今朝のリィはどこかおかしい、サイファは思っていた。いつも表情豊かな彼なのに、今朝に限って顔が強張り口数も少ない。 「リィ?」 「なんだ」 「どうしたの」 「あとでな」 やはり軽口のひとつも言わない。そういえば昨日から何か変だった、とサイファは思う。あのようにたくさんの呪文を試させられたことはなかった。 それが今日まで後を引いているのだろうか。サイファは思い、そしてわからないとかすかに首を振る。 「リィ、お茶は」 「もらう」 なにを思い悩んでいるのかサイファにはわからない。またすぐいつもの彼に戻るだろう。けれどやはりつまらなかった。 彼の好きな茶でも淹れれば気が晴れるのだろうか。サイファはそっとミルク缶を傾ける。その顔がほころんだ。リィを見れば彼は気づいてもいない。 「つまんないの……」 呟いても聞こえた風もなかった。サイファは肩を落とし、缶の中から固まったクリームを取り出す。それを熱い茶に落としてリィの前に置いた。 「ありがとう」 けれどリィの声は上の空。サイファは顔をそむけて唇をそっと噛む。 「どうした?」 ようやくサイファの素振りに気づいたのだろう、はっと顔を上げてリィが問うた。 「別に。なんでもないもの」 「ごめんな。ちょっと気にかかることがあってな」 「なんでもないって言ってるでしょ」 「可愛いサイファ」 「なに」 「ごめんな」 「いいって言ってるでしょ!」 ぷいと顔をそむけて言うサイファはもう不機嫌ではなかった。横目でリィが微笑んで茶を飲むのを見ていた。クリームに気づいたのだろう、わずかにカップ掲げて見せた。 それにサイファは笑い、席を立つ。日課に手をつけようとすると、リィが止めた。不思議に首をかしげると、緊張した面持ちで彼は呪文室へとサイファを連れて行った。 「可愛いサイファ、試験だ」 扉の前で立ち止まり、リィは振り返って言った。 「試験?」 サイファは不思議そうに問い返した。試験ならば、いままでも受けている。けれど今朝はそれらとは質を異にするものらしい。リィの強張った顔がそれを語っていた。 そして今朝からのリィの異変の理由を知ったのだった。このことがリィの気がかりだったのか、と。わかってしまえば何と言うこともない。サイファはほっと息をついた。 「そう。言ってみりゃ、卒業試験ってとこだな」 「どういうこと。私は……」 「合格しても出てけとは言ってない。いつまでもここにいていいんだ。わかってんだろ」 安心したのも束の間、一瞬にして不安になったサイファに向かい、リィは苦笑する。その言葉に吐息を漏らしたサイファの肩に手を乗せ、リィは真剣な顔をした。 「でも、難しいからな」 「努力する」 真面目にうなずくサイファの頭をリィは撫で、そして扉の前に押し出した。 「課題は呪文室からの脱出。期限は三時間」 それだけを告げ、リィは扉を開ける。サイファは後ろも見ず入っていく。扉が閉まる瞬間、かすかに振り向いて笑った。 「頑張れよ」 閉ざした扉の向こう側、聞こえないことを知っていてリィは言う。そっと扉に手を触れた。そして最後の封印を施す。 サイファならば難なくこなすだろう。気がつきさえすれば。それを思ってリィは微笑んで歩きだす。 呪文室の封印は完璧だった。魔術師リィ・ウォーロックが施した封印だ。易々と突破できはしない。力技ではまず間違いなく無理だった。たとえそれが神人の子であろうとも。 「どうやったら気づくかね」 知らずリィはほくそ笑む。突破点はただ一点。サイファがいつ気づくかと思えば楽しみで仕方ない。 「まぁ、あいつのことだからなぁ」 この自分の封印さえ簡単に抜け出してしまうかもしれない。幾らかは情けなく、幾らかは嬉しい。リィはそっと胸元を押さえた。硬い、小さな物がそこにあった。 「楽しみだよ、可愛いサイファ」 彼はいったいどんな手段を取るだろうか。突破点は一つでも、それにさえ気づけばあとの手段は様々だ。そこに魔術師の個性が表れると言っていい。 リィは三時間、と区切った時間があるいは長すぎたかもしれない、と思いはじめていた。きつく拳を握って首を振る。それから大きく深呼吸をした。 「まったく」 苦笑して呟いた。まるで自分のほうが試験を受けている気分だった。むしろその方がずっと気楽だっただろう。 「お師匠様も楽じゃないな」 あえて笑い飛ばして書庫へと向かう。欲しい本を見つけるのに、どれくらい時間がかかるだろう。リィは知っていた。すぐだと言うことを。 案の定、本はあっという間に見つけてしまった。そのために分類してあるのだから文句も言えない。落ち着かない気持ちを抱えたまま、茶でも飲もうと居間へ足を向けた。 居間の扉を開けた途端、風が吹き付ける。はっとしてリィは窓を見る。黒髪がなびいていた。 「サイファ」 「どこに行ってたの、リィ」 振り返ってサイファが微笑った。風に乱れた髪を押さえ、顔を顰める。それからテーブルの上を指しては、茶の用意ができていると、と示した。 「どこって……お前なぁ」 「なに?」 「どれくらいかかった?」 「出てくるのに? 三時間きっちりかかったもの。あなた、陰険。気づかなかった」 言ってサイファは再び顔を顰める。今度は呪文室でのことを思い出してだろう。 「ほう、で?」 リィは驚きを抑えて問う。強い風に鎧戸が揺れている。窓に手をかけ、閉めてしまえば薄明かり。サイファが魔法の明りを灯していた。 「あなたのした封印は完全だったもの」 「当然だ」 「でも一箇所だけ開いてたから」 「どこが?」 「時間」 単純明快な答えを返し、サイファは肩をすくめる。それから目を上げ、言葉を続けた。 「だから、封印される前に跳んで、部屋を出て、また時間を跳んで戻ったの」 それからあってる、と首をかしげた。リィは黙って彼の頭に手を乗せる。そっと髪をかきあげ、額にくちづける。 「リィ?」 仄かに色を帯びた声に自分の行為をリィは知り、たじろいだ。それを面に表さないよう心して微笑む。 「正解だ」 言葉にサイファが笑い声を上げて抱きついてきた。屈託のない声にリィは喜び、そして胸が痛む。 サイファが取った手段は正しかった。その才能にわずかばかりの嫉妬を覚えはするが、師としてそれをリィは喜ぶ。よもや今現在を出現点に選ぶとは、それができるとは思ってもいなかったが、そうしたサイファが心から誇らしかった。 「では問題」 「なに?」 「いま、あの呪文室を開けたら、どうなってると思う? お前は三時間あの部屋で悩んでいたはずだが」 「誰もいない」 「なぜ」 「いまここにいる私が主。呪文室にいた私は従。私がここにいる以上、呪文室には誰もいない」 「正解」 「よかった」 ほっと胸をで下ろす仕種がわざとらしい。リィはたしなめるよう、軽く手を叩きそれでも一緒になって笑い出す。 それがわかっていれば安心だった。サイファにはっきりと言ったことはない。けれどきちんと教えたことを理解していたのだとわかってリィは安堵する。 もしも呪文室にいまもいる、と答えたならばまだ安心は出来なかった。仮に幻影をかけサイファ自身が二人になったとする。理解していなければサイファは同一性を失い、存在に混乱をきたす。最悪の場合、消滅の危険さえある。 リィはサイファのために習得を喜ぶ。反面、自分のためには悲しんだ。まだまだずっと手元に置いておきたい、と。 「サイファ」 真剣な声に、リィの胸に憩っていたサイファが目を上げる。すっと青い目に不安が走るのをリィはなだめるよう微笑んだ。 「もう、お前に教えることはないよ」 「リィ。どういうこと」 「だから、出てけなんて言ってないだろ」 「でも、そう言ったに等しいじゃない、私……」 「だから! お前は俺の側にいるんだって。お前がいたいだけずっと」 「リィは?」 「うん?」 「私と一緒にいたくないの」 言ってサイファは体を離した。唇を引き結び、責めるようリィを見つめている。リィは目を閉じてしまいたくなる。それをとどめるにはなんと努力が必要なことか。 「馬鹿だな。一緒にいたいに決まってるだろ」 「私がいたいだけって言ったもの」 「俺はお前と過ごしたいよ、できることならずっとな」 その言葉の意味が彼にわかるだろうか。リィは心が沈んでいくのを感じている。叶わない願いに体中が軋んだ。 「本当?」 「お師匠様が嘘つくかって」 笑い飛ばせばふっと緩む気配。目の前でサイファが微笑んでいた。彼はこの自分と共に過ごしたいと言っている。人間である自分の一生は、神人の子にとっては瞬きほどの時間だろうに。 「私はずっとリィと一緒だもの」 寄り添う体をそっと押し返せば不満の声が上がった。リィは苦笑し、懐から小さな物を取り出した。 「なに?」 「手。出せよ」 言って背後からサイファを抱いた。ほっそりとした白い指にリィは指輪を嵌める。あの日、サイファがしたような無造作なそれではなく、触れただけで壊れてしまいそうなものを扱うよう、そっと。 「綺麗」 サイファが手を掲げて指輪を見た。無骨な金の台に収まった瑠璃石の指輪だった。 「ま、卒業の証ってとこだな」 リィは彼の肩に顎を乗せ、耳許で笑う。その頬に添うよう、サイファが頭を傾けた。 「ねぇ、リィ」 「うん?」 「エンチャントしてあるわけじゃないね?」 「あぁ、特に魔法はかかっていない」 「じゃあ、なぜ?」 サイファの問いにリィは一瞬息を詰め、そして答える。 「いずれ、お前の前に運命の瑠璃石が現れる。それまでの仮のお守りとでも思ってりゃいいさ」 「運命? お守り?」 意味がわからないと首をかしげるサイファの髪にリィは軽くくちづける。リィだとて完全に理解しているわけではない。啓示を受けたとしか言いようがないものだった。 「瑠璃石なら、もうあるもの……」 ぽつり、小声でサイファが言った言葉にリィは心を奪われた。 「あなたがいるじゃない」 わずかに顔を振り向けて、サイファがリィの頬に触れた。微笑んで瑠璃色の目を覗き込む。それこそリィの願っていたことだった。自分が彼の運命であればいい、叶わないと知りつつも。 |