腕の中、サイファがいた。なぜか、見下ろしている。
「あぁ……」
 気づいた。圧し掛かっているのか、と。体の下から見上げてくるサイファの、薄い笑みが思考を焼く。触れ合う肌の感覚。知らないものではない。
「リィ?」
 甘い呼び声。聞き慣れて、それでいて知らない声。貪るよう触れた唇は、まるで知らないものだった。
 触れるたびに仰け反る体、執拗に愛撫を重ねた。サイファの悲鳴が耳に刺さる。拒絶ではないそれは、リィを焼き尽くした。


 飛び起きた。びっしりと、汗をかいていた。
「冗談じゃねぇ」
 額を拭う。まだ真夜中だった。嫌な夢を見たものだとリィは思い込む。願望が、そのまま夢になった。ぞっとして己の肩を抱いた。そして嘲笑。
「この年で……笑えねぇな」
 ベッドから覚束ない足取りでリィは降り、体を清めて下着を変えた。汚れたそれを万が一にもサイファの目にさらさないよう掌の上、炎に包む。一握の灰と化した物を窓から投げ捨て、嘲笑う。
「サイファ……」
 今夜、サイファがここにいなくて本当によかったとリィは思う。動揺するたび、サイファはリィのベッドに潜り込む。今夜こなかったのは正に僥倖。
 性愛の意味も理由もわからない幼い者に触れるなど、してよいはずがない。記憶に残るあの一夜。リィは苦く嗤って思い出す。
「二度と……」
 たとえ肌に触れなくとも、するつもりはなかった。仮に甘えたサイファが平安を欲して望もうとも、拒むべきだとリィは思う。
「大人の責任ってやつかね」
 夜気にも甘い風が窓から入る。風を受けてなびく黒髪が、見えた気がして目を閉じた。
 そして気づいた。悪夢に目覚めたわけではなかった。
「サイファ」
 リィは頭を巡らし、彼を視る。小屋の封印が変化していた。
「幸運、だな」
 ぽつり呟き苦笑して、リィは扉を抜けては足を進める。リィの許に来たかった。けれどサイファは来られなかった。思い悩みすぎて、一人になりたい。けれど一人でいられない。だからサイファはあの小屋にいる。
 リィは歩きつつ深呼吸を繰り返していた。決して夢の残滓を彼に捉えられてはならない。扉の前に立ったとき、それはさっぱりとリィの体から、思考から、拭い去られていた。


 サイファは一人、小屋にいた。リィの寝室で休むこともできず、暖炉の前でぼんやりとしている。
 不安だった。昼間、リィが言った言葉がサイファを苛んでいた。
「新しく、弟子を取ろうと思ってる」
 いつもより厳しい顔をしていた。それでサイファは、もう決まったことなのだと知った。リィが自分以外に魔法を教える。どこかでいつか来る、とおぼろげに知っていたと思う。けれどいまだとは思わなかった。
「いつなら良かったんだろう」
 リィが聞いたこともない、サイファの笑い声だった。二人とも、知れば驚くことだろう。最前リィが上げた自嘲の声と変わらない響きを帯びていたのだから。
 サイファも理解はしている。リィが魔法を体系付けて、誰もが学ぶことのできる学問にしたがっていることを。そして自分もそれを見たいと思っている。
 だから、必要なのだ。弟子を取り魔法を広める。自分ではない誰かにリィが教える。頭では、理解している。
「嫌なんだもの」
 呟き声は炎の爆ぜる音にかき消えた。
 魔法を教える、と言うことがどういうことなのか、サイファは身をもって知っている。親密で、濃厚な時間をリィは誰と共有するのだろう。それを思うと落ち着かなかった。かといって、自分一人のものにし続けておくわけにもいかない。
「でも、嫌」
 抱えた膝にサイファは顔を埋め、唇を噛む。いつか死んでしまうリィ。その前に、たくさんのことをさせたいとサイファは思う。リィの願いを叶えたい。自分ができることならば何でもしたい。
「リィ」
 そのことがリィを自分から離れさせることになると知っていたら、どうしただろう。サイファは考え、首を振る。きっと同じことをしたに違いない。
 溜息をついて炎を見つめた。人間の死は不可逆的な現象だと、サイファはまだ本当の意味で知ったわけではなかった。ただ、リィがいなくなるかもしれない。そのことに恐慌めいた感情を持っただけだった。
「リィ」
 遠い先、とリィは言う。ならばきっとそうなのだろう。その間に、いったい何人の弟子を持つのだろう。自分だけのリィでなくなってしまうのはいつなのだろう。
「早いほうが、いいな」
 抱えた膝にまた顔を埋める。呼吸ができないほど、苦しかった。
「なにがだ?」
 はっと体を硬くしたサイファの背後に温かいもの。リィがそこにいた。
「なんでもないの、放っておいて」
「だめだ」
「嫌。放っておいて」
「だめって言ってんだろ。どうした?」
「いいの」
 埒があかない会話にリィは苦笑する。嫌がるサイファを無理やり抱き寄せ、真正面から顔を見る。唇を噛んだ跡が、残っていた。
「噛み切っちまうぞ」
 柔らかい唇に触れた。一瞬、胸が詰まる。けれどほんの瞬きほどの間のこと。リィは男の顔を捨てた。
「すぐ治るもの」
「そう言う問題じゃねぇだろ」
「じゃあ、なに」
「俺が、お前が怪我してんのを見んのが嫌だ」
「見なきゃいいじゃない」
「可愛いサイファ。憎まれ口をきくんじゃない」
「だって」
「いいから。どうしたんだ?」
 わずかに、口調が緩んだのを感じる。掴んでいた肩から手を離し、そっと抱く。今度は抗わなかった。
「いつ、なの」
「なにがだよ、質問は的確にはっきりと」
「だから、新しい誰かがくるの、いつなのかと思ったの」
 サイファは言葉を発する前、一度目を閉じた。そして決心する。リィのしたいようにさせたい。
「早いほうがいいな、と思ったの。仲良くできるといいなって」
 わずかに声が震えた。リィでなければ、聞き逃しただろう。けれど聞いたのはリィ一人。そっと口許に笑みが浮かんだ。
「嘘つきやがれ」
「なにが!」
 はっと上げた顔に走る動揺をリィは見た。嘘のつき方など、教えていない。無垢な神人の子にリィは微笑む。
「弟子取んのが嫌なんだろ、お前は」
「そんなことない!」
「なにが嫌なんだ? 誰が来ようが、お前は俺の可愛いサイファだろう?」
「……じゃない」
「うん?」
「魔法、教えるじゃない」
「まぁ、そりゃあ、なぁ」
「嫌なの」
 叩きつけるよう、サイファは言った。今度こそ、はっきりと唇が震えている。これ以上の言葉を引き出すことはできない、リィは見定め緩やかな精神の指先を彼に伸ばした。と、物凄い力で引き寄せられた。乱暴な態度に苦笑する。それほど、嫌なのかと思えばいっそ微笑ましくて嬉しい。
 繋がった精神に、リィは知る。サイファの誤解を。自分たちの間に他者が入り込むことを嫌っていることを。ありえないことにリィは笑った。
 場違いに明るい笑いの響きに、サイファは不快そうに精神の接触を解く。間違いなく、笑い声だった。心の中では間違えたくともできない。
「なにが、楽しいの」
 自分がこんなに嫌な思いをしているのに、リィはそのどこが楽しいのか、問い詰めたくとも言葉が出ない。心を繋ぐのも、いまは不愉快でできなかった。
「お前の誤解がな」
「どこが」
「色々と」
「はっきり言って」
「ひとつ。お前に教えたようなやり方で魔法を教えることはない」
「どうして」
「あとでな。次。俺とお前の間に入り込める奴なんかいるもんか。人間だろうが、神人の子だろうか。神人だとしたってな。ありえない」
「……リィ」
「最後。俺はまだ死なないっての。お前が時間忘れるくらいは充分にある。気にすんな」
「リィ」
「納得したか」
「……まだ、聞いてない」
「うん? あぁ、方法か?」
「そう」
 見上げてきた目から嵐の影は薄れていた。リィは安堵の息をつく。こんな目で見られるから、たまらないのだとはじめて気づいた。あるいは、だから弟子を取ろうと今頃になって決心したのかもしれない。
「普通の勉強と同じようにする」
 努めて普通の口調を作り、リィは続けた。精神の接触など、最小限しかするつもりのないことをサイファが納得できるまで。
「どうしても避けられない場合もあるからな」
「どんな」
「未熟者が真言葉の発音間違えて俺まで蒸し焼きになったりしたくねぇからなぁ」
 笑い飛ばせばほっとした気配が伝わった。あのような濃密な接触を誰にでも易々と許すものか。リィは苦く笑った。それを知らないでいて欲しかった。いつまでも、できることならば自分が死ぬまで。
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「できるの」
「お前なぁ、お師匠様をなんだと思ってるんだよ」
「いつ、そんな方法考えたんだろうと思ったの」
「お前が……」
「なに」
「……付与魔術に夢中になってる間、かな」
 それほど前なのか、と愕然とした。ずっとサイファは知らずに来た。少なくとも、自分が受け入れる気になれるまで、リィは待ってくれたのかとも思う。
「楽しみ、新しい誰かが来るの」
「嘘つけよ」
 サイファは言い返さなかった。




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