サイファの日常は変化せざるをえなかった。まず朝の日課をしなくなった。掃除や洗濯、様々な雑用。それらからサイファは解放された。
「つまらない」
 誰にも聞こえないようサイファは呟き、呪文室へと向かう。魔法の練習と研究しか、することがない。いまは爆炎の魔法を効率よくかける方法を研究している。憂さ晴らしでもあった。
 目標に向かって直線に飛ぶのではなく、背後から撃つように。先端で、幾筋にも分かれるように。リィはサイファがなにをしているか知ってはいるはずだが、何も言わなかった。
「夢中だものね」
 どこか拗ねた口調でサイファは言う。呪文室の壁は答えない。
 リィの塔には新しい住人が増えていた。あれから、すぐのことだった。サイファがこれ以上悩まずにすむよう、リィはすぐに弟子を迎えた。だが、それにサイファは衝撃を受けた。
 誰を迎えるのか、選ぶ時間があると思っていたのだ。けれど、それは間違いだった。リィはすでに選んでいた。数日後、彼は塔を叩きそして今に至る。
 加えて驚いたことがもうひとつ、あった。新しいリィの弟子は神人の子だった。サイファと同じ種族の者。なぜかサイファはリィが迎えるのは人間だと思い込んでいた。
「なんか、嫌」
 溜息をつき魔法を放つ。以前だったなら、これほど動揺しながら放った魔法は無様に失敗したことだろう。
 けれど今のサイファはたとえ集中を多少欠いたとしてもほぼ正確に発動させるようになっている。それにも苛立つ。
「いっそ、失敗すればよかった」
 そうすれば、リィが飛んできてくれるかもしれない。まだ頼りない弟子だと、思って欲しい。漠然とサイファはそんなことを思っていた。
 リィは新しい弟子にかかりきりだった。当然だと思う。自分も、リィから習い始めた頃はあのようにみっしりと教えてもらっていた。だから、つまらないなどと思うのは見当違いなのだと、わかってはいる。
「でも、つまらなもの」
 一人で練習するのは飽きてしまう。魔法の研究も、話し合う相手がいなくては、つまらない。それでもサイファは研究をやめはしなかった。いつかリィが聞いてくれた時のため、得々として成果を話せるように。
 立て続けの魔法に体よりも心が疲れてしまった。サイファは呪文室を出て書庫へ向かおうと足を進める。と、精神に触れるものがあった。
「リィ?」
 ふっと心が軽くなる。彼が呼んでいた。サイファは足取りも軽く居間へと方向を変える。
 新しい弟子が来てより、リィはこのような呼び出し方をすることが多くなった。以前だったら、声の届く範囲にいた、と言うことが大きいけれど、それでもサイファはかまわない。精神を接触させれば、リィが新しい弟子にはそのような接触を許していないことがよくわかるから。
「できるはずなのにね」
 呟いてかすかに微笑う。神人の子にとって、難しいことではなかった。サイファにできたことが、彼にできないはずがない。
 居間の扉を開けたとき、軽くなっていた気持ちが途端に沈んだ。新しい弟子が、茶を淹れていたのだった。
「お前も休憩しな。疲れただろ」
 リィがわずかに疲れた顔をしてテーブルの向こう側に座っていた。
「別に。大丈夫」
「まぁ、そう言うな。なにしてた?」
「呪文の研究」
「成果は」
「たいして」
 そっけないサイファの言葉にリィは苦笑する。まだ機嫌は直らないのか、とはさすがに言えない。そのようなことを他者の前で言ったなら、二度と口をきかなくなってしまうかもしれない。
 運ばれた茶に目礼だけしてサイファは口をつける。やりにくいこと甚だしかった。新しい弟子は、神人の子で、しかもサイファより年が上なのだ。彼がきたときリィは言った。
「彼はリィ・サイファ。お前より年は下だろうが、兄弟子として敬ってもらう。兄弟子とは言ってもすでに独立を許している、魔術師だ」
 と。その時はじめて魔術師としての名を呼ばれサイファは少し、寂しくなった。彼の名をもらった。実感して嬉しくなかったとは言わない。けれどどこか彼との間に溝ができてしまった気もした。
「神人の子の年がわかるとは、珍しい」
「サイファがやりにくそうだからな」
「だろうと、思う」
「それは改めろ」
「なにを」
「口調。師に対する口のきき方を考えろ。無論、サイファに対しても」
 厳しい声音で言ったリィにサイファは心の中で驚いた。自分はそのようなことを言われたことはただの一度もない。落ち着かなくも、嬉しかった。自分はまだリィの特別なのだと思うことができた。
 一瞬顔を強張らせ、けれど新しい弟子はそれを受け入れサイファにも丁寧な口を聞くようになっている。何か冷たいものが混じっている気がして、嫌なものだった。
「お茶をもう一杯……要りますか」
 こんなことを思っているうち、彼の声が響いてサイファは夢想を破られる。
「必要ない。……ありがとう、サリム」
 視線を上げれば、わずかに険のある目があった。リィが何も言わないのだから、とサイファは黙って目をそらす。
 リィは年上だとしか気づいていなかったようだけれど、サイファにはわかっている。サリムは自分より遥かに年上だった。そろそろ成年に達する頃だろう、と見ている。
 そのような神人の子が、人間に魔法を習うなど、珍しいを通り越して論外ですらある。生来、神人の子はある程度は魔法が使えるものだ。そもそもなんであれ、人間に教えを請うなど。
 誇り高い神人の子。幼いうちから人間と関わることを拒絶しがちだけれど、成年に達する頃から神人の側近くに仕える者が圧倒的に多い。つまり、人間社会に姿を現さなくなる。
 サリムはそういう意味でも、異端児だった。さらにサイファが信じがたいことに、サリムは髪を短くしていた。短いといってもリィのよう、刈っているわけではない。神人の子の常として艶やかな黒髪を、首筋をわずかに覆うばかりに切りそろえている。サイファと違い、波打つサリムの髪が白い首筋で揺れるのは綺麗だったけれど、サイファは目をそらしたくなってしまう。
 他者の肌を見るのは苦手だった。さらすのはさらに苦手だった。それが当たり前の神人の子の感覚だった。サリムは首がさらされても、平然としている。
 不思議と言うより、おぞましい。リィに言えば怒るに決まっているから、サイファは口が裂けても言わなかったけれど、そう思ってしまうのだけは、避けられなかった。
「リィ」
「うん?」
「書庫に、いるから」
 言うだけ言って、席を立つ。サリムには茶の礼に視線を向けた。彼もまた、黙って視線を返してくるだけ。それでよかった。何かを言われたら、反って気色が悪いくらいだった。
 居間を出る背中をリィの視線が追っている。サイファはそれを感じながら扉を閉めた。
 漠然と、塔を出ることを考えていた。リィとの間に溝ができてしまったと感じたわけではない。確かにサリムが来たことによって、自分たちにはある種の隔たりができてしまった。だが反ってそれがサイファの目を開かせることにもなったのだ。サイファは思う。いまの自分ではリィの役に立たないのではないか、とそう感じはじめたのだった。
「もっと、世界を知りたい」
 そのために塔を出る。言えばリィは何と言うだろう。止めるだろうか、送り出してくれるだろうか。サイファにはわからなかった。
 そしてきっかけは、劇的な形で起こった。
 サリムが来てから、サイファはめったにリィの寝室を訪れなかった。やはり、気恥ずかしいのだ。リィと二人きりならばかまわない。けれど同族にそのような姿を見られるなど、サイファの誇りが許さなかった。
 塔を出る。そのことを考えはじめてサイファは自分が思ったよりずっと動揺していることを知った。リィの側にいるために、リィの側を離れる。
 それが自分にできるのか、リィがそれを許すのか。許さなかったならば、どうするのか。考えはじめたらどうしようもなくなった。気づけばリィの寝室の扉に手をかけ、開けていた。
「リィ……?」
 目にしたものが、何を意味するのか理解出来なかった。白い物が二つ。体だと気づくまで、時間があった。ひとつはリィ。もうひとつは。
「サリム……」
 リィのベッドの上、サリムがサイファを見つめていた。射抜くような青い目。リィの首に絡んだ細い腕。
 勢いよく扉を閉める。リィが何かを言っていた気がした。サイファには聞こえなかった。塔の中を駆け、震える手で扉を開く。サイファの安住の場所。扉を閉める。青い草の匂いがした。何度か呼吸を繰り返し内側から、封印した。なぜ、そんなことをしたのかわからない。リィならば簡単に破ってしまうだろう。それでもサイファはそうせずにはいられなかった。
「リィ、どうして」
 膝をつきそうになる体を必死で起こし、小屋の中へと入り込む。居間を抜け、そして手が止まった。リィのかつての寝室。息を吸う。吐く。扉を開けた。
「リィ」
 冷たいシーツに触れてみる。リィがサリムを愛したとは信じられなかった。
「私じゃ、なくて?」
 はっと息を呑む。そのようなことを望んだことは一度もない。いまも、望んでいない。リィの腕の中で眠るのは好きだけれど、あのようなことは。
「嫌……」
 首を振ってうつむいた。そして決心した。やはり塔を出ようと。リィの手助けするために、一人前になりたいと思っていた。そのために世界を知りたかった。けれどいまは。
「邪魔、しちゃうもの」
 呟いてサイファはリィの枕に顔を埋める。リィがサリムを愛するのを見るのは嫌だった。自分がサリムに成り代わりたいと思っているのではない。ただ、嫌だった。
「出て行こう」
 ぽつり、言う。その顔は少しだけ微笑っていた。そしてサイファはリィのベッドに潜り込む。一人きりで。冷たいベッドに。もうひとつのリィの寝室は、温かいだろうとどこかで思って首を振る。いまはもう、ほとんど使っていないこのベッドに、リィの匂いはしなかった。




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