言葉が止まる。はっとしてリィが目を向ければサイファの険しい視線にぶつかった。が、それは自分を見ているのではなかった。廊下の向こうから、サリムが歩いてきていた。
「中で」
 それだけを言ってサイファは身をひるがえす。扉の向こうに消えていくサイファをリィは追った。振り返りもせずに。
 小屋の前、サイファが背を向け佇んでいた。背後からでもわかるその苦悩。サリムのことで悩んでるのかと思えばリィの胸には暗い歓喜が湧き上がる。
「入らないのか」
 声をかければ黙って歩く。一本の木の下に腰を下ろした。リィは口許に仄かな笑みを浮かべる。擬似再生された景色。あの樹木もそうだった。サイファが昔、リィの木、と呼んだ木。
「リィ」
 逡巡していたリィをサイファが呼んだ。隣に座れと促している。そう言われるまで、動くこともできなかった自分に気づいてリィは苦く笑った。
「あなたの話しから、して」
 視線も合わさずサイファは言い、抱えた膝の間に頭を伏せた。リィは言葉に詰まる。言い訳を考えていたはずだった。そして今更なにを言っても仕方ないことにようやく気づいた。
「リィ」
「うん?」
「サリムを……」
 サイファが言いかけたとき、リィはその手に触れかけた。はっとしてサイファが顔を上げ体を引く。リィは少しだけ笑って手を引く。自業自得だと、心で嗤いながら。
「お前に軽蔑されるのは、覚悟の上だ。聞くか?」
 やっと、言葉が出てくる。自分で思ったほど、毅然とした声が出たかは疑問だった。
「リィ」
 サイファの厳しい声が呼ぶ。じっと彼の目を見返した。
「あなた、ずるいよ」
「なにがだ」
「私がそれくらいのことであなたを嫌うわけがないことを知ってる。それなのにそういう言い方は、ずるい」
「だがな……。お前、なにしてたかわかってるか」
「そこまで、子供じゃないもの」
 かすかにサイファの声が震えた。嫌悪だろうか、羞恥だろうか。思い惑うリィには区別がつかなかった。
「そうか……。なら、やっぱり軽蔑するだろうよ」
「あのね、リィ。私はよくわからないけれど、でも好きならああいうことがあってもおかしくないってことくらいは、わかってるの」
「別に好きだからしたわけじゃない」
「リィ……!」
「だから言ってんだろ。軽蔑するってな」
「だって、サリムは」
「サリムも。と言うより、サリムは知ってる」
 その言い方が、癇に障った。自分に言わないことをサリムに言うのか、と思えば腹立たしい。サイファはリィから視線を外し、どこでもない遠くに視線をさまよわせる。
「俺がサリムに惚れてないことは、よく知ってる」
 だから、リィがなにを言ったのかわからなかった。気づけば呆然とリィを見ていた。
「どういうこと」
「サリムは俺に惚れてるらしい。俺はどうも思っていない」
「じゃあ、なぜ」
「惚れてなくても抱ける」
 きっぱりと言いきったリィをサイファは何か知らないものでも見るような目で見ていた。そこにいるのは、サイファの知らない一人の男だった。
「サリムは」
「それでいいんだそうだ」
「わからない……」
「俺にも、わからん」
「そう」
 意味のない言葉だった。会話にもなっていない。途切れ途切れ言葉のやり取り。それでも二人の間に薄く張った膜が破れていく。
「お前の話は」
「うん」
「済ませちまわないか?」
「リィ」
 ふっとサイファが笑う。一瞬、以前の子供の顔をした。リィはそう思い目をみはる。思えばいまのサイファは幼い顔をしていなかった。
 彼に見えないよう、手を握りしめる。大人になど、なって欲しくなかった。ずっと、幼いままでいて欲しかった。いつか自分の思いを受け止められるようになって欲しい、そう思う反面リィはこのままでいて欲しいと痛切に願っている。拒絶されるよりは、師弟でいたい。ぬるま湯であっても、氷水よりはましだった。
「ちゃんと、聞いてくれる?」
「当たり前だ」
「怒らないでよ」
「……努力はする」
「リィ、真面目に」
「本気だよ。その前に」
「なに」
「……怒らないってな、お前はどうなんだよ」
「え?」
「怒って、ないのか」
 それだけが、聞きたかった。リィの目にあるものを、サイファはなんと見たことだろうか。何も言わずに目を伏せた。
「怒ってただろ」
「どうしてそう思うの」
「封印してたからな」
「破れたでしょ」
「そう言う問題じゃない」
「……怒ってたのかな。わからないの」
 サイファの曖昧な答え。それで充分だった。やはり、この幼い神人の子は、性愛の意味など何も理解していない。
「でも、嫌だった」
「サイファ?」
 だからリィは驚いた。嫌だと、言うとは思ってもみなかった。ありえないものを見て、恐慌状態に陥っただけだとばかり、思っていた。
「あなたとサリムが一緒にいるの、見たくないの」
 ふっと視線をそらす。どこを見ているのだろうか。視線の先を追ったリィは何も見つけることは出来なかった。
「だから……」
「そうじゃないの。昨日のことは昨日のこと。その前からね、考えてはいたの」
「サイファ、待て」
「待たない。私、塔を出ようと思ってる」
「サイファ!」
「ずっと考えてたの。サリムのことはきっかけのひとつ」
「お前……」
 馬鹿みたいな言葉しか、出てこなかった。サイファがそのようなことを考えていたとは、想像もしなかった。もしも知っていたならば、サリムになどかまう暇はなかっただろう。リィは自嘲し、目を閉じる。
「塔を出ようと思ってる。反対しないでね」
 かすかに笑ったサイファがそこにいた。咄嗟に彼の手を取った。振り払われた。愕然とする。二人ともが。払ったサイファ自身、自分のしたことが信じがたかった。
「やっぱり……」
「違うの」
「なにがだ」
「……リィじゃない、匂いがする」
 婉曲な言葉。リィはほころびそうになる頬を引き締めながら立ち上がる。
「待っててくれるか?」
 うなずく彼を残し、部屋を後にした。浴室に急ぐ。当然、体は清めてある。だが、どこかでサイファはサリムの残滓を嗅ぎ取った。湯を沸かすことはしなかった。冷たい水に体を浸し、芯まで冷えてしまうまでそうしていた。
「サイファ」
 彼がサリムを嫌がった。それが嬉しい。酷い男だと思えばいっそ笑えてしまう。リィは冷たい水を顔にかぶって思考を払う。水から上がったリィは上から下まで真新しい衣服に身を包む。サイファのために。
 彼が塔を出ると言う。サリムを側に置くようになっていつかは来るかもしれないと思っていたことではあった。幼い神人の子にとっては、嫌悪でしかない情交のはずだった。だが、彼は違うことを考えているようでもある。リィにはそれがわからない。これほど惑ったことはなかった。だから、見たものがすぐさま理解出来なかった。
「サリム。なにをしている」
 小屋の部屋の前、扉に手をかけサリムが一心に封印を破ろうとしていた。集中していたのだろう、リィの存在に気づきもせずに。
「お前に破れるような代物ではない。離れろ」
「サイファと話したい」
「あれが出てくる気になるまで待て」
「僕は、入りたい」
「許さない」
 じっと、視線をかわした。互いに何も言わない。けれどそこには言葉以上のものがあった。サイファが見たならば愕然とするだろう冷笑をリィは浮かべ、無造作に扉に手をかけ入り込む。
 と。リィが入った隙間にサリムが肩を押し込んだ。リィは見もしなかった。向こうの壁に叩きつけられる音がしたというのに。
「無様な、俺だ」
 呟いたリィの背後、廊下に崩れ失神したサリムの前で扉が閉まった。




モドル   ススム   トップへ