リィは悩んでいた。いつまで経っても答えなど出せない。切り出すことができない。そのまま時間だけが過ぎていく。 「リィ」 「なんだ?」 「無精ひげ」 さも嫌そうに言ってサイファは笑い、リィの頬に触れた。いまだ変わらずリィの塔で二人は暮らしている。卒業の証を与えたとは言え、サイファは離れることを望まなかったし、リィもまた彼を手放したくはなかった。 「また伸びてたか。剃ってこよう」 肩をすくめて言うリィの目の前でサイファが首をかしげていた。 「どうした?」 じっとサイファが自分を見ていた。何か、落ち着かない。まだ触れたままの手がいっそうそれを煽る。 「可愛いサイファ、どうしたんだよ」 「ねぇ、リィ」 「うん?」 「ずいぶん経ったね」 「なにがだよ、急に」 リィは笑った。サイファの唐突な言葉に慣れていたけれど、自分の無精ひげを見て言うのは何やらおかしかった。 「ここに来てから、百年経ってるんだ」 ぽつり、サイファは言った。リィはおかしくなる。やはり彼にとって時間とは百年単位で計るものらしい、と。 「そうだな」 言ってリィはサイファの手を取る。彼は首を振り、再び頬に手を当てた。 「どうした?」 「リィ……」 「うん?」 なにを言いだしかねているのだろうか。リィは不思議に思った。困った顔をしたサイファを抱き寄せれば、胸に擦り寄ってくる。いつもと変わらなかった。 「あなた、幾つになったの」 胸元から小声が聞こえた。はっとしてリィはサイファの目を覗き込む。 「サイファ?」 「ねぇ、リィ。どこにも行かないよね。あなた、死なないよね」 「どうしたんだよ、サイファ」 「あなたのひげ……」 言葉を切ってサイファは胸に顔を埋めた。リィは苦笑するしかなかった。気がついたのか、と思う。言葉を探すうち、サイファが顔を上げリィの髪に触れた。 「髪も」 愕然と、としか言いようのない顔をした。リィは黙って彼を抱きしめる。 「そんな顔すんなって」 「でも」 「人間だからな」 「リィ、嫌」 「そりゃ、百年も経ちゃあ白髪も生えるっての」 わざとらしく笑い飛ばした。自然に聞こえるとは思えなかった。サイファは哀しげな顔をして、リィの背中に腕を回す。 「リィ、死なないよね」 「勝手に殺すな。まだそんな年じゃねぇぞ」 「でも……」 「あのな、可愛いサイファ。人間ってな、そんなに簡単にくたばんねぇの。だいたいまだ死ぬよう年じゃない。俺は魔術師だぞ」 「だから?」 頼りない声。この神人の子を残していつかは死ななければならない。それが今からつらくてならなかった。自身で言ったよう、まだ遠い先のことであったとしても。 「魔術師ってのは、魔法に接するせいだろうなぁ、長生きなんだよ、普通の人間よりずっとな」 「本当?」 「お師匠様を信じなさいって」 「……うん」 顔を上げたサイファがすぐ目の前で自分を見つめている。隠し切れない動揺が表情に現れてしまう前、リィはサイファを腕から離す。 「リィ」 けれどサイファはまたすがり付いてきた。リィは苦笑し、顔が見えないことを祈りながらすっぽりと抱きしめた。 「可愛い俺のサイファ、まだずっと一緒だからな。そんな顔すんなって」 「ずっと一緒にいて」 すぐには答えられなかった。リィは深く息を吸う。嘘や誤魔化しなど、通用しないだろう。そのほうが遥かにサイファを傷つけてしまう。 「お前が望む限り。俺が生きてる限り」 「死なないで」 「……ま、できるだけ長生きする努力はしよう」 それ以上のことは言えなかった。約束などできない。サイファはそれを知ったのだろう。黙ってうなずくしかなかった。 「リィ」 「うん?」 「ひげ。剃ってきて。痛いもの」 まるで自分のようだ、リィは思う。それほど彼はわざとらしい顔をして笑い、離れていった。 「お茶、淹れようか?」 「あぁ、そうしてくれ」 「じゃ……」 「その間に剃ってくるから」 「うん」 体をひるがえすサイファの背に向かってリィは思わず声をかけていた。 「サイファ」 「なに?」 不思議そうな顔を作って振り返る。いっそ今しかない。リィはそれを悟る。 「話が、ある」 「お茶飲みながらね」 ふっと微笑ってサイファは消えた。話など聞きたくない、ありありと彼の顔に書いてある。けれど今を逃せば一生言えないだろう。 「馬鹿か、俺は」 それでもいい、そう思う。それでは嫌だ、心が叫ぶ。サイファを取るか、自分を取るか。自分自身であり続けることをリィは選んだ。それでこそ、サイファと共にいる資格がある、そうであることを願って。 居間を後にし、リィは鏡の前で顎先を撫でた。髪と同じ銀色のひげは、確かにじっと見なければわからない。が、間違いなく白い物が混じり始めていた。 「年取らない方法があるなら、そうしたいさ」 自嘲混じり呟いてひげを剃る。 不老不死。神人が降臨して以来、それは人間の希求するものとなった。死ぬことも老いることもない存在がいる。神人の子が現れて、確実なものとなった。人の血に神人の血が混じれば、地上の生き物も死なないのだと、人間は知ってしまった。 「わかっちゃいるさ」 リィには叶わぬ願いであることが。すでに生まれてしまった身。いまさら神人の血を欲してもどうなるものでもない。 あるいは何か方法がないものか。せめて死なない方法が。サイファと出逢ってから、リィはそれを探し続けた。何もなかった。そして先人たちが探求し尽くしたこともまた、知った。 死ぬことのない神人の子らはいつか旅に出るのだと言う。還ることのない旅の行き先はどこなのだろうか。そこに行きたいと願う。出来得ることならばサイファと共に。けれど死すべき定めの人の子が共に旅立ったなど、聞いたこともない。 「痛っ」 己の中に埋没しすぎて手元が狂った。鋭い剃刀で顎を傷つけてしまった。 「まぬけ」 鏡の中には情けない顔をした男がいた。どうにもならない運命を、打破することもできず、諦めることもできず。 「サイファ……」 鏡の男に手を伸ばす。同じように伸びてくる手。無様で、やるせない。 「お前を、泣かせたくない」 呟いてみた。泣くのはどちらだろう。自分か、彼か。自分が死んだとき、彼はどうするのだろう。 「俺だって、お前ほっとけるかよ」 拳を握り込む。痛みを感じるほど強く。白い指先が鏡に映った。深呼吸を一つ、二つ。リィは目を閉じ、仰のいた。 運命など、信じたくない。定命の命など、なぜあるのか。いっそ、彼と共に死ねたなら、このどうしようもない思いも収まるのだろうか。 「馬鹿だな」 リィは鏡に背を向ける。サイファを死なせることなど出来なかった。彼の運命に逆らって、命を絶たせることなど出来なかった。 運命など、そう言った口でリィは同じようサイファには彼自身の運命に従わせようとしていた。それしか、選びようがなかった。 「リィ、遅い」 テーブルの前、サイファが待ちくたびれた、そんな顔をして微笑んでいる。まだほんのわずか、憔悴の色があった。それほど自分の側にいたいのか、そう思えば心が痛む。 死すべき定めの人の身である自分。叶わぬ思いに身を焼く自分。それなのにサイファはずっと側にいたい、そう言っているのか。隠された思いを知ったなら、彼はどんな道を選ぶのだろう。 「すまん」 けれどリィはそれを知らせようとは微塵も思わなかった。サイファが幸福であるならばそれで充分。自分の手で彼の幸福を奪うことだけはしたくなかった。 それが偽りのものであったとしても。リィはそう思った自分を否定する。偽りではない。この穏やかな日々も、あるいはひとつの幸福の形。 「リィ?」 隣に座って彼の髪に手を伸ばす。くすぐったそうに笑う声。リィはそれを聞いて目を閉じた。 「どうしたの?」 「相変わらずお前は可愛いな、と思っただけだ」 「なに、それ?」 「別に、可愛いサイファを可愛いって言ってなにが悪い」 「やめて」 「どうして?」 からかいの口調にサイファが口許を緩め、それから憤って見せた。 「恥ずかしいでしょ」 言って髪を撫でるリィの手を振り払う。 「誰も聞いてねぇだろ」 「そうだけど」 「じゃ、いいだろうが」 「……うん」 唇を軽く噛み、そっとうつむく。仄かに赤みを帯びたサイファの目許だけが見えていた。リィは微笑んでサイファの髪をかきあげる。 「リィ?」 お前が微笑っていられるなら、どんなことでもする。そのためになら、どれほどの嘘でもつく。リィは心のうちで彼に誓う。 「あ……」 サイファが目を見開いて手を伸ばしてきた。内心を見透かされたか、とリィはぎょっとし咄嗟に体を引きかけた。 「切れてる」 指先が顎に触れた。サイファの冷たい指の感触に、体が震えた。リィは痛みのせいだ、と心に呟いていた。 |